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>従って「分かり易い話」でしか世界の人々の認識は更新されないと思っております。
それは判り易さの強制だと思います。人間には小難しく喋る権利もあれば、
わけのわからない方言を喋る自由もあるでしょう。
最も合理的な人(秀才、選良)を上位に置く序列化を認めるわけにはいきませんね。
何某かの「民族的母国」語や「国際」語のみならず、表現とか表現内容まで
規制したいのでしょうか(警察や法廷で、方言や、学術語で証言したらいけないのか)。
>これは分断工作の逆の作業です。
たしかに、こちらは「併呑」作業の逆の工作かもしれない。
できれば工作というより、呼び掛けまたは独り言といってもらえると。
なにしろ、逆構築の作業において
自分がどうあるかという自己確認をすることが、「自分の人生において」有効ではないかと思うので、
共同主観よりも自分の意識革命という意味で完結しているはずですね。
つまり、ここでは、自分というものが「運動単位」として完結しているのですね。
人を利用するのが諸権力だとすると、完結する者は人を働かしたり、ゾンビのような多数化運動に、
巻き込んで自分の理想の為に使ったりは、しなくて済むでしょう。
人をどうこうすることに力点を置くと、強制または矯正めいてくるでしょう?
まあ右も左も強制・強要が好きなのですね、それなら深部権力の洗脳のほうがスマートかも。
>大多数の主観に対して働き掛ける作業こそに革命的意義があるのです。
大多数がどうしたのでしょう。神経で接続されてでもいるのでしょうか。
大多数とて、個個別別の人間に過ぎないでしょう。
仮に一時合意をみても、気が変わるかもしれないし、
そうなれば全員一致は振り出しに戻りますよね?