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         悪口を言う人がおったら拝むのや 「転載」
http://www.asyura2.com/0510/lunchbreak6/msg/438.html
投稿者 SV問題 日時 2006 年 3 月 17 日 17:58:42: cY3WTwUQzcbhA
 

(回答先:            いちいち投稿することでもないか、チャイナゲート、1・2ケムログ便利リンク 投稿者 防護マスクの着用 日時 2006 年 3 月 13 日 19:13:40)

「転載」
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/tsubuyaki09.html#

2006.03.08 ● 悪口を言う人がおったら拝むのや
2006.03.06 ● 大難は小難にすることができる
2006.03.03 ● フリーメーソンの存在を信じますか?
2006.02.27 ● 天理教の「おふでさき」解釈D 完結
2006.02.22 ● 天理教の「おふでさき」解釈C
2006.02.20 ● 天理教の「おふでさき」解釈B
2006.02.16 ● 天理教の「おふでさき」解釈A
2006.02.13 ● 天理教の「おふでさき」解釈@
2006.02.08 ● アラン・カルデックの『天国と地獄』
2006.02.06 ● 肉体のまま異次元に行き来できる?
2006.02.03 ● 2012年まで売れ続ける本?
2006.02.01 ● 「終末試験」は既に始まっている
2006.01.26 ● 『大本神諭』をアップしました
2006.01.21 ● 「三分も助ける身魂がないぞよ」
2006.01.17 ● 三千世界一度に開く梅の花






悪口を言う人
● 悪口を言う人がおったら拝むのや   2006年3月8日(水) [TOP]
  前回の「つぶや記」をご覧になったある方からお便りをいただきました。その方はお父さんが天理教の文教会長をなさっているとのことで、天理教について大変くわしい方です。
  そのお便りの一部を以下にご紹介します。

最新ダイアリーで
他人の悪口を言うと、その人のカルマを自分がもらってくることになるのです。人から悪口を言われたら喜ばないといけないのです。
とありますが、
天理の書物で「神に近づく道」(渡部与次郎)というものにも似た文章があります。

悪口を言う人が恩人(という小題もくじの中で)
・・・・・・・・・・・
その中でも、世界始まって以来誰一人言っていない世界いちれつ陽気ぐらしへの決め手、切り札となるお言葉と思われる一つがある。
「悪口を言う人がおったら拝むのや その人がこちらのいんねんを取ってくれる恩人やで」

というものです。
真理はひとつですね。

  天理教の神さま(=親神様)も、『日月神示』と同じことをおっしゃっているのです。こうしてみますと、「他者(=人とは限らない)の悪口を言ってはいけない」というのは単なる道徳律というより宇宙の法則と言うべきかも知れません。
                         ☆ ★ ☆
  さて、本日は「カルマの法則」シリーズの第2話としまして、当サイトにもアップしております『魂との対話』(ゲーリー・ズーカフ著/サンマーク出版)の中にある「カルマ」についての記述を取り上げてみたいと思います。

■あなたは永遠に責任から逃れられない

  私たちのほとんどは、「自分の行動のいくつかには責任があるが、そのすべてに責任があるというわけではない」というアイデアに慣れ親しんでいる。たとえば、自分が何かをして周囲の人たちと仲がよくなったときには、それを自分の手柄だと考えるが、結果的に彼らと議論になるような場合には、それは自分のせいではないと考える。

  あらゆる行動、思考、フィーリングが、意図によって動機づけられている。意図は、何らかの結果と一体となって存在する原因である。もし私たちが何らかの原因にかかわったとしたら、私たちがその結果とかかわらないことは不可能である。このようにきわめて深いレベルで、私たちは、自分のすべての行動、思考、フィーリングに関する責任を負わせられている。
  私たちは、自分の意図の果実のすべてを、みずから食べなくてはならないのである。よって、自分のさまざまな意図を認識するとともに、どの意図がどんな結果をつくり出すかを整理し、自分がつくり出したい結果につながる意図を選択することは賢いことである。

  他人を嫌悪する人間は、他人からの嫌悪を体験することになる。他人を愛する人間は、他人からの愛を体験することになる。キリストが「山上の説教」のなかで行なった、「自分がしてもらいたいと思うことを、人にしてあげなさい」という教えは、カルマの力学にもとづいた行動指針である。個別化されたカルマの法則は、「あなたは自分が世界に与えたものを、世界から受け取ることになる」といったところだろう。
  カルマは道徳的な力学ではない。道徳は人間が創造したものである。宇宙はけっして裁かない。カルマの法則は、私たちの道徳システムの内のエネルギーバランスをふくむ、あらゆるエネルギー・バランスを支配している。

  結果をまだ生み出していない原因のすべてが、まだ完結していない出来事である。それはアンバランスなエネルギー状態にあり、バランスがとれる状態に向かう過程にある。そしてそのバランスは、必ずしもひとつの生涯のなかでとられるとはかぎらない。
                ――『魂との対話』(ゲーリー・ズーカフ著/サンマーク出版)

  いかにもキリスト教的な説明のように感じられますが、カルマの法則を大変わかりやすく表現しています。
  私たちのすべての「行動」「思考」「フィーリング」には必ず「意図」が存在していて、その意図がそれにふさわしい“結果”を生み出す“原因”になっているということです。この中に「言葉」が含まれていませんが、言葉も行動の一つととらえれば、まさに仏教で教える「身・口・意」が“因”となって“果”を生み出すことを述べているわけです。
  そして、「結果を生み出していない原因はまだ完結していない出来事で、それはアンバランスなエネルギー状態にあり、バランスがとれる状態に向かう過程にある」ということです。しかも「必ずしもひとつの生涯のなかでバランスがとられるとはかぎらない」と述べています。私たちが過去世でつくり出した原因の結果が現在の人生である――と考えることができるのです。
  この『魂との対話』は「全米で300万部を超えた驚異的なロング・ベストセラー」と本の帯に書かれていますが、わが国ではそれほどヒットしなかったようです。それは、もしかしたら翻訳(の回りくどさ)に問題があるのかも知れません。しかしながら、内容は大変深淵な真理を述べていますので、ぜひ手にとっていただきたい本です。当サイトにもできるだけ多くの文章を拾い上げる目的で「見出し」部分はリストアップしています。
  なお、余談ですが、この本とよく似たタイトルの別の本がシリーズで出されています。よく売れているということでしょう。私も何度か書店で手に取り、また1冊は購入して読んでみましたが、こちらは「百の真理に毒一つ」の本だと判断しました。
  誰にもわかるようなよいことを書いていますが、その中に大変危険な「嘘」が混入されているからです。これは料理に混ぜられた「ヒ素」のようなもので、知らずに食べているといつの間にか精神が犯されていく危険性があるのです。
  最近では、ここでも一度ご紹介した『天国と地獄』もその類の本だとわかりました。この本の中にある「死後の世界を支配する法律・33箇条」をご紹介するつもりで入力を始めたのですが、すぐに断念しました。それは、あらためて読み返したアラン・カーデックの既刊『霊の書』(桑原啓善・訳/潮文社)とは似ても似つかぬ波動の本だったからです。
  そういうわけで、お約束していました「死後の世界を支配する法律・33箇条」は当サイトには取り上げないことにいたします。ご了承ください。
                       ☆ ★ ☆
  さて、本題に戻しまして、最後は以前にも当「つぶや記」でご紹介したことのある『チベットの生と死の書』(ソギャル・リンポチェ・著/講談社)からの抜粋を再掲します。こちらはいかにも仏教的なカルマの説明となっていますが、内容は上記の『魂との対話』とそっくりであることがおわかりになると思います。まさに真理は一つなのです。

  カルマは何を意味しているというべきだろう? それは、わたしたちが身体で、言葉で、心で行なうことが、すべてそれに応じた結果をもたらすということを意味している。
  「たとえわずかな毒であっても、死をもたらすことがあり、たとえ小さな種であっても、大樹に育つことがある」とは、師たちのあいだで語り伝えられた言葉である。それをブッダはこう言い表す。
  「悪行を、単にそれが些細なものというだけで見過ごしてはいけない。小さな火花ひとつで、山ほどもある積みわらを焼きつくすことができるのだから。ささやかな善行を、それが恵みをもたらすことはあるまいと、見過ごしてはいけない。小さな一滴の水の雫(しずく)も、やがては大きな器を満たすのだから」。
  わたしたちの行為の結果は今はまだ熟していないかもしれない。だが、いつか必ず、ふさわしい時と場所を得て、それは成熟する。普通わたしたちは自分のしたことを忘れる。そしてはるか後になって、その結果がわたしたちに追いついてくる。その頃にはそれを原因と結びつけることはできなくなっている。(中略)
  わたしたちの行為の結果は遅れてやって来る。来世になることもある。そして、その原因をひとつに特定することはできない。なぜなら、どんな出来事も、ともに熟した多くのカルマのきわめて複雑な複合体であるからだ。そのためわたしたちは、物事は「偶然」起こると考え、すべてがうまくいくと、それをただ「幸運」と呼ぶ。(中略)
  ブッダが言ったように、「今のあなたはかつてのあなたであり、未来のあなたは今のあなた」なのだ。パドマサンバヴァはさらに言う。「過去世の自分を知りたければ、今の自分の状態を見ることだ。来世の自分を知りたければ、今の自分の行ないを見ることだ」。
  つまり、来世でどのような誕生を迎えるかは、現世における自分の行為の質によって決まるということである。ただし、行為がどのような結果をもたらすかは、ひとえにその行為の裏にある意志や動機によるのであって、行為の大小によるのではない。
            ―― 『チベットの生と死の書』(ソギャル・リンポチェ・著/講談社)

  これをもちまして「カルマの法則」シリーズ第2話を終わらせていただきます。今回は少し他の書籍の悪口を言ってしまいましたことを反省しつつ‥‥。



大難は小難に
● 大難は小難にすることができる   2006年3月6日(月) [TOP]
  『大本神諭』や『日月神示』あるいは天理教の「おふでさき」などの各神示は、これから終末の大峠(2012年12月)までの間に、私たち人類はそれぞれのカルマの清算を済ましておかなければならないと教えています。
  カルマの清算は、私たちが新しい世界(=ミロクの世=神の国)へと移行(アセンション)するために、避けることのできない宿題ということができます。
  しかしながら、多くの人はそんなことには全く無関心で、毎日お金儲けの話や、自分の生活をエンジョイすることに心を奪われ、カルマの清算をするどころかますます新しいカルマを“生産”している有様です。子供のころの夏休みの宿題のように、遊びに夢中になっていて学校が始まる前夜にあわてて一夜漬けで宿題に取り組むということでは、もう間に合わないと言われているのですが‥‥。なぜなら、大峠が近づくにつれ、のんびりと宿題に取り組めるような平穏な世の中ではなくなるからです。
  そのときに慌てて神頼みに走るのは、たぶん私たちの守護神さまでしょう。霊界において「助けてください!」と神さまに泣きつくことになるのでしょうが、そのときではどうしようもないということが、『大本神諭』にも『日月神示』にも繰り返し述べられていました。しかも、今回は「末代のこと」と述べられています。今回の終末試験は卒業試験ですから、落第した人は二度と再試験のチャンスはなく、魂の居場所が永遠に定まってしまうということです。私が「高をくくってはいけません」と警告的に申しあげているのはそのためです。
  ということで、この「つぶや記」をご覧のみなさまには「釈迦に説法」かもしれませんが、一人でも多くの人がカルマについての正しい理解をしていただけるように、これからしばらくは「カルマの清算」を主たるテーマとして綴っていきたいと思います。
  なお、私の『2012年の黙示録』(当サイトの「フツーの人が書いた黙示録」)では、《奥義編》に「人類のカルマはどうすれば清算できるのか」として詳しく説明しています。私の結論はすべて言い尽くしているつもりですので、そちらももう一度お目通しをいただきたいと思います。
                       ☆ ★ ☆
  本日は、まず私が最も信頼している神典の一つ『日月神示』の中の神示を選んでご紹介します。読んでいただけばわかる内容ですが、少し理解のためのポイントとなる解説をつけさせていただきました。神示は『太神の布告』(岡本天明・著/コスモテン・パブリケーション)からの引用で、現代仮名づかいに改めています。

神にささげずにむさぶるからメグリつむのぢゃ。メグリが不運となり、病となるのぢゃぞ。運ひらくのも食物つつしめばよい、ことばつつしめばよい。
悪く言われるとメグリ取ってもらえるぞ。悪く言うとメグリつくるのぢゃ。
心にメグリ積むと動物のイレモノとなるぞ。神のイレモノ(を)動物などに自由にされていて、それでマコトの神の人間と申されるか。わからんと申してもあまりであるぞ。

  食べ物は少食がよい、言葉も不必要な言葉を発信しないほうがよい、ということです。饒舌はメグリ(カルマ)をつくり出すということが述べられています。他人の悪口を言うと、その人のカルマを自分がもらってくることになるのです。人から悪口を言われたら喜ばないといけないのです。自分の身に不幸な出来事として降りかかってくるかもしれないカルマを、その人に引き受けてもらうわけですから、大変ありがたいことなのです。
  自分の悪口を言われて腹を立て、同じように相手を悪く言うと、せっかくとってもらったカルマをまた奪い返してくることになります。神霊界の法則は本当によくできていることがわかります。
  心にカルマが積もり積もっていくと、波動が粗くなり、動物霊のような低級霊と波長が合って、そのうちに肉体を自由に使われるようになるということです。「悪魔がささやいた」と言って凶暴な犯罪に及ぶような事件が頻発していますが、加害者は間違いなく凶悪な霊に憑依されていたと思われます。
  心や言葉の波動がある特定の傾向をもつと、それは心の癖となってカルマを強固なものにします。仏教ではそれを「岩に書いた文字」と表現しています。「水に書いた文字」や「砂に書いた文字」はすぐに消えますが、いったん岩に刻むと簡単には消えなくなります。その「岩に書いた文字」のことを「カルマ」と思っていただければよいのです。
  岩の上に釘などで何度も何度も文字を書きますと、そのうちに固い岩が削れて文字が刻まれます。それがカルマをつくりだす姿なのです。「釘で岩に文字を書く」ということが、たとえば「いつも他人を悪く思う(言う)」ということであり、「いつも自分を不幸だと思う(ぼやく)」ことなのです。

その人間にメグリなくしてもメグリ負うことあるぞ。人類のメグリは人類の誰かが負わねばならん。一家のメグリは一家の誰かが負わねばならん。果たさねばならん。善人が苦しむ一つの原因であるぞ。神の大きな恵みであり、試練であるぞ。

  カルマの清算という場合、自分のカルマだけとは限らないのです。先祖代々のカルマ、家族のカルマ、日本という国のカルマ、人類のカルマ、地球のカルマなど、私たちはたくさんのカルマの清算をしなくてはならないのです。
  かつて、ある著名なコンサルタントが「私にはもうカルマは残っていないらしい」と著書に書かれていましたが、それはカルマの意味をまったく理解されていない証拠です。私たちがこの終末の時代に人間として生まれているということは、カルマの清算をするためであることを理解する必要があります。試練のない人生はないからです。「自分にはカルマは残っていない」と思った段階で、既に“傲慢”という新しいカルマをつくっていることになるのです。

むやみに腹が立ったり、悲しくなったり、くやくしなったりするのは、まだメグリあるからぢゃ。

  カルマは潜在意識に刻まれた心の癖ですから、ことあるごとに表面化(顕在意識化)しようと働きます。怒りや悲しみなどの感情がむやみに湧き起こるときは、心の底に沈殿しているカルマの内容がどういうものであるかを理解するチャンスと見るべきでしょう。

この道に入ってはじめの間は、かえって損したり馬鹿みたりするぞ。それはメグリ取っていただいているのぞ。それがすめば苦しくてもどこかに光見いだすぞ。おかげのはじめ。次に自信がついてくるぞ。胴がすわってくるぞ。心が勇んできたら、おかげ大きく光り出したのぢゃ。

  カルマの発散は、不幸な出来事(損に思うこと)が起こるという形をとります。そのことで心を曇らせると、新しいカルマをつくることになるのです。ですから、一見不幸に思える出来事は、それによってカルマを取ってもらっていると考える方がよいのです。
  今の世の中は、自分が得をする方法、他人よりも幸せになる方法を必死に追い求め、そういうことを処方する占い師や霊能者がテレビで人気を博していますが、それは視聴者に「カルマの増やし方」を教えていると言っても過言ではないでしょう。「大殺界」などの名称で人々を恐怖させるような占いを売り物にしている人のカルマは、どれだけ大きいものであるか想像もできません。
  今はむしろ、国や人類のつくったカルマまでも自分が引き受けようと思う気持ちを持つことが必要なのです。「我善し」でなく、世界の幸せを願うことが大切な時代を迎えているからです。

メグリと申すのは、自分のしたことが自分にめぐってくることであるぞ。メグリは自分でつくるのであるぞ。他を恨んではならん。祓いせよと申してあることは、何もかも借銭なしにすることぞ。借銭なしとはメグリなくすことぞ。昔からの借銭は誰にもあるのざぞ。それ払ってしまうまでは、誰によらず苦しむのぞ。人ばかりでないぞ。

  私たちのカルマは私たち自身がつくり出したものです。(もちろん、国民全部でとか、一家揃ってというように、複数の人たちと一緒につくり出したカルマもあります)ですから、不幸な出来事が起こったときに、他人のせいにしたり、他人を恨んだりしてはいけないということです。
  また、カルマには私たちがこの人生でつくり出したものだけでなく、過去世においてつくったものもあるということです。そのすべてを、これから終末までの間に清算してしまう必要があると述べられています。

メグリは一家分け合って、国中分け合って、借銭なしにしてくだされよ。

  一家のカルマは家族が分け合い、国のカルマは国民が分け合って、すべて清算していかなくてはならないのです。個人のカルマだけと思う「我善し」の心に陥らないようにしなければなりません。

今度は借銭なしになるまでやめんから、誰によらず借銭なくなるまで苦し行せなならんぞ。借銭なしでないとお土の上には住めんことに今度はなるぞ。

  「今度は」と二度も断ってあります。つまり、この世界をミロクの世にするためには、今回の大峠までにそのようなカルマはきれいさっぱりなくしてしまう必要があるということです。カルマの清算ができない人(魂)は、ミロクの世には住むことはできないと、はっきり述べられています。さて、そういう魂はどこに行くのでしょうか? (『大本神諭』では「根の国、底の国行き」となっていましたが‥‥)

神は大難は小難にすることできるのであるが、なくすることはできんぞ。

  私たちが心を入れ替えることによって、カルマがつくり出す大難を小難にすることはできるということです。たとえば「車の正面衝突事故」を引き起こすところを、「家の柱で頭を打つ」程度に変えることはできるという意味です。いずれも“衝突する”というカルマ(=心の癖)が形として現れたものですが、私たちの受ける被害は天と地ほどの開きがあります。柱で頭を打ったときに、「ああ、大難を小難にしていただいた」と感謝の気持ちが湧き起こるようになれば、「(他と)衝突する」というカルマ(=心の癖)は消えているはずです。
  ‥‥
  こんな感じで、カルマ三昧の「つぶや記」が続くことになります。どうか気長におつきあいください。



フリーメーソンの存在
● フリーメーソンの存在を信じますか?   2006年3月3日(金) [TOP]
  久しぶりに大阪・梅田の紀伊國屋書店に立ち寄ってきました。
  昨日の日経新聞の下段広告に、中丸薫氏の『この国を支配/管理する者たち』(徳間書店)が載っていましたので、それを購入するのが目的でした。しばらく店内を探し回り、やっと見つけたその本のすぐ横に、フリーメーソンを題材にした加治将一氏の『石の扉』(新潮社)が積んでありましたので、ついでにこの本も買ってきました。
  実は加治将一氏の本は、最近読んだ『あやつられた龍馬』(祥伝社)がとても面白かったので、前作の『石の扉』もぜひ読んでみたいと思っていたところだったのです。まるで中丸氏の本が引き合わせてくれたかのようでした。
  その『石の扉』のまえがきに次のような一文がありました。「陰の超国家権力」の一翼を担うといわれるフリーメーソンという組織を、私たちがどのようにとらえるべきかについて参考になるのではないかと思います。

■世界の謎、歴史の暗部
 それを解き明かす鍵は、フリーメーソンにあった。

  観たこともなければ、触ったこともない。にもかかわらず、ちゃんと存在している、というものがあります。
  幽霊のことではありません。
  実在するのですが認識できないものです。認識していないなら、その人にとっては存在しないのと同じことだと思うかもしれません。
  しかし、だからといって、自分に関係がないと考えるのは早計です。
  ちょっと飛躍しますが、たとえば地球の核を考えてみてください。核は磁場を形成しています。
  この磁場ですが、これまたみなさんは認識していないでしょう。しかし、これによって太陽からの熱から地球は守られているのです。磁場がなければ、数時間以内に地上は大火災を起こして生物が絶滅します。そんな重要なものであるにもかかわらず、核も、磁場も、だれも観たことも触ったこともないのです。
  そんな例はたくさんあります。
  人間の組織で言えば、CIAなどが代表的です。はたして、日本人で、CIAのメンバーと会ったことのある人が何人いるでしょう。にもかかわらず、我々は、CIAがあると思っているのです。
  新聞やテレビや映画が、その存在を伝えているにすぎませんが、彼らの力は絶大です。
  見えざる行為によって、世界を揺さぶる力さえ持っているのです。
  同じように、観たこともない、触ったこともない組織にフリーメーソンがあります。
  世界に400万人のメンバーを有するといわれている秘密結社ですが、彼らをほんとうに知っているという日本人はおりません。
  しかし彼らは、間違いなく存在し、世界の政治、経済に、文化に、少なからぬ影響を与えているのです。
  見えない秘密の世界が存在する。そして、そのパワーは想像がつかない。ちょっと不気味ですが、不気味であるがゆえに私はその謎に取り憑かれ、10年という長きにわたって追ったのです。
  本書はその軌跡を綴ったものです。
                        ――『石の扉』加治将一・著/新潮社
                       ☆ ★ ☆
  閑話休題。当「つぶや記」の今後のテーマを何にするかということですが、次回からは「カルマの法則」に関しての私の考えを、いろいろな角度からより詳しくご説明させていただこうと考えています。これまでご紹介してきた各神示に、終末の大峠までには、心の洗濯(掃除)によって身魂を磨き、私たちの善くないカルマをすべて清算しておく必要があると述べられているからです。
  カルマのことを『日月神示』では“めぐり”と表現していますが、天理教の「おふでさき」では“かやし”という言葉が使われていました。いずれも、私たちの「言葉(口)」「思念(意)」「行ない(身)」が一種のエネルギーとなって異次元に伝わり、それがプールされることによって“場”を形成し、やがてはそれがブーメランのようにこの三次元の物質世界に還ってきて、そのエネルギーの性質にふさわしい現象を引き起こすことになることを象徴的に表現した言葉です。
  たとえば「他人を憎む」という思念を発信している人には、ますます他人を憎みたくなるような出来事が起こり、いつも悲観的な考えを持っている人には悲しい出来事が、怒りっぽい人には怒りたくなるような出来事が、次々に降りかかってきます。これが「めぐり」であり、「かやし」の内容です。拙著『2012年の黙示録』の中では「泣き面に蜂」や「笑う門には福来たる」という諺を使って説明しました。
  また、『サタンが降りた』の中で桑原啓善さんは「黒いボールを投げれば黒いボールが、白いボールを投げれば白いボールが返ってくる」と、ボールに譬えて説明していました。仏教で教えられている「自業自得」や「善因善果・悪因悪果」も全く同じ意味です。新約聖書には「蒔いた種を刈り取らねばならない」と述べられています。
  最近とりあげた天理教の「おふでさき」では、私たちが「むね」と「くち」で表現したものを親神様が受け取って、それと同じものを「かやす」と擬人的に表現されてました。もう一度その部分を引用してみましょう。「おふでさき」の出典は『おふでさき通訳』(芹澤茂・著/天理教道友社)です。

★ おふでさき ★
 いまゝでハ神があらハれでたるとて まだしんぢつをしりたものなし
 このさきハどのよな事もしんぢつを をしへてをいた事であるなら
 それからハ神のはたらきなにもかも ぢうよぢざいをしてみせるでな
 しんぢつの神のはたらきしかけたら せかい一れつ心すみきる
 はたらきもいなかる事とをもうかな 心うけとりしだいかやしを
 このかやしなにの事やとをもうかな みちのりせんりへだてありても
 この事ハなにをゆうてもをもふても うけとりしだいすぐにかやしを
 このかやしなんの事やとをもうなよ せんあくともにみなかやすてな
 よき事をゆうてもあしきをもふても そのまゝすくにかやす事なり
 この事をみへきたならば一れつわ どんなものでもみなすみわたる

【なわの解釈】
  今までは神が現れ出たといっても、まだ本当のことを知る者はいない。これからはどのようなことでも、教えておいた本当の神の働きを自由自在にしてみせる。本当の神の働きを見せたら、世界中の人民の心はみな澄み切るだろう。
  神の働きはどういうものかと考えるであろうが、神は人間の心を受け取り次第に「かやし(お返し)」をするのである。この「かやし」は普通に考えられるようなものではなく、道のりが千里も隔たっていても返すのだ。何を言っても思っても、受け取り次第直ぐに返す。この「かやし」はどんなものかと思うな。善も悪もともに皆返すのである。善い事を言っても思っても、悪い事を言っても思っても、そのまま直ぐに返すのである。この法則が人民にわかるようになったら、だれでもみんな心が澄み渡るようになるだろう。

  それでは、次回からこのカルマに関しての大切なポイントを整理していきたいと思います。どうぞご期待ください



おふでさきD
● 天理教の「おふでさき」解釈D   2006年2月27日(月) [TOP]
  天理教の「おふでさき」の解釈シリーズの最終回です。
  これまでご紹介してきたものと合わせて、原本とした『おふでさき通訳』(芹澤茂・著/天理教道友社)に掲載されている「おふでさき」の10〜20%を収録したことになります。
  「おふでさき」全文はもっと膨大なものだと思いますが、内容的には同じ意味のことが繰り返し述べられていますので、ここでご紹介したものを読んでいただければ、発信されているメッセージの全体イメージはつかめるはずです。
  なお、「おふでさき」の解釈にあたっては上記の書籍を参考にさせていただきましたが、随所に私の独自の解釈を加えています。文責はもちろん当方にあります。
                       ☆ ★ ☆
★ おふでさき ★
 けふからハせかいを月日みさだめて むねのそふぢにかゝる事なり
 このそふぢうちもせかいもへだてない めゑめゑの心みなあらわすで

【なわの解釈】
  今日からは“月日(=親神)”が世界を見定めて、人民の心に蓄積しているカルマの掃除を始める。この“掃除”というのは、心の中もそとの世界も同じことなのだ。要するに人民一人ひとりの心(=潜在意識)にあるものを現象として現していくことになる。

  私は『2012年の黙示録』の中で、「カルマは人の潜在意識に沈殿した心の癖(=波動の傾向)である」と述べました。それは一種の精神的エネルギーとして蓄積されていますので、この物質世界に現象として表面化するのを待っているのです。
  そして、人がそのカルマの原因となるような心の使い方を続けるならば、さらにそのカルマは蓄積されていくことになります。それはひとくちに言えば「心配する気持ち」だとか「不安な気持ち」などで表現されるものから、人を憎んだり呪ったりする気持ちまでいろいろとあります。
  私の本の中では、「気持ち=心=念」と置き換えて、「懸念」「残念」「執念」「怨念」の4つを「マイナスの波動」すなわち「負のカルマ」として説明しました。それらはこの三次元の世界でさまざまな“不幸な現象”として表面化するのですが、その表面化するまでの時間がだんだん短くなっているというのが、これまで述べてきたことでした。
  それを『大本神諭』や『日月神示』には神さまの言葉として「時節がきた」と表現されています。つまり、ついに終末を迎えたので、これから大峠となる2012年に向かって時間がますます圧縮され、それにともなって別次元に蓄積されている個人や国、民族、人類全体のカルマが次々に、そして最後は一斉に表面化していくことになるということです。
  天理教の「おふでさき」にも、じっくり読むとまったく同じことが述べられていることがわかります。しかしながら、明治の初め、まだラジオ放送も始まっていない時代にあって、地方(今の奈良県)に住む一老女(=教祖中山みき)に憑かった神さまが、当時の人民に「世の終末」を伝えるには、言葉選びに大変苦労されたことと思います。
  神さまの言葉を受け取った側も、今日のようにマスコミから簡単に情報が手に入るわけではありませんから、言葉の中に述べられている内容を推し量ることには苦労されたことでしょう。しかも、「おふでさき」は短歌の形で言葉少なに表現されていますので、その解釈はさらに困難を極めたことと思います。芹澤茂氏による『おふでさき通訳』の訳文を読んでも、そのままでは理解できない内容がたくさんあります。
  そういう観点から、今日世の中に出回っている多くの情報をもとに、再度「おふでさき」の解釈を試みることは意味のあることだと思っています。天理教という宗教団体からすれば門外漢に過ぎない私が、畏れ多くも親神様のお言葉である「おふでさき」の解釈にチャレンジさせていただいたのはそういう判断に基づくものです。

★ おふでさき ★
 このはなしなにの事をばゆうならば にほんもからもてんぢくの事
 これからハせかいぢうを一れつに 月日そうぢをするでしよちせ

【なわの解釈】
  この話は何のことかと言えば、日本だけでなく中国やインドなどの外国も含め、世界中の人民の心を一れつに(=すべて)、この“月日(=親神)”が掃除をするということだ。このことを承知しておきなさい。

  この「おふでさき」に述べられている「人民の心の掃除」が、単に当時の奈良県に住む人たちや、日本の国民だけを対象にしているわけではないことがわかります。要するに人類全体の問題として述べられているわけで、このことからも並のレベルの神憑かり現象ではないことがうかがえます。

★ おふでさき ★
 いかほどにくどきことハりゆうたとて たれかきゝわけするものハない
 それゆへだんだんひがらたつけれと いつかこれやとわかるめハなし
 けふの日ハもふせへつゝがきたるから 月日でかけるみなしよちせよ

【なわの解釈】
  どれほど言葉で説明し、わからせようとしても、誰もわかるものがいない。そのためにだんだん時間が過ぎていくばかりで、いつになったらわかってくれるかめどが立たない。もう時節が来たから、“月日(=親神)”が出て行って人民の心の中の掃除にかかる。そのことを承知しておきなさい。

★ おふでさき ★
 このさきハせかいぢううハ一れつに よろづたがいにたすけするなら
 月日にもその心をばうけとりて どんなたすけもするとをもゑよ

【なわの解釈】
  これから先、世界中の人民はお互いに、すべての面で助け合いをするなら、その「人を助ける」という人民の心を受け取って、今度は“月日(=親神)”がその人民を助けてやろう。(これが「助けるものは助けられる」というカルマの法則なのである)

★ おふでさき ★
 なにもかも神のゆう事しかときけ なにをゆうてもちがう事なし
 しんちつにめつらしたすけをしへたさ そこでとのよな事もゆうのや
 このよふを初てからにない事を どんな事をもをしへたいから

【なわの解釈】
  何でも神の言うことをしっかりと聞きなさい。神の言うことはどんなことも間違いはないのだ。本当に珍しい“たすけ(=カルマの法則)”を教えたいので、いろんなことを言って聞かせている。この世界をはじめてから一度もなかった(終末に関する)ことを教えるのだ。

★ おふでさき ★
 けふの日にどのよな事もゆうほどに なにをゆうてもしよちしてくれ
 いまゝでも神のをもハくまゝあれど ひがきたらんでしかゑいたるで
 だんだんともふひがつまりきるからハ どんな事でもゆうておくぞや 

【なわの解釈】
  今日はいろんなことを言うが、すべて理解してほしい。今までにも神の思惑はいろいろあったが、時節が来てなかったので言うのを控えていた。しかしながら、いよいよ時節が迫ってきたので、もうどんなことでも言っておくことにする。

  「おふでさき」には、ここにあるように「ひがきたらんで」「もうひがつまりきる」という表現がよく出てきます。これは『大本神諭』や『日月神示』に出てくる「時節が来た」という言葉に対応していると見られます。つまり、「終末の大峠が近づく」という意味です。このことは、私が「おふでさき」を終末に関する予言だと断定する根拠の一つでもあります。

★ おふでさき ★
 けふまではどんなあくじとゆうたとて わがみにしりたものハあるまい
 この心神がしんぢつゆてきかす みないちれつわしやんしてくれ
 せかいぢういちれつはみなきよたいや たにんとゆうわさらにないぞや
 このもとをしりたるものハないのでな それが月日のざねんばかりや
 高山にくらしているもたにそこに くらしているもをなしたまひい
 それよりもたんたんつかうどふぐわな みな月日よりかしものなるぞ
 それしらすみなにんけんの心でわ なんどたかびくあるとをもふて
 月日にハこのしんぢつをせかいぢうへ どふぞしいかりしよちさしたい
 これさいかたしかにしよちしたならば むほんのねへわきれてしまうに

【なわの解釈】
  今日までは、自分が悪いことをしたら、どんなこともすべて自分の身に(“かやし”として)返ってくるということを知っている者はいないだろう。この原理について神が本当のことを言って聞かせよう。みんなよく考えてみてほしい。
  世界中の人民はみんな兄弟姉妹なのだ。お互いに他人ということは決してないのである。この元となる真理を理解できる者がいないので、“月日”は常々残念に思っている。身分や地位の高い者であっても社会の底辺にいる者であっても、みんな同じ魂なのである。それよりもぜひわかってほしいことは、人間が使っている体の諸機能はすべて“月日”から貸し与えているということだ。それを知らないものだから、人間心で考えて、人には身分の違いがあると思っている。
  “月日”としては、人間はみな同じ魂で、その体は神からの借り物であるということを、世界中の人民にしっかりわからせたいと思っている。これさえちゃんとわかってくれたら、もうお互いが傷つけ合うことになる根本原因はなくなってしまうはずだ。

  「人を傷つけることは自分を傷つけること」という新約聖書にも出てくる普遍の真理が述べられています。それは、「人の魂はみな繋がっているから」なのです。お互いに他人と思っている相手も、実は“神”という広大な海にできた別々の波であると見ることができます。その波ができて消えていくまでが一つの人生だということです。
  波はすぐに消えて海を構成する水となって還元されます。そしてまた新しい波となって生まれるのです。同じタイミングでできた波をみて、自分と他人、高貴な人と卑しい人、富者と貧者、といった区別をしますが、それはつかの間にできた波の形の違いでしかないということですから、傷つけ合ったり、いがみ合ったりすることは意味がないと諭しておられます。これは道徳律として述べられているのではなく、宇宙の真理が説いてあるのです。

★ おふでさき ★
 いまゝでハ月日とゆうてといたれど もふけふからハなまいかゑるで
 けふまでハたいしや高山はびかりて まゝにしていた事であれとも
 これからわをやがかハりてまゝにする これそむいたらすぐにかやすで

【なわの解釈】
  いままでは“月日”と名乗って説いていたが、もうこれからは名前を変えることにする。今日までは高い地位にある権力者たちが幅を利かして、この世の中を自由にしていたけれども、これからは“親”がそれに代わって世の中を自由にする。この親に反抗する者には、それ相応の報いをすぐに与える。

★ おふでさき ★
 いまゝてハ高山とてけんけんと まゝにしていた事てあれども
 これからハいかほどたかい山でもな たにそこまゝにさらにてけまい
 このさきわたにそこにてハだんだんと をふくよふきがみゑてあるぞや
 たんたんとよふぼくにてハこのよふを はしめたをやがみな入こむで
 このよふをはじめたをやか入こめば どんな事をばするやしれんで
 とのよふな事をしたとてあんぢなよ なにかよろつわをやのうけやい   
 この事をはやく心をしいかりと さためをつけてはやくかゝれよ

【なわの解釈】
  今までは高い地位にある権力者たちが威張りちらして、世の中を自由にしていたけれども、これからはどんなに高い地位の者でも、身分の低い人民たちを自由にすることは決してできないのだ。これから先は、身分の低い者の中に、“ようき=用木=新しい世の中を導く人材”がたくさん見えている。
  その“ようぼく=用木=ようき”には、これからはこの世界を始めた神がだんだんと入り込む(=憑依する=神憑かる)のだ。この世界を始めた神が入り込めば、どんな驚くようなことをするかわからない。しかし、すべては神が請け負ってやることだから、どんなことがあっても心配する必要はないのだ。このことを心にしっかりと刻んで、早く(心の掃除を)始めなさい。

★ おふでさき ★
 これからハこのよはじめてなにもかも ない事ばかりゆいかけるなり
 このはなしとこの事ともゆハんでな みのうちさハりこれでしらする
 どのよふな事でもわがみする事に 神のしらんとゆう事はわない
 けふの日ハみちがいそいでいるからな どんな事てもはやくみへるで
 それゆへにでかけてからハとむならん そこで一れつしやんするよふ

【なわの解釈】
  これからはこの世が始まってから一度もなかったことばかりを語るのだ。この話がどこかよその話を言ってるのではない。人民の身の回りに起こる不幸な出来事として現すのだ。どんなことでも人民がすることで神が知らないということはないのだ。
  今はもう(終末の大峠への)道が忙しくなって、どんなことでもすぐに現れるようになっている。だから、いろいろな現象が現れはじめてから(心の掃除を始めて)はどうにもならない。そのことをみんなによくわかっておいてほしいのだ。

★ おふでさき ★
 いまゝてハなにもゆうたりをもふたり まゝにしていた事てあれとも
 このさきわ神がしはいをするからハ とんな事でもまゝにてけんで
 にんけんのめゑにハなにもみへねども 神のめゑにハみなみへてある
 こしらゑをやるのハしばしまちてくれ とろみづなかいはめるごとくや

【なわの解釈】
  今までは何を言っても思っても、(すぐには“かやし”がなかったので)自由にできていたが、この先は神が(言葉や思念を)管理するから、言葉や思念を自由にはできなくなるのだ。人間の目には何も見えていないだろうが、神の目にはこれから先に起こることはすべて見えている。将来に備えて財産をつくるのはしばらく待っていなさい。そんなことをしても、(これからの大峠の天変地異によって)泥水の中に落としてしまうことになるからだ。

★ おふでさき ★
 もふけふハなんてもかてもみへるてな こくけんきたら月日つれいく
 けふの日ハもふぢうふんにつんてきた なんときつれにでるやしれんで
 つれてくも一寸の事てハないほとに をふくみへるがたれもしろまい
 いかほとのたかいところとゆうたとて もふけふからわもんくかハるで
 さあしやんこれから心いれかへて しやんさだめん事にいかんで

【なわの解釈】
  もう今日は何もかも見えているのだ。終末が近づいたら人民を(別次元へ)つれて行かねばならない。今日は十分に時節が迫ってきたから、いつ何時つれにくるかわからないぞ。つれていくと言っても少しの人数ではない。たくさんの人民をつれて行くことになるのだが、だれも(自分のことだとは)思ってないだろう。いくら高い地位にいる者であっても、もう今日からは忠告ではなく警告に変わる。さあもう心を決めなさい。いままでのような(自分さえ好ければよいという)心を入れ替えようと決心しなければいけない。

★ おふでさき ★
 月日にハどんなところにいるものも 心しだいにみなうけとるで
 いまゝでハとんな心でいたるとも いちやのまにも心いれかゑ
 いんぢつに心すきやかいれかゑば それも月日がすぐにうけとる
 月日にハせかいぢううハみなわが子 かハいいゝばいこれが一ちよ
 いまゝでハどんなものでもむねのうち しりたるものわさらにあるまい
 このたびハとんなところにいるものも むねのうちをばみなゆてきかす
 これまでハかへひとよにてへたてたら なにをゆうても一寸しろまい
 けふからハよこめふるまもないほどに ゆめみたよふになにをするやら

【なわの解釈】
  “月日”には、どんなところにいる者であっても、心の状態通りにすべて受け取るのだ。だから、いままではどんな(善くない)心を持っていたとしても、その心を一晩の間にもすっかり(善い心に)入れ替えれなさい。
  本当に心を入れ替えて善い心になったら、その心を“月日”がすぐに受け取る。“月日”にとっては世界中の人民はみなわが子だから、可愛いばかりなのだ。この(心の入れ替えという)ことが一番大事にしてほしいことである。
  今までは、だれも他人の心の内を知ることは全くなかっただろう。これから(新しい世になれば)、人の胸の内がすぐにわかるようにする。これまでの世では、壁一つ隔てていたら、言っていることが少しと言えども他人に知られることはなかった。今日からは脇目を振る暇もない間に、夢を見たと間違うような(驚くことを)が起こるようになる。

★ おふでさき ★
 月日にハせかいぢううのこどもわな かハいばかりをふもているから
 それゆへにせかいちううをどこまても むねのそふぢをしたいゆへから
 このそふぢどふゆう事にをもている たすけばかりをふもているから
 たすけでもあしきなをするまてやない めづらしたすけをもているから
 このたすけどふゆう事にをもうかな やますしなすによハりなきよに
 こんな事いまゝでどこにない事や このしよこふをしらしたさやで
 これまてハどこにたつねてもない事や このたび神がはじめたさやで

【なわの解釈】
  “月日”には、世界中の子供(=人民)は、可愛いとばかり思っている。だから、世界中の人民の心の中の掃除(=身魂磨き)をさせたいのだ。この掃除とはどういうことだと思うか。人民を助けるために必要なことなのだ。
  助けると言っても、不幸な出来事に遭わないようにするということだけではない。珍しい助けをしてみせようと思っているのだ。この珍しい助けとはどういうことだと思うか。これからは人間は病気もなく、死ぬこともなく、老いて体が弱るということがないようにするのだ。
  このような世になるということは、これまではどこにもないことだ。その証拠を早く見せたいと思っている。これまではどこを尋ねてもないことである。このたび、神がそのような世にしたいから(いろいろと述べてきたのだ)。

  これで天理教の「おふでさき」解釈シリーズを終わらせていただきます。
  すでにおわかりかと思いますが、結論から申しますと「おふでさき」で発せられているメッセージは、『大本神諭』や『日月神示』の内容と同一のものであることがわかります。「おふでさき」を“終末預言”とみなければ解釈できない内容がたくさんありましたが、私の場合は『大本神諭』と読み比べながら解釈を試みましたので、比較的スムーズに理解することができました。
  ただし、あくまでも「なわ・ふみひとの個人的解釈」ですので、みなさまは「おふでさき」原文と十分読み比べたうえで判断していただきたいと思います。
  そして、天理教の信者や関係者の方には、私のような門外漢が、大切な教典に関してこのような大胆な解釈を試みましたことをお許しいただきたいと思います。



おふでさきC
● 天理教の「おふでさき」解釈C   2006年2月22日(水) [TOP]
  天理教の「おふでさき」の解釈は今回で終わる予定でしたが、もうすこし続けたいと思います。今回は一挙にたくさんの「おふでさき」をピックアップして載せました。これで原本である『おふでさき通訳』の半分まで進んだことになります。後半部分にもぜひご紹介したい内容がありますので、もうしばらくおつきあいください。
  今回の中に「月日」ということばが繰り返し出てきますが、これはその後「おや」と言い換えられ、そのために天理教の神さまのことを「おやがみさま」と呼ぶことになります。つまり、天理教の元となる神さまのことです。それが「日月神示」の「日月」と共通していることにも要注目です。同系統の神さまということを意味してるいるようにも思われます。
  なお、ここでご紹介している「おふでさき」は『おふでさき通訳』(芹澤茂・著/天理教道友社)から引用したものです。解釈にあたってもこの書籍を参考にさせていただきましたが、かなり大胆に独自の解釈を加えています。文責はもちろん当方にあります。
                       ☆ ★ ☆
★ おふでさき ★
 このよふの月日の心しんぢつを しりたるものわさらにあるまい
 これまでハいかなる神とゆうたとて めゑにみへんとゆうていたなり
 このたびわとのよな神もしんぢつに あらハれだしてはなしするなり
 いまからハなにをゆうてもをもふても そのまゝみへるこれがふしぎや
 なにもかもあきをあいづにみへかける よふきづとめにはやくかゝれよ

【なわの解釈】
  この世の“月日”の本当の心を知っている者は全くいないだろう。これまではどんな神であっても目には見えないと言っていたが、これから新しい世になると、その神が本当に現れて話をするようになる。また、これからは何を言っても思っても、そのことがすぐに現象となって現れてくる。なんと不思議なことか。
 そのようなことがすべて秋(=終末の大峠)を境にして見えるようになる。だから早くようきづとめ(=身魂磨き)を始めなさい。

★ おふでさき ★
 いまゝでもたいてくどきもといたれど まだゆいたらん月日をもわく
 このたびハなにか月日のさんねんを つもりあるからみなゆうておく
 このところたすけ一じよとめられて なんてもかやしせすにいられん
 このかやしたいしや高山とりはらい みな一れつハしよちしていよ
 このはなしなんとをもふてきいている てんび火のあめうみわつなみや
 こらほどの月日の心しんバいを せかいぢうハなんとをもてる
 たんたんとくどきなけきハとくけれど しんぢつなるの心たすける
 どのよふなものも一れつハかこなり 月日の心しんばいをみよ
 このよふハ一れつハみな月日なり にんけんハみな月日かしもの
 せかいぢうこのしんぢつをしりたなら ごふきごふよくだすものわない
 こゝろさいしんぢつよりもわかりたら なにもこわみもあふなきもない
 月日よりをしゑる事ハみなけして あとハにんけん心ばかりで

【なわの解釈】
  今までもほとんど大切なことは述べてきたが、月日(=日月の神)の思わく(=経綸)についてまだ言い足りないことがある。このたびは月日の残念な気持ちが積もり積もっているから残らず言っておく。このいまの世の中において、人民を助ける一番の方法を止められて、まず何事にも“かやし(お返し)”をしないといけなくなっている。
  この“かやし”というのは、上に立って権勢を誇っている人民は、その権力を取り払われることになる。いったいどんなことだと思って聞いているのか。それは天火・火の雨・海は津波という形で現れるのだ。それで人民が大変なことになるのを“月日(=日月の神)”は心配をしているのに、世界中の人民はなんと思っているのだろうか。だんだんと説教し、嘆きたい気持ちを説明しているが、誠の心になった者は助けるのだ。どんな者でもみな我が子である。“月日(=日月の神)”がいかに心配しているか(考えてみてほしい)。この世のすべての存在は“月日”の体なのだ。人間の体といえども“月日”が貸し与えたものである。世界中の人民がこの真理を知ったら、もはや豪気・強欲を出すものはいないだろう。心でこの真理を理解しさえしたら、恐いことも危ないことも経験する必要はなくなる。“月日”の教えることをみな消してしまって人間心だけで考えるから(わからないのだ)。

★ おふでさき ★
 上たるハそれをしらすにめへめへの わがみしやんをばかりをもをて
 月日にハたんたんみへるみちすぢに こわきあふなきみちがあるので
 月日よりそのみちはやくしらそふと をもてしんバいしているとこそ
 にんけんわが子をもうもをなぢ事 こわきあふなきみちをあんぢる
 それしらすみな一れハめへめへに みなうゝかりとくらしいるなり
 このせかいなにかよろづを一れつに 月日しはいをするとをもゑよ
 このはなしどふゆう事にをもうかな これからさきのみちをみていよ
 どのよふな高い山でも水がつく たにそこやとてあふなけわない
 なにもかも月日しはいをするからハ をふきちいさいゆうでないぞや

【なわの解釈】
  上に立つ者がそれを知らずに、それぞれが自分のことばかり考えて(=我善し)いるのが残念である。“月日”にはこれからの人間世界の行方(=終末の姿)がだんだん見えてきたが、この先には恐い危ない道があるので、人民に早くその道のことを知らせなければと気になっているところだ。それは人間がわが子のことを思うのと同じで、(可愛い子供が)恐い危ない道に進みはしないかと心配しているのである。
  そんなことも知らずに、人民はそれぞれみんな自分のことばかり考えてうっかりして暮らしている。この世界のことはなんでもすべて“月日”が支配していると思っておきなさい。この話はどんなことを意味しているのかと疑問に思うかも知れない。これから先に起こることを見ているとわかるだろう。どんな身分の高い者でも水に溺れることがある。身分の低い人間だからといって必ずしも危険な目に遭うということでもない。
  すべて“月日”が支配するのであるから、大きいとか小さいとかいったことは問題ではないのだ。

★ おふでさき ★
 これまでもなんでもよう木ほしいから たいていたづねいたるなれども
 このたびハたにそこにてハ一寸したる 木いがたあふりみゑてあるなり
 このきいもたんたん月日でいりして つくりあけたらくにのはしらや
 それからハにちにち月日みさだめて あとのよう木のもよふばかりを
 この木いもめまつをまつわゆハんでな いかなる木いも月日をもわく

【なわの解釈】
  これまではどうしても“よう木(=終末の御用をしてくれる人民)”が必要だから、あちらこちらと探しまわっていたけれども、このたび身分の低い人間のなかにちょっとした役に立ちそうな“よう木”がたくさん見えている。この“よう木”に“月日”が出入り(=憑依する)をして立派な人材に育て上げたら、新しい世を導く国の柱となるだろう。それから先は、毎日“月日”が人民の見極めをして、後継者づくりの段取りだけをすればよくなるのだ。
  この終末の御用をしてくれる人民は、女性であろうと男性であろうと関係ない。どのような人民でも“月日”の判断で引き寄せて御用をさせるのだ。

★ おふでさき ★
 一れつのむねのうちよりしんぢつに はやくわかりた事であるなら
 それからハ月日よろづのしはいする なにかよろづのたすけするぞや
 このたすけはやくりやくをみせたさに 月日の心せくばかりやで
 なにもかもこのせきこみがあるゆへに むねのうちよりそふぢいそぐで
 このはなしどこの事やとをもうなよ みなめへめへのうちのはなしや
 めへめへにむねのうちよりしいかりと しんちつをだせすぐにみへるで

【なわの解釈】
  人民がみんなこの真理を理解することができたら、それからは“月日”がすべてを支配して、すべてのことの手助けをしてやるぞよ。この手助けがどのようなものであるかを早く見せたいので、“月日”は心が急(せ)いているのだ。それだけ急ぐことなので、胸の内の掃除を急いでやってほしいのだ。
 この話をどこのことだろうと思って聞いていてはいけない。みんな人民一人ひとりの胸の内のことを言っているのだ。それぞれが自分の胸の内を掃除して誠の心になれば、直ぐに真理がわかるようになるのだ。

★ おふでさき ★
 いまゝでも今がこの世のはじまりと ゆうてあれどもなんの事やら
 このたびのぢうよぢざいでとくしんせ いまゝでこんな事ハしろまい
 月日よりたいないよりも入こんで ぢうよぢざいをみなしてみせる
 こらほどのぢうよぢざいのしんぢつを はなしするのはいまはじめやで

【なわの解釈】
  いままでにも、「今が新しい世の中の始まりの時だ」と言ってきたけれど、人民には何のことかさっぱりわからなかっただろう。このたびは自由自在に手助けをしてみせるから、それを見て得心するがよい。
 今までこんな(すごい)ことができるとは知らなかっただろう。“月日”が人民の肉体に入り込んで(=憑依して)、自由自在にコントロールして見せるのだ。神が人間を自由自在にコントロールするという真理について話をするのは、今回が初めてのことだ。

★ おふでさき ★
 このせかい一れつみゑる月日なら とこの事でもしらぬ事なし
 月日よりみなそれそれとみさだめて 善とあくとをみハけするぞや
 月日よりなんでこのよにくどいなら あしきみへるがきのどくなから
 たんたんとをんかかさなりそのゆへハ きゆばとみへるみちがあるから
 とのよふなものでも月日しんぢつを うけとりたならみなたすけるで
 いまゝでハどんなはなしをしたるとも なにもみゑたる事ハなけれど
 これまてもみなみへきたる事なれど ほんもとなるをしらん事から
 かみなりもぢしんをふかぜ水つきも これわ月日のざねんりいふく
 この事をいまゝでたれもしらんから このたび月日さきゑしらする

【なわの解釈】
  この世界のことをすべて見通すことができる“月日”であるから、どこで起こることでも知らないことはない。“月日”がそれぞれの人民を見極めて、善と悪の区別をするのだ。“月日”がどうしてこんなにもくどく言うのかと思うだろうが、人民の悪い心や行ないが見えて、その結果がどういう状態になるかがわかっているからなのだ。
  だんだんと因果が積もり積もって、牛馬のような畜生の道に落ちていく姿が見えている。それでも、いまどのような心の人間であっても、この“月日”が教える真理を受け取ってくれればみな助けてやるのだ。いままではどんな話をしても、それが形に現れなかったと思っていただろうが、実はこれまでも心に思ったことや言葉にしたことはすべて現象として我が身に降りかかっていたことなのだ。その本元の仕組み(=経綸)がわからないから、因果関係がわからなかっただけなのだ。
  雷も地震も台風も洪水も、すべて“月日”の残念な怒りの表現なのだ。このことを今までは誰も知らないから、このたび“月日”が先に知らせておく。



おふでさきB
● 天理教の「おふでさき」解釈B   2006年2月20日(月) [TOP]
  今回も「おふでさき」の解説です。(付録的話題はありません)
  「おふでさき」の解釈は、内容に準拠して直訳の形で解説していますので、理解しにくい部分があるかもしれません。その場合は「おふでさき」本文をじっくり読んでいただきたいと思います。その響きの中から何かが伝わってくるはずです。
  前にもご紹介ましたが、この「おふでさき」に基づいて宗教団体をつくったことに関しては、『大本神諭』の神さまは痛烈に批判されているのです。その最も厳しい内容を以下にご紹介しておきます。

■‥‥天理、金光、黒住、妙霊、皆この大望がある故に、神から先に出したのであれども、後の取り次ぎは神の心がわからんから、皆教会にいたしてしもうて、神の思わくは一つも立たず、口過ぎ(=生活を立てること)の種に神をいたして、我が神の真似ばかりを致して、日本の神の名を悪くいたしておるが、これが四つ足の守護であるぞよ。教会の取り次ぎよりも、平の信者の方に誠があるぞよ。今の取り次ぎ、「これでよい」と思うておるから、真の生き神の申すことは、ちっとも耳に入らんぞよ。‥‥(『大本神諭』火の巻/明治33年旧8月11日)

  この神示を読みますと、神の言葉を正しく理解し、伝えていくことが、いかに難しいことであるかが分かります。常に謙虚に受けとめていきたいと思います。そういう意味では、私の解釈もけっして「これしかない」と申しあげているつもりはありません。もともと神示には何通りもの解釈法があるとも言われますので、これもひとつの参考意見としてお読みいただきたいと思います。この「おふでさき」解釈編は次回まで続ける予定です。
  なお、本日ご紹介している「おふでさき」の原本としてるのは『おふでさき通訳』(芹澤茂・著/天理教道友社)です。解釈にあたってはこの書籍を参考にさせていただきましたが、「なわの解釈」部分は独自の解釈を加えています。文責はもちろん当方にあります。
                       ☆ ★ ☆
★ おふでさき ★
 このよふのにんけんはじめもとの神 たれもしりたるものハあるまい
 どろうみのなかよりしゆごふをしへかけ それがたんたんさかんなるぞや
 このたびハたすけ一ぢよをしゑるも これもない事はしめかけるで
 いままでにない事はじめかけるのわ もとこしらゑた神であるから

【なわの解釈】
  この世の人間を創造した元の神については、誰も知らないであろう。泥海の中から身を守る方法を教えはじめ、それによってだんだん文明が栄えてきた。このたびは(世の終わりにあたって)人間が助かるための一番大切な方法を教えるのだが、これも今までに一度もなかった事を始めるからである。今までに一度もなかったことを始めるというのも、世の元を創造した神であるからできるのである。

★ おふでさき ★
 だんだんとせかいぢうをしんぢつに たすけるもよふばかりするぞや
 そのゝちハやまずしなすによハらすに 心したいにいつまでもいよ
 またさきハねんけんたちた事ならば としをよるめハさらにないぞや
 いまゝでハなにの事でもしれなんだ これからさきハみなをしゑるで

【なわの解釈】
  だんだんと、世界中を真実に助ける段取りばかりするのである。それが終わったらあとの世は、病気もなく、死ぬこともなく、体が弱ることもなく、自分が望むならいつまでも生きておれるようになる。またその先もっと年限が経ったとしても、老いるということが全くないのである。このように今までは知らなかったことを、これから先はなんでもみな教えることにする。

★ おふでさき ★
 このよふハいかほどハがみをもふても 神のりいふくこれハかなハん
 めへめへにハがみしやんハいらんもの 神がそれそれみわけするぞや
 これをみていかなものでもとくしんせ 善とあくとをわけてみせるで
 このはなしみな一れつハしやんせよ をなじ心わさらにあるまい
 をやこでもふうふうのなかもきよたいも みなめへめへに心ちがうで

【なわの解釈】
  この世でいかに我善しの気持ちを持っていても、神の怒りを受けたらどうしようもないのだ。自己中心の考え方はしてはいけない。神がその心の中を見分けてしまうのだ。神が善い心と悪い心は見分けてしまうから、そのことをよく理解しておきなさい。この話はどんな人間でも必ず心に留めておきなさい。人間は一人として同じ心ではないはずだ。親子でも夫婦でも兄弟姉妹でも、みなそれぞれに心の中は違っている。

★ おふでさき ★
 いまゝでハなにをゆうてもみへてない もふこのたびハせへつうがきた
 これからハよふきづとめにまたかゝる なんの事やら一寸しれまい
 これまでハいかなハなしをといたとて ひがきたらんでみへてないぞや
 これからわもふせへつうがきたるから ゆへばそのまゝみへてくるぞや

【なわの解釈】
  今までは何を言ってもこの世に現れていないが、いよいよ現れる時節がきた。これからはまたようきづとめ(=新しい世の生き方)の段取りにとりかかるが、何のことかはわからないだろう。これまではどんな話をしても期日が来てないので実現しなかった。これからは時節が到来したので、言えばそのことがそのまま実現するようになる。

★ おふでさき ★
 けふまでハなによの事もせかねとも もふせきこむでをふくハんのみち
 このみちハせいなみとハをもうなよ これまつだいのこふきはぢまり
 このにんぢうとこにあるとハゆハんでな みのうちさハりみなくるであろ
 このさハりてびきいけんもりいふくも みなめへめへにしやんしてみよ
 このはなしなんとをもうてきいている かハいあまりてくどく事なり
 どのよふにいけんりいふくゆうたとて これたすけんとさらにゆハんで
 にんけんのハがこのいけんをもてみよ はらのたつのもかハいゆへから
 しやんして心さためてついてこい すえはたのもしみちがあるぞや

【なわの解釈】
  今日までは何事も急いではいなかったが、もう急いで(神霊界と現界を結ぶ)往還の道をつくらなくてはいけない。この道づくりを世間並みのことと思ってはいけない。これこそ万古末代の決まり(法則)となるものである。この(往還の道をつくる対象となる)人民がどこにいると限定しているわけではない。(神霊界とつながると)身の身辺に病気や不幸な出来事が起こってくるだろう。このような不幸な出来事が起こるのは、神の忠告であり、立腹によるものであるから、それぞれによく考えてみるがよい。
  この話をどんな気持ちで聞いているか。これは人民が可愛いあまりに説いて聞かせているのだ。どんなに忠告し、立腹していると言っても、決して人民を助けないと言っているのではない。人間が我が子に忠告をするときのことを考えてみよ。腹を立てるのも我が子が可愛いからであろう。そのことをよく考えて、心を決めてついてきなさい。末には頼もしい道があるのだから。

★ おふでさき ★
 いまゝでハ心ちがいわありたとて ひがきたらんてみなゆるしていた
 このたびハなんでもかでもむものうち そうちぢするでみなしよちせよ
 むねのうちそうぢをするとゆうのもな 神のをもハくふかくあるから
 このそふぢすきやかしたてせん事に むねのしんぢつわかりないから
 この心しんからわかりついたなら このよはぢまりてつけるなり

【なわの解釈】
  今までは心違いがあっても、時節が来ていなかったのでみな見逃していた。このたびはどんなことでも心の中を掃除するので、覚悟しておきなさい。心の中を掃除するというのは、神の深い思惑からすることである。人民の心の中の掃除をすっきり仕上げてしまわないと、本来の心の持つ本当の働きが理解できないからである。この心の働きが理解できたなら、この世(新しい世)の始まりに手をつけることにする。

★ おふでさき ★
 いまゝでハ神があらハれでたるとて まだしんぢつをしりたものなし
 このさきハどのよな事もしんぢつを をしへてをいた事であるなら
 それからハ神のはたらきなにもかも ぢうよぢざいをしてみせるでな
 しんぢつの神のはたらきしかけたら せかい一れつ心すみきる
 はたらきもいなかる事とをもうかな 心うけとりしだいかやしを
 このかやしなにの事やとをもうかな みちのりせんりへだてありても
 この事ハなにをゆうてもをもふても うけとりしだいすぐにかやしを
 このかやしなんの事やとをもうなよ せんあくともにみなかやすてな
 よき事をゆうてもあしきをもふても そのまゝすくにかやす事なり
 この事をみへきたならば一れつわ どんなものでもみなすみわたる

【なわの解釈】
  今までは神が現れ出たといっても、まだ本当のことを知る者はいない。これからはどのようなことでも、教えておいた本当の神の働きを自由自在にしてみせる。本当の神の働きを見せたら、世界中の人民の心はみな澄み切るだろう。
 神の働きはどういうものかと考えるであろうが、神は人間の心を受け取り次第に「かやし(お返し)」をするのである。この「かやし」は普通に考えられるようなものではなく、道のりが千里も隔たっていても返すのだ。何を言っても思っても、受け取り次第直ぐに返す。この「かやし」はどんなものかと思うな。善も悪もともに皆返すのである。善い事を言っても思っても、悪い事を言っても思っても、そのまま直ぐに返すのである。この法則が人民にわかるようになったら、だれでもみんな心が澄み渡るようになるだろう。



おふでさきA
● 天理教の「おふでさき」解釈A   2006年2月16日(木) [TOP]
  今回は「おふでさき」解釈シリーズの第2弾です。原本は『おふでさき通訳』(芹澤茂・著/天理教道友社)ですが、「なわの解釈」部分は独自の内容となっています。文責はもちろん当方にあります。では、「おふでさき」本文と併せてじっくりお目通しください。
                       ☆ ★ ☆
★ おふでさき ★
 これからハをうくハんみちをつけかける せかいの心みないさめるで
 上たるハ心いさんでくるほとに なんどきにくるこくけんがきた
 ちゃつんであとかりとりてしもたなら あといでるのハよふきづとめや
 このつとめとこからくるとをもうかな 上たるところいさみくるぞや
 たんたんと神のしゆごふというものハ めつらし事をみなしかけるで
 にちにちに 神の心のせきこみを みないちれつハなんとをもてる
 なにゝてもやまいいたみハさらになし 神のせきこみてびきなるそや
 せきこみもなにゆへなるとゆうならば つとめにんぢうほしい事から
 このつとめなんの事やとをもている よろづたすけのもよふばかりを
 このたすけいまばかりとハをもうなよ これまつたいのこふきなるぞや

【 なわの解釈 】
  これからはあの世(神霊界)とこの世(物質界)を行き来できる「往還道」をつくっていく。この世の人間の心を改心させるためである。守護神が改心するに従って、いつ大峠が来てもおかしくない時節となったのだ。
  お茶の葉を摘んであとを刈り取ってしまったら、そのあとに出てくるのは新しい木(ようき=幼木)である。このように、人が改心すること(ようきづとめ)が大切なのである。この改心はどこから始めると思うだろうか。それは守護神からまず改心するのである。
  これからは神の守護によってだんだんと珍しいことを見せていく。神が一日も早くと急いでいるのに、人民はなんと思っているのか。何があっても病気や苦痛というものはなくなる。神の急ぐ気持ちを伝える手伝いをしてほしいのだ。
  なぜこんなに急いでいるのかというと、改心した(ようきづとめの)人間がたくさん必要だからである。では、何のために「ようきづとめ」をするのかと思っているだろう。それはすべての守護神と人民を助ける段取りをするためだ。助けると言っても今だけのことではなく、万古末代のきまり(古記)となるのである。

★ おふでさき ★
 これからハからとにほんのはなしする なにをゆうともハかりあるまい
 とふぢんがにほんのぢいゝ入りこんで まゝにするのが神のりいふく
 たんたんとにほんたすけるもよふだて とふじん神のまゝにするなり
 このさきハからとにほんをハけるてな これハかりたらせかいをさまる
 いまゝでハ上たる心ハからいで せかいなみやとをもていたなり
 これからハ神がたいない入りこんで 心すみやかわけてみせるで

【 なわの解釈 】
  これからは外国と日本の話をする。何を言おうとしているのかは、すぐにはわからないだろう。外国人の守護神が日本の地に入り込んで勝手気ままにしているのが神の立腹の原因なのだ。だから、だんだんと日本を救う段取りをして、外国人を神の思うままにする。これから先は外国の守護神と日本の守護神は分けていく。これを分けることができたら世界は平穏になるのだ。
  これまでは守護神の心の違いが分かっていなかったので、みんな同じだと思っていただろう。これからは神が人間の体内に入り込んで、心の違いをすっきりと分かるようにしてみせる。

★ おふでさき ★
 これからハ水にたとゑてはなしする すむとにごりでさとりとるなり
 しんぢつに神の心のせきこみわ しんのはしらをはやくいれたい
 このはしらはやくいれよとをもへども にごりの水でところわからん
 この水をはやくすまするもよふだて すいのとすなにかけてすませよ
 このすいののどこにあるやとをもうなよ むねとくちとがすなとすいのや
 このはなしすみやかさとりついたなら そのまゝいれるしんのはしらを
 はしらさいしいかりいれた事ならば このよたしかにをさまりがつく
 このはなしさとりばかりであるほどに これさとりたらしよこだめしや

【 なわの解釈 】
  これからは、水に例えて話す。水が澄んだり濁ったりすることから理解してもらうことにする。神が急いでいるのは、人間の魂に「しんのはしら(真の柱)」を早く入れたいからである。この柱を早く入れようと思っても、魂が濁り水のように濁っているためどこに入れたらよいかわからないのだ。この濁り水を早く澄ます段取りをどうすればよいかと言えば、それは水嚢(すいのう)と砂に掛けて澄ますようにするのだ。そんな水嚢がどこにあると思ってはいけない。心に思うこと(むね)と、口から出る言葉(くち)とが砂と水嚢の働きをするのである。
  この話がすっきりと理解できたら、そのまま真の柱を入れる。真の柱をしっかり入れたら、この世の中は平穏になるのだ。この話を頭で理解できたなら、その理解の程度を試すことにする。

  まだまだ「おふでさき」の解釈が続きます。「なわの解釈」は、たぶん天理教の信者や関係者の方が読まれると目を回すような独自の解釈となっているはずです。たとえば、「むねとくちがすいの(水嚢)である」という内容を、芹澤氏は「胸=悟り」「口=諭し」と解釈されていますが、「おふでさき」全体を読みますと、「胸=心に思うこと」「くち=口から出る言葉」と解釈するほうが意味が通じます。これは『大本神諭』や『日月神示』でも述べられている「心、口、行ない」のうち「心、口」に対応しているのです。以下は『大本神諭』天の巻の中の一節です。

 これからは、筆先通りが世界に現れて来るから、心と口と行(おこない)と三つ揃うた誠でないと、今度神から渡す荷物は重いから、‥‥

  このように、私の場合、「おふでさき」の解釈にあたっては『大本神諭』と『おふでさき通訳』を交互に読んでいますが、2つの神示の波長はまったく同じものです。“取り継ぎ”が、かたや中山みき、かたや出口ナオという違いがあるだけで、神示の響き(神意)には違いが感じられません。
  私が上記のような大胆な解釈ができるのも、『大本神諭』に目を通しているからなのです。このあとの解釈では、部分的に『大本神諭』の内容と対比させながらご紹介していくところも出てくると思います。
                       ☆ ★ ☆
  さて、「おふでさき」の解釈ばかりでは興味がないとおっしゃる方もあると思いますので、すこし付録的な話題もご紹介したいと思います。今回はアメリカ産の牛肉の話題で、『週刊文春』の記事をスクラップしてみました。どうしてもお肉がやめられないとおっしゃる方への、ちょっとした「なわのお節介」です(笑)。
  文中に出てくる山田議員とは、民主党のネクスト農水大臣の山田正彦衆議院議員のことで、当サイトの「Bookstand」にアップしている『輸入食品に日本は潰される』の著者でもあります。

■アメリカ牛「メキシコ迂回」疑惑 〜 怖いのは検査漏れだけではない!
                     ――『週刊文春』2006年2月9日号
  ‥‥山田議員は、米国を4度訪問して食肉処理場なども視察しているが、2004年8月の訪米の際、米国の消費者団体などから気になる情報を得ていた。それは、「アメリカからメキシコへ30カ月齢以上の牛や内臓が、ノーチェックで輸出されている」というものだ。
  「私は、米国産牛肉がメキシコを経由して、日本に迂回輸入されているのではないかと心配になり、貿易統計を調べてみました。米国でBSEの牛が確認され輸入禁止になったのは2003年の年末。それまで、日本は米国から大量に牛肉を輸入していたが、メキシコからの輸入は内臓を除くとゼロに近かった。ところが、米国産牛肉の輸入禁止となったこの2年間を見ると、急激にメキシコからの輸入量が増えているのです」
  以下の表を見てもらおう。この3年間の「メキシコからの牛肉、くず肉および調整品の輸入量」を財務省がまとめたものだが、確かに米国産牛肉が輸入禁止になって以降メキシコからの輸入量が急増している。

           2003年       2004年       2005年    (単位:トン)
  牛肉       0.2       1,771.6      6,732.8
  くず肉等   137.0        906.8      2,460.4

  山田議員は、メキシコから米国産牛肉が迂回輸入されている証拠を探るため、2005年2月に東京湾にある検疫所へ出向き、自らその実態を調査してきた。
「倉庫には、メキシコからのショートプレートの肉が山積みになっていた。ショートプレートとは、脇腹下部のバラ肉で内臓に近いところです。米国ではほとんど食用にならないと捨てられるところですが、日本では外食チェーンなどが使っています。その場の検疫官に、アメリカ産とメキシコ産のショートプレートの差を聞きましたが、見た目ではまったくわからないということ。書類上の違いでしか判断できないとのことでした」
  日本の輸入食品に関する検疫制度はゆるやかで、原産地証明確認は書類上で行なうか、表示のチェックだけだ。(中略)
  メキシコでは養豚は盛んだが、牛肉に関しては、アメリカから輸入している国だ。日本に回せるほど牛肉の生産量は多くはない。韓国では2004年7月にメキシコから輸入した牛肉に米国産牛肉が混入していたことがわかり、以後、韓国政府はメキシコ産牛肉の輸入を禁止しているという。



天理教
● 天理教の「おふでさき」解釈@   2006年2月13日(月) [TOP]
  予告していました通り、今回は天理教の「おふでさき」の解釈にチャレンジしてみたいと思います。『大本神諭』天の巻の冒頭に次のような神示があります。

 ‥‥天理、金光、黒住、妙霊、先走り、とどめに艮(うしとら)の金神が現れて、世の立て替えをいたすぞよ。世の立て替えのあるということは、どの神柱にも判りておれど、どうしたら立て替えができるということは、判りておらんぞよ。九分九厘までは知らしてあるが、もう一厘の肝腎のことは判りておらんぞよ。(明治25年)

  この神示によりますと、天理教は世の立て替えを告げる神示の草分けということになります。“一厘”の肝腎のことはわかっていないとありますが、残りの九分九厘は知らしてあるということですから、天理教の教祖(おやさま)に降ろされた神示の内容は『大本神諭』と一致しているものと思われます。
  ということは、2つの神示の一致する部分こそが、世の立て替えに関する重要な教えであると見ることができます。ということで、その「一致する部分」が何であるかを確かめてみたいと思います。
                       ☆ ★ ☆
  天理教は大変大きな宗教団体ですから、よくご存じだと思います。あいにく私の知人に天理教の信者や関係者がいませんので、ここでは市販されている『おふでさき通訳』(芹澤茂・著/天理教道友社)を参考にいたしました。
  この本によりますと、天理教の「おふでさき」は明治2年(教祖72歳)から同15年の間に、教祖(おやさま)・中山みきに降ろされたものとされています。天理教の神さま(親神=天理王命)は、教祖に「おふでさき」以外の一切の文字記録の執筆も閲覧も禁じたと言われています。教祖が筆を執ると、暗闇でもひとりでに筆が動いて、言葉がお歌となって紙に記されたそうです。いわゆる“自動書記”現象です。ですから、これからご紹介する「おふでさき」の語り手は天理教の親神さまということになります。
  神示の解釈は芹澤茂氏の解説を参考にしましたが、私の独自の解釈を加えていますので、天理教の教団での解釈とは異なっている部分があることをお断りしておきます。

★ おふでさき ★
 いまゝでハ神のゆう事うたこふて なにもうそやとゆうていたなり
 このよふをはじめた神のゆう事に せんに一つもちがう事なし
 だんだんとみへてきたならとくしんせ いかな心もみなあらハれる

【なわの解釈】
  今までは、神の言うことを疑って、何でも「嘘だ」と言ってきたが、この世を始めた神の言うことだから、千に一つも違うことはないのだ。これからだんだんと現象が現れてくるから得心せよ。心で思ったことははみな現象として現れるのだ。

★ おふでさき ★
 よろづよのせかいぢふうをみハたせバ みちのしだいもいろいろにある
 このさきハみちにたとえてはなしする どこの事ともさらにゆハんで
 やまさかやいばらぐろふもがけみちも つるぎのなかもとふりぬけたら
 まだみへるひのなかもありふちなかも それをこしたらほそいみちあり
 ほそみちをだんだんこせばをふみちや これがたしかなほんみちである
 このはなしほかの事でわないほとに 神一ぢよでこれがわが事

【なわの解釈】
  霊界・現界を含めたすべての世界(三千世界)を見渡すと、(これから人類が進む)道の状況もいろいろ違うようだ。これから先は道に例えて話をしよう。どこの地域のことと限定しているわけではない。
  これからは山があり坂道があり、茨の道に崖道もある。剣(「戦争」の暗喩)の中を通り抜けたら、火(火災=火山の噴火、核戦争)の中もあり、淵中(洪水、津波)もあり、それを乗り越えたら道が細くなっている。だから、簡単に通ることはできない。細い道(=終末の大峠)を越せば大きな道に出る。これが本道(=神の世)である。
  この話は関係ないことではない。神の一条の大事な話なのだ。自分に関することと思っておきなさい。

  こんな感じで、これから「おふでさき」の一部をピックアップして「なわの解釈」をつけてご紹介していきます。「おふでさき」には、それが降ろされた明治初期には理解できなかったと思われる内容が含まれていますので、今日の情報化社会において、新しい情報に基づいて解釈しなおすことは意味があると考えています。
  今日はほんのサワリ程度ですが、次回からもひき続き「おふでさき」のご紹介をしてまいります。ご期待ください。



アラン・カルデック
● アラン・カルデックの『天国と地獄』   2006年2月8日(水) [TOP]
  前回予告しましたように、天理教の『おふでさき通訳』の解釈に取り組んでいるのですが、まだ完結しておりません。ということで、少し他の話題をはさませていただきます。
  大川隆法さんの主宰する幸福の科学出版から『天国と地獄』(アラン・カルデック著)という本が出されています。著者のアラン・カルデックの霊界通信は大変有名ですし、わが家にも桑原啓善訳の『霊の書』(上・下)があります。しかしながら、この本の帯には「本邦初訳!」と書かれていましたので、ひとまず購入してみました。いろいろな霊界通信を寄せ集めてまとめたといった感じですが、それだけに幅広い霊界の様子が理解できるという特徴があります。
  その中から「伯爵夫人ポーラ――恵まれない女性を助けた女性」の霊界通信を抜粋して「ホンのひとくち」にアップしましたので、お目通しください。
  なお、この本の最後の部分に「死後の魂のあり方を示す法則集」が第1条から第33条までまとめられています。私なりに審神(さにわ)をさせていただいた感じでは、お勧めできる内容だと思いますので、こちらも近々当サイトにアップしたいと思います。ご参考までにその中のいくつかをご紹介しておきますと――。

●第6条
  人間がなす善、または悪は、みずからの内にある長所、または欠点の産物である。なし得る善を行なわないというのは、未熟さの結果である。霊は地上において、なした悪によって苦しむだけでなく、なし得たにもかかわらずなさなかった善によっても苦しむ。

  ――『日月神示』にある「善いと思ったことを直ぐにするのが身魂磨き」という言葉を証明していますね。

●第9条
  あらゆる過ち、あらゆる悪は、債務となり、かならずそれを償わなければならない。ある転生でそれが返済されなかった場合には、それは次の転生に持ち越される。

●第10条
  霊は、霊界においても物質界においても、みずからの未熟さに由来する苦しみを引き受けなければならない。物質界で引き受けるあらゆる悲惨、あらゆる不幸は、われわれの未熟さの結果、すなわち今世あるいはそれ以前の転生でなした過ちの償いである。
  したがって、地上で経験している苦悩、不幸の性質を分析してみれば、自分が今世、あるいは過去世でなした過ちの性質が分かるし、その過ちの原因となった自分の欠点の性質も分かるはずである。

  この第9条、第10条は「カルマの法則」を表現しています。仏教で言う「因果応報の理」、聖書では「自分がまいた種は自分で刈り取らなければならない」という内容です。 あとは近日中にアップします。お楽しみに。
  なお、桑原啓善訳の『霊の書』(潮文社)ももう一度読み返すことにいたしました。こちらもいずれ当サイトでご紹介するつもりです。



肉体のまま異次元に
● 肉体のまま異次元に行き来できる?   2006年2月6日(月) [TOP]

12.仏教で「即身成仏」「解脱」といった言葉があるが、このことが次元アップと同じ
   意味を持っていると思われる。一口に言えば、物質世界で身につけた欲望(物
   欲、色欲、名誉欲など)から心を解き放つということであろう。



  いよいよ「このホームページがお伝えしていること(骨子)」の最後の項目です。
  わが家の本棚にある『日本神人伝』(不二龍彦・著/学研)の中に、神仙界と現界を往来し、あまたの奇跡を顕したといわれる14人の超人が紹介されています。その人物名を掲載順にリストアップしますと以下の通りです。
  @仙童寅吉、A宮地水位、B国安仙人、C友清歓真、D黒住宗忠、E金光大神、
  F出口王仁三郎、G高島嘉右衛門、H九鬼盛隆、I鷲谷日賢、J長南年恵、
  K亀井三郎、L本吉嶺山、M三田光一。
  この14人の超人に共通するのは、自由に異次元(神仙界)とこの世(現界)を行き来することができたという点です。この中には肉体のまま行き来できた人もいたことが記録として残っているようです。
  それを仏教的に言うと「即身成仏」すなわち、肉体のまま(即身)、霊界の住人になる(成仏)ことのできた人という意味になります。「成仏」は単に「死ぬこと」の意味にも使われますが、本来の意味は「仏=悟りを開いた高級神霊」ですから、「即身成仏」とは、肉体のまま高級霊界に行ったり来たりできる神次元の存在になることを言っているのです。
  この14人のリストからは漏れていますが、わが国では役小役(えんのおづぬ)が厳しい修行の末にその境地に達したと伝えられています。
  本日は、上記14人の中からB国安仙人について簡単にご紹介したいと思います。
  まず、国安仙人を紹介する前書き部分にはこう書かれています。

  11歳のとき、聖良仙人が来訪。それを転機として12年、岩木山、八甲田山、開聞岳、国見山などを渡り歩き、五穀断ちをはじめとする仙界修行をし、海上歩行をはじめ、物品引き寄せ、千里眼、念力、テレポーテーションと、神仙家随一の神通力を発揮した。
                         ――『日本神人伝』(不二龍彦・著/学研)

  著者の不二龍彦氏が、「この章で扱う神仙家(@〜Cの4人)のなかでも、真に神通力第一と呼ぶにふさわしいのは、明治期の大仙人・国安仙人である」と述べているほどの人物なのです。
  その国安仙人の生活ぶりは、ある意味では今日の日本人と正反対の内容となっています。次の文章にお目通しください。

  彼のふだんの生活ぶりをザッと紹介しておこう。そこには、なるほどそれでこそ仙人といったエピソードが充ち満ちている。
  中国の神仙関係の書物を読むと、仙人修行者は肉や魚の類はもちろん、穀物を断って心身を浄化するということが必ず書かれている。そして、仙人になると、ほとんどものを食べる必要がなくなるというのだが、国安仙人もまさにそうだった。魚介鳥獣を食わず、穀類・野菜類も食わず、もっぱら木の実を常食としていて、それも、あれば食し、無ければ自分から買って食べることはなかった。
  しかも国安仙人の買い物というのは、すべて売り手のいいなりで、決して値切るということがない。そのため高く売りつけられることもあったが、仙人はまるで意に介することはなかった。
  そもそも国安仙人には、物欲というものがまるでなかった。自分を飾るとか、うまいものを食うとか、神仏のためと称して豪壮な家を構えるといった俗情は完全に欠落しており、寄進にしても、信者が惜しんで出す金は受けつけなかった。信者がそのそぶりを毛筋ほども見せない場合でも、仙人には相手の心の内が手に取るように見えていたらしく、黙って返してよこしたという。
                         ――『日本神人伝』(不二龍彦・著/学研)

  いかがでしょうか。すでに仏教で言う「解脱」の境地にあったことがうかがえるエピソードではないかと思うのですが‥‥。このことから「食べ物」「物欲」「損得勘定」などが、霊格を左右する要素となっていることがわかります。以前にこの「つぶや記」で紹介した「ええもん食いたい、楽したい、ものはついでにゼニ欲しい、どっかにエエ娘おらんかな〜」といった生き方とは正反対の境地と言えそうです。
                       ☆ ★ ☆
  この国安仙人は幼名を米太郎といい、万延元年(1860年)に江戸深川に生まれています。そして明治3年、11歳の年に人生の転機が訪れるのです。米太郎の前に聖良仙人と名乗る白髪の老人が忽然と現れて、「我は前世からの約束で、今日、汝を訪れたのである。これより行を積み徳を積んで、人助けをせよ。そのために汝を時々仙界に呼んで修行をさせるであろう」と告げたのです。以下は本文を引用してご紹介します。

  こう語り終えるやいなや、聖良仙人はためらう米太郎の襟首をつかみ、あっという間にいずこかの山中に連れ去った。かくして米太郎の仙界修行が始まったのである。
  仙童寅吉や宮地水位も語っていたことだが、仙人に導かれて仙境に入るという場合、それは霊体や幽体を飛ばすとか、意識だけを飛ばすというのとは違う。そうしたケースもあるにはあるが、多くは体ごと異境に参入してしまうらしいのである。
  合理的に解釈したいタイプは、こうした異境へのトリップを、何らかの特殊な意識体験だろうということで片づける。麻薬などのトリップと同じ体験と見なすわけである。しかし、実際に仙境に遊んだという者は、そんな合理的解釈を拒絶する。水位も体ごと移行するといっているし、寅吉も杉山僧正のもとに出向くときには旅支度をしている。
  のちに国安仙人は、弟子の前でトリップの現場を何度も実地に見せているが、そのときには必ず「体ごと消え失せた」と弟子や信者は報告している。今流にいうと、テレポートしてしまうらしいのである。
                         ――『日本神人伝』(不二龍彦・著/学研)

  実はこれと同じ出来事が、『ヒマラヤ聖者の生活研究(第一巻)』(ベアード・T・スポールディング著/霞ヶ関書房)の中に載っているのです。
  この本の第3章「肉体の自由自在なる出現・消滅」のなかで、エミール師という人物が、著者をはじめとする調査団の目の前で、自由に肉体を消したり、現したりした事実が述べられています。その「肉体の出現・消滅の原理」を、エミール師は次のように述べているのです。

  ‥‥わたしは自分の肉体を「普遍なるもの」の中に置き、肉体の波動を高めることによって「普遍なるもの」に戻した。わたしたちの言い方をすれば、一切の質料が存在する「普遍なるもの」の中にいったん奉還したのです。
  それから私の神我(実相)、すなわちキリスト意識を通して、肉体を心の中に置くとそのバイブレーションが下がり、ついにこの部屋の此処で具体化し再現して、皆さんにも見えるようになる――というわけです。
  この過程のいったいどこに神秘があるのでしょうか。神の「愛(め)ぐし子」を通じて父なる神がわたしに与えたもうた力、別言すれば、法則を使っただけではないでしょうか。この「神の子」というのが、あなた方であり、わたしであり、人類全体ではないでしょうか。
                ――『ヒマラヤ聖者の生活研究(第一巻)』(霞ヶ関書房)

  ここに紹介した国安仙人とエミール師のエピソードから、少なくとも厳しい修行さえすれば普通の人でも肉体の波動を高めて異次元との間を行き来できるようになる――ということがわかります。その波動を高めるために、「心、言葉、行ない」が大変重要な意味をもつということで、私が『2012年の黙示録』で力説しているところです。
  このテーマは「終末の生き方」に関する私の結論部分ですので、もう少し掘り下げてまいります。次回は『大本神諭』や『日月神示』の先駆け的神示と言われている天理教の「おふでさき」についてふれてみたいと思います。ご期待ください。



2012年まで売れ続ける本
● 2012年まで売れ続ける本?   2006年2月3日(金) [TOP]
  私の『2012年の黙示録』が世にデビューして、間もなく2年になろうとしています。
  インターネットで見ておりますと、最近になって紀伊國屋書店での取り扱い店舗(「各店在庫案内」参照)が増える傾向にありますので、その理由を確かめるつもりで(株)たま出版に電話を入れてみました。
  いつも元気のいいN専務は開口一番、「あの本は大変順調に売れてますよ。1月は我が社でベスト4でした」と嬉しいお言葉。この種の本(=精神世界の本)にしては寿命が長いということで、「この調子だと2012年までは売れ続けますよ」と、大いに元気づけをしていただきました。
  私の本はネットよりも書店で売れる分が圧倒的に多いらしく、アマゾンのランキングに一喜一憂する必要はないことがわかりました。書店で購入される方は現物を手にとって内容を吟味した上で買っていただいているはずですから、これも嬉しい限りです。3月ごろには増刷(=5刷り)の運びになりそうだとか。\(^_^)/
  紀伊國屋書店の件は、本はコンピューター管理されているので、扱い店舗が増えるというのはよく売れていることを表しているのではないか、とのことでした。特に、福岡本店と福岡天神店でよく売れているようです。福岡本店では、発売当初にベストセラー上位にランクされたことがありました。今でも積極的に売っていただいているようで、福岡生まれの私としましては、福岡の方に足を向けて寝ることができません。ちなみに、足は太平洋側(アメリカ)に向けて寝ております(笑)。
                       ☆ ★ ☆
  さて、N専務には大変元気づけをしていただき、感謝しているのですが、「2012年までは売れる」というお言葉には何となく複雑な気持ちにさせられるのです。以前に私の兄が同じことを言った話をご紹介しましたが、その言葉は「2012年までは、世の中は平穏だ」ということを前提にしていると思われるからです。
  それは、「1999年7の月」で世の中を一世風靡したノストラダムス本が、1999年7月以降は全く売れなくなったことから出た言葉なのです。N専務も私の兄も、今回の「2012年」がそのような形で何事もなく終わるという認識であることがわかります。ですから、「おやおや、私の本の内容をまともに信じてもらってないな」という気持ちにさせられたという次第です。
  あの本の中では、終末の大峠の様相を意味していると思われる『日月神示』の一文を取り上げて解説しています。ここでもう一度その内容をご覧いただきたいと思います。

■ 一度死ななければ生き返れない

  人民一度死んでくだされよ。死なねば甦られん時となったのぞ。今までの衣を脱いでくだされと申してあろう。世が変わると申してあろう。地上界の総てが変わるのぞ。人民のみこのままというわけには参らぬ。死んで生きてくだされよ。立て替え、立て直し、過去と未来と同時に来て、同じところでひとまず交じり合うのであるから、人民にはガテンゆかん、新しき世となる終わりのギリギリの仕上げの様相であるぞ。

  「今までの衣を脱いでくれ」と言われています。「物質としての肉体に対する執着をなくせ」ということでしょう。「死んで生きる」ということは、肉体を失って、霊体で生きるということです。地上界の総ての存在の波長が高くなるわけですから、人間だけがそのままということにはならないのです。
  「過去と未来と同時に来て」という意味は、説明が難しいのですが、要するに別世界には、すでにこの物質世界にはいなくなった人や生き物なども存在しているわけですから、それらがすべて一緒になってふるいにかけられるということです。その中から、新しい地球すなわちミロクの世に必要な人や生き物だけが残されるということです。亡くなった人が生き返り、絶滅したと思われる動物なども再度デビューすることになるでしょう。
  さらには、すでに人類の想念が作り上げつつある未来の社会も、新しい地球に必要と判断されるものは実現した姿で現れるということです。さまざまな発明なども、コンセプトとして生まれたものは、霊界では一足先に完成しているからです。この説明を聞いても、やはりガテンがいきませんか?

  最も苦しいのは1年と半年、半年と1年であるぞ。死んでからまた甦られるように死んでくだされよ。マコトを心に刻みつけておりてくだされよ。

  2012年が終末のギリギリであるとすれば、その3年(1年半+1年半)前の2010年あたりからが最も苦しい時代になりそうです。「死んでも(ミロクの世の住民として)甦られるように」死んでくれと言われています。「心の調律をして波動を高めておけ」というふうに受けとめたいと思います。
                           ――『2012年の黙示録』189ページ〜
 
  いかがでしょうか。この『日月神示』に述べられている内容を信じるならば、2010年ごろからは、たぶん戦争や自然災害、食料不足などの複合的な災難に直面し、多くの人が生きるか死ぬかの状態になっているはずです。とてものんびりと本を買って読むような社会状況ではないと思われます。
  2010年といえば4年後です。その年からが「最も苦しい」ということで、それまでも「苦しい」ということが読み取れます。聖書では「艱難の7年」と述べられていますから、すでにその「苦しい」時代に突入しているのです。
  本も読めないような「最も苦しい」時代が来る前に、一人でも多くの人に私の本を読んでいただきたいと願っているのですが、どうやらこれからの4年間が勝負になりそうです。
  N専務のお話では、「あのような(地味な内容の?)本が売れるのは、やはり口コミが一番ですよ」とのことでした。皆さまのお力添えを切にお願いしたいと思います。
  今日の最後に、『2012年の黙示録』の中から、終末における日本の役割を述べた内容をご紹介しておきたいと思います。

■ 終末における日本の国の役割

  日本の国は一度つぶれたようになるのざぞ。一度は神も仏もないものと皆が思う世が来るのぞ。その時にお陰を落とさぬよう、シッカリと神の申すこと腹に入れておいてくれよ。日本の国は世界の雛型であるぞ。(中略)
  日本は真ん中の国であるぞ。日本精神は真ん中精神、末代動かぬ精神であるぞ。三千世界の大掃除であるから、掃除するには掃除する道具もいるぞ。人間もいるぞ。今の有様では、いつまでたっても掃除は出来ん。ますます汚れるばかりぢゃ。一刻も早く日本を足場として最後の大掃除を始めてくだされよ。神が致すのでは人間が可哀想なから、くどう申しているのぞ。

  日本は終末の時代に、世界の中でも大変重要な意味と役割をもっているということです。このことはインディアンのホピ族の預言にも述べられています。日本は世界の雛型なのです。地形もそうですし、そこで起こる出来事もそうなのです。いわば霊界地球と物質地球をつなぐパイプであると言えます。霊界で起こったことはまず日本に移写され、それが世界に起こっていくのです。逆に日本がしっかりすれば世界もしっかりしてくるということです。
  そのことを知り尽くしているサタンが、日本という国を破壊することによってミロクの世の実現を阻止するために、今もあの手この手を使って攻撃を仕掛けているということです。もちろん、そのことに対しては「神一厘のシナリオ」が準備されているということですが、大事なのは今の日本に生まれてきた私たち一人ひとりの心の持ち方なのです。
  日本人一人ひとりがまず自分自身の心の大掃除を始めることによって、地球の次元アップとミロクの世の出現がスムーズに行なわれるということです。もちろん、それが不十分であれば、神の力で強制的に大掃除がなされるわけですが、そうなると多くの魂が救われない側に行ってしまいますので、それでは「人間が可哀想」とおっしゃってるわけです。

■ 2012年からミロクの世がスタートする

  新しき御代のはじめの たつの年 あれ出でましぬ かくれいし神

  2012年は日本の暦では辰年となっています。「新しき御代」すなわちミロクの世のスタートは辰年ということです。やはり2012年という年が立て替え・立て直しの年ということになりそうです。
                           ――『2012年の黙示録』210ページ〜



終末試験
● 「終末試験」は既に始まっている   2006年2月1日(水) [TOP]

11.どのような人間(魂)が次元アップするのかということについては聖書やわが国
   の神道系の神さまからの預言に述べられている。言葉と食べ物、想念(心の持
   ち方)などが重要な要素を占めると言われている。



  「このホームページがお伝えしていること(骨子)」の11番目の項目です。
 『大本神諭』にも『日月神示』にも、“身魂磨き”という言葉が頻繁に出てきます。そして、これから始まるこの世の立て替えにあたっては、身魂を磨いていない人間は助からない(根の国、底の国に落とされる)ということでした。終末の大峠において“光の子”として選ばれ、地球と一緒に次元上昇するためには、大天変地異などが始まるまでにしっかり身魂磨きをしておくことが大切だということです。
  では、“身魂磨き”とは具体的にどういうことを言うのでしょうか。神示によれば「心と口と行ないを誠にすること」とされています。これは仏教の修行で大切なポイントとされる「身・口・意をコントロールする」ことと対応しているのです。どうやら“身魂磨き”には、@私たちの発する言葉、A心で思うこと、B行ない、の3つが重要なポイントとなっているようです。
  私が特に重視している大切なキーワードは「与える(他者の幸せを願う)」「学ぶ(向上心)」「楽しむ(阿呆になって踊りを楽しむ)」の3つです。そのことは、『2012年の黙示録』(当HPの「フツーの人が書いた黙示録」)の「希望編」の中で「波動の法則」として詳しく説明していますので、ぜひそちらをご覧いただきたいと思います。ここでは次の『日月神示』に述べられている“身魂磨き”の内容について考えてみたいと思います。

  人間それぞれのミタマによって役目違うのであるぞ。手は手、足は足と申してあろう。何もかもマゼコゼにやるから結びつかんのぢゃ。
 ミタマ磨けてさえおれば、心配なくなるぞ。心配は、磨けておらぬ証拠ぞ。ミタマ磨きとは、善いと感じたこと直ちに行なうことぞ。
              ――『ひふみ神示』岡本天明・筆/コスモテン・パブリケーション

  「ミタマ磨きとは、善いと感じたこと直ちに行なうことぞ」と述べられています。 しかしながら、人類がいよいよ「終末」を迎えたと思われる今日において「善いと感じたこと直ちに行なう」のが大切だとわかっても、ほとんどの人は特別な努力もせずにその日暮らしをしてしまう可能性が高いと思われます。それにはいくつかの理由が考えられますが、大きく分類すると次のようなことではないでしょうか。

 (1) 終末の意味を知らない。あるいは今が終末の時代だということを信じていない。

  聖書の教えを生活の基盤としている西欧社会や、コーランの教えを絶対のものとするイスラム社会では、一般の人でも「終末」についてなんらかの認識がなされていると思われますが、聖書やコーランの影響を受けていない日本では、終末思想はほとんど受け入れられないのが実情でしょう。
  特に戦後世代が人口の過半数を占めるようになって、平和な社会しか経験していない今日の日本人は、文字どおり“平和ボケ”のなかで、国や社会の行く末について真剣に思いをめぐらす人は少なくなっていると思われます。
  それよりも、「景気がよくなるかどうか」「株が上がるかどうか」「どうしたら楽にお金を儲けることができるか」「プロ野球はどこが優勝するか」「サッカーのワールドカップで日本はどこの国と対戦するか」などといった目の前の問題に対する関心の方が強くなりがちです。これはテレビを中心とするマスコミによって、そのように洗脳されているためでしょう。
  テレビは視聴率によって広告収入が左右されますから、どうしても視聴者の好む番組を中心に編成します。結果として、大衆受けをする低俗番組が増えて行くのです。最近「スポーツ」や「クイズ」などのような他愛もない番組がますます増える傾向にあるのには驚かされます。テレビ番組の制作者も視聴者も、いま世界で起こりつつあることの意味とその影響について考えることもなく、あたかも目隠し状態に陥っているかのようです。

 (2) 周りの人がやり始めてからでも間に合うと考えている。(「みんなで渡ればこわくな
    い」といった考えが漠然とある)

  「善いと思ったこと」でも、新たに始めるとなると一大決心が必要です。たとえば、『2012年の黙示録』の中では「禁煙」を例にとって説明しましたが、タバコが健康に良くないとわかっていても、一度飲み始めるとやめるのは大変です。
  私も、いったん禁煙した人がいつの間にか元に戻っている例をたびたび見ています。「自分は意志が弱いから」と自嘲的に言う人もいますが、一度身につけた習慣を変えることは、それだけ難しいということでしょう。
  最近ではタバコをやめる人(最初から飲まない人)は珍しくありませんので、今度は「タバコ」の代わりに「肉食」を例にとって考えてみましょう。私に届くメールの中で、「肉を食べるのをやめた」という方が何人かありました。それも、単に健康のためでなく、身魂磨きのために実行したと言われるのです。
  肉食をやめるには周りの人の協力が必要になりますから、タバコをやめること以上に難しいはずです。それを実行に移せる人は、間違いなく終末の卒業試験に合格する人だろうと思います。一般的には、肉食をやめようとすると、その決断を思いとどまらせようとするさまざまな心のささやきがあります。例えば次のような気持ちのどれかが浮かんでくるはずです。

 @ 食べ物と心の問題は関係ない。(だから、やめる必要はない)
 A いままで食べてきて何も問題なかった。(だから、やめる必要はない)
 B 周りの人もみんな食べてる。(だから、自分だけやめる必要はない)
 C 肉が健康に悪いとわかってからやめればよい。(だから、いまはやめない)
 D こんな美味しいものを食べられないのなら、別に早死にしてもかまわない。(だから、
   やめない)
 E たまに食べるくらいなら問題ないだろう。(だから、やめる必要はない)
 F 少しぐらいは食べても大丈夫だろう。(だから、やめる必要はない)
 G 野菜と一緒に食べれば問題ないだろう。(だから、やめる必要はない)
 H 食べ物は好き嫌いなく食べることが大切だから、肉も食べる方がよい。(だから、や
   める必要はない)
 I 肉を食べないと元気が出ない(栄養が不足する)ような気がする。(だから、やめな
   い方がいい)
 J 仕事の関係や人とのつきあいでどうしても食べざるを得ない。(だから、やめられな
   い)
 K 肉を食べないとわかると、人から変に思われる。(だから、やめたくない)
 L 家族で自分だけ肉を食べないわけにはいかない。(だから、やめられない)
 M 育ちざかりの子どもには肉を食べさせるほうが経済的だ。(だから、肉はやめられ
   ない)。
 N 妻が(親が)つくってくれる肉料理だから食べないわけにはいかない。(だから、や
   められない)

  ‥‥などなど、まだまだたくさんの「やめられない(やめたくない)理由」が人それぞれに思い浮かぶことでしょう。しかしながら、もし肉が美味しくない食べ物であれば、わりと簡単にやめられるはずです。やめられない本当の理由は、要するに「肉はおいしい食べ物」だからなのです。また、現代の日本人は子供のころから肉料理に親しんでいるため、その味覚が習慣化してしまっているということもあります。
  最近では「健康の面からは肉は食べない方がよい」という情報も出回るようになりましたが、「肉を食べたら必ず(すぐに)病気になる」ということではありませんから、現在ではほとんどの日本人が、何も心配することなく肉料理を口にしています。「肉を食べない」という人の方が肩身が狭いような社会風潮さえ生まれていると言えるでしょう。
  そういう状況の中では、「健康のために肉食をやめる」という人はあっても、「身魂磨きのため(肉体と魂の波長を高めるため)に肉食をやめる」という人は、ほとんどいないのではないかと思います。
  もし決心したとしても、それを実行しようとすると、上に挙げたような考えのどれかが心に浮かぶはずです。これこそが、「善いと思ったこと」を実行させないようにする「1本の誘惑」なのです。私たちはいつもそのような小さな誘惑を受けていて、ほとんどの場合、その誘惑に負けています。人はもともと誘惑に弱いのです。
  そして、ひとたびこのような誘惑に負ける実績をつくりますと、そこに「心の癖」ができあがり、次からはいろんな局面でそのような誘惑に負ける自分をつくり出すことになります。つまり、「負け癖」がつくのです。
  終末においては、このように「心の誘惑に負けるか、あるいは打ち克つか」を試す形での「卒業試験」が次々と出題されます。そして、残念ながら「1本の誘惑」に負ける人の方が多いのではないかと思われます。そのことを述べた『2012年の黙示録』の一節をご紹介しますので、もう一度お目通しください。

■善いと思うことをすぐ行なうのがミタマ磨き
  「善いと感じたこと直ちに行なうこと」が大切だということです。前に、タバコをやめる場合の「1本の誘惑」という話をいたしましたが、私たちの心の調律で一番難しいのがこの誘惑を振り払うということです。
  誘惑には2種類あって、「〜をしたい」というものと、「〜をしたくない(怠けたい)」というものがあります。しかしながら、一人ひとりの心にささやきかけてくる誘惑の声は、波動がよく似ているのです。

 @ 誰でもやっていることだから、やってもかまわないだろう。(と自分を許して、やっては
   いけないことをする)
   誰もやっていないことだから、やらなくてもいいだろう。(と自分を許して、やるべきこ
   とをしない)
 A 今回だけだから、やってもかまわないだろう。(と自分を許して、やってはいけないこ
   とをする)
   今回はパスして、次からやろう。(と自分を許して、やるべきことをしない)

  タバコやお酒をやめようとか、日記をつけようとか、間食を減らそうとか、自分の成長・進化にとって良いことをしようと思うと、人の心に必ず「1本の誘惑」がやってくるのです。この誘惑に勝てない人は、ミタマ磨きができないことになります。
  政治家で贈収賄の罪に問われる人も、最初は「誰でもやっていることだから」という気持ちで自分を許していくのです。あるいは「この程度の(小さな)金額だから」という許し方もあるでしょう。それがホコリとなって潜在意識に蓄積されて行き、やがてメグリとして運命に影響を与えていくことになってしまいます。新しい時代、次元アップした地球では、そのようなメグリがあると生きていけないということです。今から、新しいメグリをつくらず、過去のメグリを解消していくために、「善いと思ったことはすぐに行なう」ことを心がけたいものです。
                           ――『2012年の黙示録』180ページ〜

  「1本の誘惑」が「悪魔のささやき」なのか「神さまのテスト」なのかは、その人の受け取り方によって違うと思いますが、いずれにしても私たちの心に浮かんでくる「1本の誘惑」はたいへん巧妙です。直接ささやきかけているのは多分悟りの低い背後霊か、または波長の合った低級霊(動物霊)だろうと思われますが‥‥。
                       ☆ ★ ☆
  さて、次々と心の中に湧き起こってくる「1本の誘惑」を振り切って善いことを始めようとしますと、次には必ず邪魔が入ります。「好事魔多し」ということです。私たちが善いと思ったことを実行するのを阻止する働きとしか思えないようなことが、次々と身の回りに起こり始めるのです。これも「悪魔の嫌がらせ」または「神さまのテスト」と見ることができます。
  例えば、「肉を食べない」という決心をした人には、次のようなことが起こるでしょう。

 @ 家族(親や子供、配偶者)から猛反対される。(あるいは「肉が食べたい」「お肉を
   食べさせて」とせがまれる)
 A 恋人から、「美味しい肉料理を食べにつれてって」と頼まれる。
 B 上司や大事な取引先から「うまい肉をおごってやる」と誘われる。
 C 進物で豪華なハムの詰め合わせが届く。
 D 家の近くに「焼き肉食べ放題」の店が出店する。

  ‥‥などなどです。その他、肉を食べたくなる(食べざるを得ない)ような状況が身の回りで発生し、誘惑の手が強化されてくるのです。人の決心をぐらつかせるような出来事が次々と起こり、そのうちに「ちょっとだけならいいか」と、心のゆるみが起こります。
  その「誘惑」の手口はたいへん巧妙です。タバコをやめた人が再び飲み始めるのは、この巧妙極まる「1本の誘惑」に心を許した結果なのです。つまり、次の文章にあるような形で、「1本ぐらい飲んでも大丈夫だよ」と安心させる心のささやきがあるのです。

■光の子になるための条件とは
 ‥‥私はこれを「1本の誘惑」と呼んでいます。
 タバコをやめることにチャレンジした人たちが、1カ月あるいは1年後に、再びタバコを吸い始めるようになる一種のパターンがあるのです。それは、「1本ぐらいすっても、もう大丈夫だろう」という気持ちで心を許してしまうことです。これが「1本の誘惑」です。
 確かに、1カ月もタバコをやめた人が、途中で1本をすったとしても、翌日からすぐに喫煙癖が復活するわけではありません。それから1カ月くらいは無理なく禁煙が続けられるのです。そうやって安心させておいて、またしばらく経つと今度は「2本目の誘惑」がやってきます。このときは、前回成功した経験もありますので「1本くらいすっても‥‥」という安心感はさらに強くなっています。つまり、誘惑に対するガードが甘くなっているということです。こうやって、2本が3本に、そして、いつの日か元に戻ってしまうというパターンが巧妙に準備されているのです。こういう形で、私たちが「誘惑に強いか、弱いか」ということについての判定がなされてしまいます。
 「タバコ」を「ケーキなどの甘い食べもの」「お酒」「異性とのセックス」「ショッピング癖」など、その他のものに置き換えてみてください。あなたにも何か当てはまるものがありませんか?
 そのような物質次元のさまざまな誘惑にうち克つ心を持てるかどうかが、新しい時代行きの切符を手にできるかどうかを判断する基準になるのです。
                          ――『2012年の黙示録』117ページ〜

  本日の結論を整理しますと次のようになります。

 (1) 「終末試験」は既に始まっている。合格するためには「善いと思ったことをすぐ実行
    すること」が大切である。
 (2) 善いと思ったことを実行しようと思うと、まず心の中にそれをやめさせようとする働
    きかけ(「1本の誘惑」)が生まれる。
 (3) 「1本の誘惑」を振り切って実行しようとすると、今度はさまざまな邪魔が入る。
 (4) そのような二重三重の障害を乗り切ったとき、そのテーマに関する「終末試験」に
    合格したことになり、次の単元へと進むことができる。

  “身魂磨き”についてはまだまだ検討していきたいと思いますが、要するに「この世で身につけた欲望(物質欲、名誉欲、色欲など)から心を自由にすること」が大切だということです。「心を自由にする」ことを別な言葉で言うと「誘惑に負けないように精神を鍛える」ということで、そのためには「人生で大切なことは何か」に気づくことがまず必要になります。それが「向上心」ということです。
  そして、大切なことに気づいたら、それを直ちに実行することです。「そのうちやろう」という心の姿勢を持つと、「そのうち」は永遠に来ることはありません。怠惰なままの日々があっという間に過ぎ去って、いざとなって地団駄を踏むことになるでしょう。
  子どもの頃、夏休みが終わって学校が始まる直前に、宿題を一度に片づけようとして頭を抱えた経験はありませんか(私はそうでした)。
  夏休みの宿題は早めにとりかかるにこしたことはないのです。まして、生まれ変わりの中で解決させずに来た重要な宿題ですから、1つでも多くやり遂げる姿勢が必要だと思います。高をくくってはいけないのです。時間のスピードはますます速くなります。
  毎日を「平和で楽しく暮らせればよい」という考えで生きていては、終末の卒業試験に合格することは難しいということを、各神示は伝えてくれているのです。素直に(母親の愛を疑うことのない幼児のような気持ちで)信じることではないでしょうか。信じて身魂磨きをはじめても、何も失うことはないはずですから‥‥。



『大本神諭』をアップ
● 『大本神諭』をアップしました   2006年1月26日(火) [TOP]
  出口ナオや出口王仁三郎に降ろされた一連の大本関連の神示をご紹介してきましたが、一貫してこれから人類が迎える終末の「大峠」と、その後の「神の国(ミロクの世)誕生」までの流れを述べたものであることがご理解いただけたことと思います。
  中でも、『大本神諭』には、日本が世界のひな型の国として、世の立て替え、立て直しに重要な意味と役割を持っていることが繰り返し述べられています。そして、そのためには一人でも多くの日本人が、「我良し(利己主義)」の西洋文明の呪縛から目を覚まし、本来の日本魂を取り戻す必要があるということでした。
  神示そのものは、明治から大正にかけて降ろされたものですが、その中身は現在の日本の姿そのものを描いているかのようです。まさに、いま私たちが終末の時代を迎えていること、そしてこの予言の示す内容を真剣に受けとめるべき時期に直面していることを痛感させられる内容です。
                       ☆ ★ ☆
  ということで、この『大本神諭』をできるだけ多くの人に読んでいただくために、当サイトの「フツーの人が書いた黙示録」の中に収録することにいたしました。とりあえず「天の巻」の一部をアップいたしましたので、ぜひご覧いただきたいと思います。これから少しずつ私の解説も書き加えていく予定です。→『大本神諭・天の巻』
  ここで、出口ナオの生い立ちから神憑かりになるまでの経過をご紹介しておきます。以前に当「つぶや記」でご紹介した内容の再掲です。これを読みますと、『大本神諭』は、いま一般的に知られるようになった『日月神示』をはるかに上回る大がかりな神界の計画によって、因縁の身魂とされる出口ナオにこの世で大変な苦労をさせ、その魂をトコトン研きあげた上で降ろされた神示であることがわかります。

  出口ナオは天保7(1837)年12月16日、丹波国福知山紺屋町(現京都府福知山市)の大工、桐村五郎佐三郎の長女として生まれた。ナオが生まれるころは貧困のどん底にあった。おまけに天保の飢饉である。
  彼女の苦しい人生ははじまった。酒乱の父に簀巻きにされて雪の中にほうりだされたり、10歳からの住み込み奉公‥‥。
  17歳のとき、ナオは綾部の叔母出口ユリの養女となり、19歳で婿をとる。結婚してもナオの不幸はつづく。夫政五郎は、人のよい腕利きの大工であったが、むら気なうえに大酒飲みの浪費家で、幕末、出口家はつぎつぎに田畑、家屋敷を手ばなし、没落の一途をたどった。
  おまけに、夫はアル中の中風になって回復の見込みもなく、そのうえ大工の見習い中であった長男の竹蔵は、ノミで喉を突いて自殺未遂をはかったあげく行方不明になる。悲惨な重病人をかかえ、3人の幼児を育てるため、ナオはぼろ買い、紙屑拾いにまでなった。
  このようなナオの周辺に、ある予兆がさしたのは明治23年のことである。この年の9月、人力車夫、福島虎之助のもとに嫁いでいた三女のヒサは、産後の肥立ちが悪く、逆上してあばれだし、座敷牢に入れられ、神の幻影を見る。つづいて翌年の旧12月、こんどはばくち打ちの大槻鹿蔵に嫁いでいた長女ヨネが発狂する。ヨネの狂乱はとくにはげしく、大槻家の前には見物人が集まるほどであった。
  明けて明治25(1892)年の元旦の夜、ナオはあばら屋の壁ぎわにすわって、発狂した長女のことや行方不明の長男のことを思い浮かべ、これまでの辛い人生をふりかえっていた。夢かうつつか、からだがふんわりと軽くなり、天に昇るような気分になってきた。気がつくと白い衣を着た仙人のような人が眼前に立っていた。
  そのような体験がしばらくつづいたある夜、ナオは腹の中にずしんと大きな力が宿るのを感じた。しかも、その力は腹の底からぐんぐんと上がってきて、声になって出ようとする。ナオは歯を食いしばって声を出すまいとするが、声はそれをこじあけて出ようとする。ついに耐えきれなくなって口をあけると、ナオは自分でも驚くほどの大音声を張り上げていた。
  「われは、艮(うしとら)の金神である。今の世は、金輪際の悪人の世。世を立て替え、善の世に直すぞよ‥‥」
  自分の口から出る声は、力強く、まるで男のような声であり、すでに55歳のナオにとっては、耐え難い苦しみだった。
  「やめてくだされ。そんな偉い神サマが、なんでわしのような屑拾いなどにお憑かりなさるのか‥‥」
  すると神はこういう。
  「この世の代わり目にお役に立てる身魂であるから、わざと根底に落として苦労ばかりさせてあろうがな」
  さらにナオが、何のために降臨したのか再び問うと、
  「三千世界一度にひらく梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。この神でなければ、世の立て替えはでけぬ。三千世界の大掃除大洗濯をいたすのじゃ。三千世界ひとつに丸めて万劫末代つづく神国の世にいたすぞよ」
  とこたえた。
  こうしてナオの神憑かりははじまった。そのうち、この「艮の金神」と名のる神は、ナオの口をかりて、予言や警告めいたことを口走るようになる。
         ―― 『出口王仁三郎の霊界からの警告』(武田崇元・著/光文社文庫)



「三分しか助ける身魂がない」
● 「三分も助ける身魂がないぞよ」   2006年1月21日(土) [TOP]
  今回は『大本神諭・火の巻』(平凡社)から、神示の要点ともなっている部分を引用してご紹介したいと思います。明治25年から出口ナオに降ろされた神示では、同じような内容が繰り返し繰り返し述べられています。基本的には「世の立て替えが始まるから、早く身魂を研いて準備をしておけ」ということです。具体的な“身魂磨き”の方法は『大本神諭』の中には述べられていませんが、「外国(=西洋)の真似ばかりしていることが間違いだ」ということですから、言わんとされてる内容は判断できます。
  それでも、実際には日本人の中に身魂磨きの動きがあまり見られないどころか、ますます西洋化の風潮が広がっていったために、出口王仁三郎の没後、岡本天明に同じ艮の金神を名乗る神さまからのメッセージが届けられ、そこで具体的な“身魂磨き”の方法を伝えるという構造になったものと思われます。
  ただ、終末までの「立て替え(破壊)」の内容と意味については、この『大本神諭』に大変詳しく述べられています。この神諭の特徴は、常に守護神と人民をセットにして語り掛けているという点です。守護神は私たちのハイヤーセルフのことで、日々私たちを導いている霊界の中心的存在ですが、いま多くの日本人の守護神自身が悪神に騙されているということが繰り返し警告されているのです。
  『日月神示』には、「この神示は声を出して何回も読め。守護神にも読み聞かせるためぞ」という趣旨のことが述べられていますが、守護神といえども霊界では人民(肉体を持ってこの世界に生きている人間)を通じてしか新しい気づきを得ることはできませんから、その守護神の認識を改めるためにも、この『大本神諭』を繰り返し読んでいただく必要があると思います。いずれ、『天の巻』『火の巻』のダイジェストを当サイトにアップする予定ですが、とりあえず代表的な内容をピックアップしましたので、じっくりお目通しください。部分的にミニ解説を付けさせていただきました。

■大正6年旧11月23日(以下同じ)
  至仁至愛大神(みろくさま)の御出現(おでまし)になる時節がまいりて、明治25年から変性男子(へんじょうなんし=出口ナオ)の身魂に手と口とで知らさしてありたことが、実地に出てくるぞよ。今まで良きことをいたしてきた身魂は、良きことが出てくるなり、悪いことをいたした身魂は、悪いことが出てくるなり。何もかも一度に現れるぞよ。何もかも世界中のことは、帳面に書留(つけとめ)てある同様に、天地の先祖は何一つ知らんということはないから、底の判らぬ経綸(しぐみ)がいたしてあるぞよ。

  前回ご紹介した桑原啓善さんの譬えの「白いボールを投げたら白いボールが、黒いボールを投げたら黒いボールが、それぞれ返ってくる」ということが述べられています。そして、「時間のスピードがゼロ・ポイント(大峠)に近づくにつれて、すべてが一度に現れる」ということが、この内容からも確認できます。私たちが過去においてつくってきたすべてのカルマが天地の先祖(宇宙創造神?)には把握されていて、大峠までに現実化するということです。

  今までは悪神の支配の世でありたから、何事も見て見ぬふりをしておりたなれど、さっぱり時節が回りてきて、のっぴきならんことになりてきたから、いつ船が覆(かえ)るやら解らんぞよ。一度に開いてバタバタといたさねば、何時までも同じことに永う掛かりておりたら、世界中が泥海になりて、人胤(ひとだね)もなくなりてしまうから、神は日本の元の経綸どおりに始めるから、いったんは世界中の大混雑となるぞよ。そうなりてくるまでに、神の申すことを信実(まこと)に聞いて身魂を研くように、筆先で日々知らしてありたが、今の上の守護神も人民も一つも判らんから、今の世界の混乱であるが、今でさえどうすることもよう致さずに途方に暮れておるが、まだまだこんな容易(たやす)いことではないが、その時はびっくりいたして腰を抜かして、頭を下にして歩くようになるぞよ。そこになりたら、四つ足の守護神の正体が自ずと現れてくるが、まことに気の毒なものであるぞよ。

  「四つ足の守護神」とは、日本人が動物霊に憑依されていることを述べています。特に世に出ている人物ほど、それが多いそうです。権力やお金に執着する人間ほど動物に近いということでしょう。そういう人物たちは、終末には大変気の毒なことになると述べられています。

  盲目と聾の守護神、人民は、実地が来るまでまことにいたさんから、ジリジリ舞いの狼狽舞いをいたすことがきても仕様はないぞよ。鬼とも、蛇とも、悪魔とも譬え方のない、イヤらしい外国の性来(しょうらい)を日本の守護神が見習うて、「外国のやり方は良い」と申して、上も下も真似ばかりいたして、今の日本の国の心配、外国の今の態(さま)、あれだけ畜生の性来が現れてきておりても、まだ眼が覚めぬか。大将までが下になったり、上になってみたり、さっぱり日本の神国を畜生の玩弄物(おもちゃ)にされてしもうて、天地の先祖も堪忍袋が切れかけたぞよ。

  ここは解説の必要もないでしょう。神さまが厳しくとがめておられるのは、アメリカの真似をしてマネーゲームに狂奔し、「拝金主義」に成り下がってしまっている今日の多くの日本人の姿そのものなのです。

  露国へ昔から上がりておりた悪神の頭が、露国の国を無茶苦茶に乱してしもうて、外国の隅々までもワヤにいたして、金の要るのは底知れず、人の命を取るのも底知れず、行きも戻りもできんようにいたして、食物もないところまでいたして、終いには日本の神国へ攻めてきて、世界を我のままにいたすドエライ悪い奸計(たくらみ)をいたしておるが、もう九分まで悪の目的は成就いたしたなれど、日本の国の先祖の一輪の経綸(しぐみ)で、手のひらを返して天下泰平に世を治めて、あとは七福神の楽遊びといたして、世界の人民を助ける日本の元からの経綸であれども、今の世界の守護神、人民の心では、三分も助ける身魂がないぞよ。

  助かる人民(光の子=ミロクの世へ行ける魂)は三分(30%)と述べられています。日本人の30%は約3,700万人。では、残りの約9,000万人はいずこへ‥‥?

  この世の上へ上がりておる悪の守護神が、皆揃うて「体主霊従(あく)では行かん」ということが判りてきて、霊主体従(ぜん)の道へ立ち返らんと、世が治まるということはいたさんぞよ。向こうの国はちっとも急(せ)きはいたさんぞよ。「我の世に奪(と)れな(ければ)、児の世に奪る。児の世に奪れな(ければ)、孫の世に奪る」という気の長い経綸であるから、「何時になりても奪りさえしたら良い」と申して、ちっとも急ぎも動きもいたさんぞよ。日本の国はそんなことをいたしておりたら国家が潰れてしまうから、天地の元の生き神がちょっとの秘密をいたしてあるぞよ。
  日本の国の仕組みは、知恵や学力では何ほど考えても判りはせんぞよ。ちと深い仕組みがいたしてあるぞよ。外国の仕組みは浅いから、すぐに人の眼に判るなれど、日本の経綸は外国魂では判らんぞよ。何彼(=いろいろ)の時節がまいりてきたから、始まりたら何も一度に開けてくるから、よほどしっかりと覚悟をいたさねばならんから、今に続けて知らしておるぞよ。疑いと、我情と、取り違いとがいちばん恐いぞよ。

  「向こうの国」とは「陰の超国家権力」すなわちイルミナティの「奥の院」を指していると思われます。その実態はつかめませんが、霊的世界では見えているのでしょう。その「陰の超国家権力」を支配する霊的存在(=サタン)が、神の国である日本を奪おうとしているのです。
  「陰の超国家権力」の一翼を担うフリーメーソンのバッジが、「世界地図の上を這い回っている蛇(=サタンのシンボル)が、舌を出して日本を狙っている姿」の絵柄になっていることを以前にご紹介しましたが、まさにサタンは日本の国を霊的に支配しようと狙っているのです。
  それでも日本にはちゃんと神さまの手で「知恵や学力では判らない」仕組みがしてあるということですから、最後は大丈夫ということで、安心しておきましょう。時間がゼロ・ポイントを迎える直前になると、「何も一度に開けてくる」ということで、大天変地異が起こることは覚悟しておく必要があると思いますが‥‥。

  今度の大戦いは人民同士の戦いでないぞよ。神と神と、国と国との、末代に一度よりない大戦いであるぞよ。今度の日本と外国との戦いには、男も女も、子供も、年寄りまでも日本魂(やまどだましい)に立ち返りて神国を守らねば、日本の先祖の大神に申し訳が立たんぞよ。今のような「我さえ良かりたら、人はどうでも構わん」というような精神でありたら、日本の国もえらいことになるぞよ。日本の霊主体従(ひのもと)の結構な神国を、悪神の頭と四つ足にここまで自由にしられて、これが悔しくないような腰抜けがたくさんあるが、今に日本の頭の上にかぶさっておる大難を、何といたして打ち払うつもりであるか。先の見えん守護神、人民には、神も往生いたしておるぞよ。

  「今度の大戦い」は異次元における戦争であるということです。新約聖書でも、「天(霊界)でミカエル(天使軍)と龍(悪魔軍)の戦いがあった」と述べられています。その神霊界の姿が徐々にこの三次元世界に現れてくるということです。そして、すでに神霊界では、戦いの決着はついていると言われています。ただ、人類がこれまでにつくってきたカルマがこれから表出してきますので、それを受け取る側の人間次第で、この世界の混乱の程度が左右されることになるということでしょう。
  「自分さえよければ、他人はどうなっても構わん」という精神の人は、大変悲惨な結末を迎えることになりそうです。戦後教育の中で「国全体のことよりも、まず自分のことが大切」と、個人主義と権利主義を教えられて育った人たちの多くは、これからその間違いに気づかされることになるでしょう。

  初発からの筆先に、「今度は世界が三分になる」と毎度知らしてあるが、世界は三分になるぞよ。日本に間に合う身魂がないようになりておるから、今まで人民の思うておりたことが大間違いになりてくるぞよ。
  この世ができてからいまだない、末代に一度しか知られん二度目の世の立て替えであるのに、何も判らぬ悪神の仕組みは、我良しの強い者勝ちのやり方であるから、我の血筋と、親族と、眷属とさえが良かりたら、「何時までかかりても、奪れたおりに奪りたら良い」という悪神の仕組みは楽なやり方であるぞよ。

  ここでも「世界が三分になる」と述べられています。神霊界では悪神が「いつまでかかってもいいから、日本(という霊の元の国)を奪うことができたらよい」と言って、ゆっくりと日本の堕落を画策してきたということです。しかし、それを放置していると日本の国が乱れに乱れ、終末の立て替えに役立つ人物(身魂)がいなくなってしまうので、神も立て替えを急がねばならないということをおっしゃっています。

  日本は世界の中心であるから、肝心要のところに大事な経綸がしてあるから、もうビクともいたさねども、人民の方は改心次第であるぞよ。「日本の人民も大きな取り違いをいたしておる」と、毎度筆先で書かして知らしてあるが、その大間違いの判る時節がまいりてきたぞよ。余り一度に何彼(=いろいろ)のことが判りてきて、逆立ちにならないかんようになりてきたぞよ。神が一度申したことは、何事によらずみな世界から出てくるから、一日も早く改心をいたすように、日々に続けて知らしてやりたなれど、今に誠にいたさんゆえに、何彼(=いろいろ)の時節が九分九厘となりてきて、善悪の立て分けをいたさなならんから、あちらにも、こちらにも、足元にも、何から始まるやら、人民には見当とれんことになるぞよ。ここへなるまでに、「身魂を研いておけ」と申して知らしたなれど、誠にいたして聞く身魂がないから、これからは罪穢(めぐり=カルマ)のあるとこには、罪穢だけの借銭済ましをいたさすのであるぞよ。「今度の二度目の立て替えは、国々、都会、田舎、村々、家々に、身魂の借銭だけのことは、天地の神から済まさしてしまうから、どこも恨むことは(でき)ない」と申して、明治25年から知らしてあるぞよ。知らしてあることが、良いことも厭なことも、みな一度に出てくるぞよ。
  「それまでに一人なりとも改心さして助けたい」と思うて、今まで苦労いたして知らしたのであるぞよ。新つの洗い替えの世になるのであるから、外国には厳しいことがあるぞよ。

  「日本という国には、肝心要のところに経綸(=仕組み)がしてあるから大丈夫」と述べられています。しかしながら、人民(国民)は、改心ができているかどうかによって行き先が違うということです。現時点で新しい世界(=ミロクの世)に行ける人は全国民の30%しかいないとのことでした。
  そして、私たちがその間違いに気づかされる時節が来たということです。どういう形で気づかされるかと言いますと、「あちらにも、こちらにも、足元にも、何から始まるやら、人民には見当とれん」ということですから、まさに社会は大混乱になると思っておく方がよいでしょう。地震などの自然災害に国家破綻による経済的混乱、外国からのテロ攻撃などが同時に発生するのかも知れません。私はその可能性が大きいと思っています。
  それは日本国民が背負っているカルマなのです。「国全体のことよりも、まず自分の幸せが大切」と考えるようになったことの間違いを気づかせるための働きかけと見ることができます。さまざまな災害は、日本国民が、個人のことを優先させる前にまず国全体の幸せを願い、そのために力を合わせることの大切さを思い起こすきっかけとなるのです。
  私は、それが「身魂磨き」の大切なポイントだと確信しています。
  それでもなお、他人を踏み台にしてでも自分(自分の身内)がまず助かりたいと狂乱する人たちは現れるでしょう。それが、終末の卒業試験なのです。そこで人は試され、最後のふるいに掛けられるということです。「そうならないために、今のうちから十分な心の調律をしておきなさい」というのが神さまからのメッセージなのです。

  日本は神の国、神が守らな治まらぬ国であるのに、肝心の一の番頭、二の番頭から外国魂になりきりてしもうておるから、何時までも世はゴタゴタいたして治まりはいたさんぞよ。今の世の持ち方はまるきり畜生のやり方で、強い者が弱い者の汗油を絞りて、その汗と油で高いところへ上がって、舌をペロリと出して見下ろしておるが、それが悪魔の世と申すぞよ。これだけ世界に上下懸隔がありては、何時になりてもこの世に口舌(くぜつ=ケンカ)の絶えるということはないぞよ。外国の真似ばかりいたして「これが開けたやり方」と申しておるが、どこが開けたのか。途中のエラい鼻高が、毎年ひととこへ国々から集まってきて、結構なご相談やいさかいをいたしてござるが、下の何も知らん人民は良い面の皮じゃぞよ。昔からの暦を潰したり、神の鎮まる先祖代々からの御宮を「金がないから」と申して潰したり、神を相借家へ放り込みておいて、人民は昔の王も叶わんような家を建て、別荘を建て、金ばかりを重宝がり、「金さえありたら神も要るものか」とえらい慢心と取り違いをいたしておるが、こんな天地を畏れぬ外国魂の畜生のやり方は、神は何時までも許すことはできんから、皆それぞれに覚悟をなさるがよかろう。外国の四つ足の真似をいたして、結構な家の内で、牛や馬の肉を煮て喰うたり、首に畜生の皮を捲いたり、畜生の毛で織った物を肌に着けたり、それがさっぱり四つ足の性来が現れておるのであるぞよ。

  「一の番頭、二の番頭」というのは、天皇の側近、または政治家のことを意味しています。天皇が実権を持っていないことは、既に明治時代からお見通しだったということです。
  「強い者が弱い者の汗油を絞りて‥‥」は、まさに現在の世界各国の状態を表しています。「金さえあれば‥‥」と、金ばかり重宝する社会になっているのも、今日のことを言っていることがわかります。

  日本の国は一日増しに押し詰まりてきて、食物はだんだんと欠乏になるなり。菜っ葉一枚でも大切なことになりてくるぞよ。何ほど金を貯めて喜んでおりても、まさかの時には金銀では命はつなげんぞよ。百万円の金よりも、一握りのお米の方が大切な世が回りてきて、田畑に植え込みて喜びておりた桑までも掘り起こさなならんことになりてくるが、人民と申すものは近欲で、誠の神の申すことは判らんぞよ。人民の精神がさっぱり曇りきりておるから、何をしてみせても、何を聞かしてやりても、神の申すことを汲み取る人民がないが、ようもここまで曇りたものじゃ。世の立て替えをいたそうにも、掛かることができんぞよ。

  「何を聞かしてやりても、神の申すことを汲み取る人民がない」と嘆いておられます。このまま立て替え(破壊)を始めると、多くの人民が救われないことになり、それでは人民が可哀想なので、なかなかそのことに着手できないということを言っておられるのです。「一日増しに押し詰まりてきて」という表現に注目してください。「刻限が切迫する」ことを表現しています。「押し詰まる」は大晦日を迎えるときの言葉です。大峠(2012年12月)が近づいてくると、「菜っ葉一枚でも大切」というほどの食糧危機に見舞われることが述べられています。同じ内容は『日月神示』の中でもたびたび警告されているのです。
  もちろん、このような神示による警告がなかったとしても、今日の日本の食糧事情(先進国一番の自給率の低さ、大半の国民が飽食の状態にあり、食べ物への感謝の気持ちを失っていること)を勘案しますと、私は日本が間もなく食糧危機に遭遇するのは避けられないと見ています。

  明治25年から、出口直の手を借り口を借りて知らしてありたことの、実地が出てくる世になりだぞよ。「露国から始まりて、日本と外国との大戦いがある」と申したが、時節が来たぞよ。「外国は終いには一腹になりて来る」と申して知らしてあろうがな。この神、一度申したら、何時になりても毛筋の横幅ほども違いはいたさんぞよ。
  外国の悪神の頭が、露国を無茶苦茶にいたしておいて、も一つ向こうの国へ渡りて、人民の王を自由に使うて、世界中の困難をも構わずに、「自国さえ良けら他はどうでもよい。人は倒しても我さえ立ちたら満足じゃ」と申して、「悪の頭が今に日本の神国に攻めて来るぞよ」と申して、知らしてあるぞよ。
  日本の人民はちっとでも誠がありて、一の番頭、二の番頭の守護神に、誠一つの日本魂さえありたら、何ほど外国の学力でも、人民がたくさんありても、金が何ほどありても、ビクともいたさねども、今の日本の持ち方は、守護神がさっぱり外国よりもまだ一段身魂が劣りてしもうておるから、今にキリキリ舞いをいたさなならぬことができてきて、往きも還りもできぬようになるのは目の前にちらついておるから、「一日も早く改心いたせよ。身魂を研けよ」と、腹が立つほどくどう申して、気がつけてありだぞよ。
  それで改心のできぬような人民は、気の毒でも今度の二度目の立て替えには間引かれて、万古末代根の国、底の国へ霊魂を落としてしまうという、神界の規則であるぞよ。神は人民を助けたさの、長い間の苦労であるぞよ。兵隊をいったん日本へ引き寄して、外国を地震、雷、火の雨降らして絶滅(たや)さねば、世界は神国にならんから、余り何時までも神の申すことを聞かねば、三千年の経綸どおりにいたすから、世界に何事ありても、神と出口を恨めてくれなよ。

  「も一つ向こうの国」はイルミナティの奥の院のことでした。その悪の頭が「人民の王を自由に使うて」とあるのは、まさに「陰の超国家権力」がアメリカの大統領を操っている姿です。操られたアメリカの支配層が、いま日本を属国のように扱って政治的・経済的に理不尽な攻撃を仕掛けているのはご存じの通りです。
  私は、「陰の超国家権力」は中国や北朝鮮をけしかけて、武力による日本侵攻を画策していると思っています。その舞台装置を整えるために、日本の“一の番頭”である小泉首相は、どこかから命じられるままに形だけの靖国参拝を繰り返し、中国や韓国の国民世論をわざと刺激して反日気運を盛り上げているというのが今日の構図です。
  わが国の“一の番頭”がそのような深遠な意図を見抜いているとは思えません。しかしながら、もし日本を戦争に巻き込もうとしている邪悪な意図を見抜いていたとしても、もはやどうすることもできないでしょう。今となってはピエロのように「改革音頭」を踊るしかないのです。かつて山本五十六や米内光政といった“日本の大番頭”たちが、「陰の超国家権力」の画策するままに真珠湾攻撃やミッドウエー海戦を演出し、日本を敗戦国に導いた時と同じシナリオが見えています。残念ではありますが、それも日本という国のカルマが表出する姿なのでしょう。
  そんな中で私たち一般国民のできること、しなければならないことは、「改心」すなわち「身魂磨き」ということです。これから起こることを恐れたり、「どうか助かりますように」と命乞いをすることではないのです。いまこそ本来の日本人の魂に立ち返り、「我良し(利己主義)」から目を覚ますことが大切なのです。
  もし「改心」ができないと、今度は魂ごと永遠に(万古末代)地獄的世界(根の国、底の国)に落とされてしまうことになるぞと警告されています。

  明治25年から、天の御先祖様の御命令を戴きて、世界の人民に何彼(=いろいろ)のことを知らせども、今の人民、欲に惚けて我が身の用意(しがく)ばかり、国のことども思う人民は、上に立っておる守護神には薬にするほどもないから、世は段々と押し詰まりてくるばかり。今に皆の人民がキリキリ舞いをいたして、アフンといたすことが到来するぞよ。
  唐土(とうど)の鳥の渡らん先(=前)に、神は還りて経綸をいたせども、聞く人民なきゆえに、残念なれど唐土の鳥が、今に日本へ渡りて来るぞよ。毒を空から降らして、日本の人民を絶やす経綸を昔からいたしておることが、よく神には判りておるから、永らく知らしたのでありたぞよ。速く改心いたさぬと、改心の間がないぞよ。神は気をつけた上にも気がつけてあるぞよ。もう何彼(=いろいろ)のことが一度に実現(なり)てくるから、「こんなことなら、もひとつ気をつけてくれそうなものでありた」と、まだ不足を申す守護神、人民があるぞよ。

  この神示をピックアップしましたのは、「唐土の鳥が日本に渡りて来て、空から毒を降らし、人民を絶やす経綸(=仕組み)をしておる」という内容が気になったからです。「唐」は中国と見るのが一般的ですが、『大本神諭』では「カラ」という表現で「外国全般」を指す場合もあります。いずれにしても、外国が日本に空から「毒」をまくということです。
  「鳥」という表現から、それは鳥インフルエンザに汚染された渡り鳥を日本に飛ばして、日本人に感染させることを意味しているのではないか、と思った次第です。大正時代の人に鳥インフルエンザのことを伝えるとすれば、このような表現になるのではないかという気がするのですが‥‥。対策は、やはり「早く改心すること」です。
  ここでも、「(終末には)いろいろなことが一度に現れてくる」と述べられています。列車の窓から見る景色の移り変わりが速くなり、最後は一瞬のうちに景色が流れていくようになる――というイメージですね。

  向こうの国の身魂は、悪いことならどんなことでもいたす、エラいものであるぞよ。向こうの国と和合いたしたら、末代「嬉しい」というようなことは一日もなしに、乱世ばかりが続くぞよ。何時になりても利己的(われよし)の、人は転けようが倒れようが「起こしてやる」というような優しい身魂はありはせんから、帰幽(でなおし)をさして、十分の行をさせて、新つにいたさんことには、道はないぞよ。

  『大本神諭』をよく読みますと、改心できない人の行き先は「根の国、底の国」となっています。仏教で言えば「無間地獄」のようなものでしょうか。「地獄は私たちの心がつくりあげたもので、地獄というものは本来はないのだ」という霊界通信もありますが、それは輪廻転生を繰り返しているときに経験してきた四次元の低い世界(幽界)のことです。
  今回の終末では「万古末代」という表現がされている通り、魂の住む世界が確定してしまうようですから、地獄的世界(根の国、底の国)に行った魂は、永遠にその世界に閉じこめられる可能性が高いと思われます。
  もちろん、最終的には地獄的世界で「十分の行(苦行?)」をさせることによって、もう一度魂を「新(さら)つ」にしてもらえるのかも知れませんが、「早く改心いたせ」とくどいほどに警告されていることから判断して、決して生易しい状態ではないはずです。やはり、「早い改心」に越したことはないでしょう。

  日本の国には昔から、天地の先祖が深い経綸(しぐみ)をいたしてあるから、何事も今度は実現(あらわれ)てくるぞよ。今になりてから経綸を変えるということはならん。大本の経綸どおりに、何事も一度に出てくるぞよ。今度の洗い替えは三千世界の大洗濯であるから、書いてあるだけのことはいたしてしまわねば、天地から何事もなしに済ますということは、今度は借銭済ましをせずに堪(こら)えることはできんから、よく人民、守護神に解るように書いて気がつけてあるぞよ。一度申したことは違わん筆先であるから、途中で変わりはいたさんぞよ。

  「何事も一度に出てくる」ことの意味は、前回述べた通りです。「今度は借銭済ましをせずに堪える(=勘弁する)ことはできん」とのことです。カルマのボールは白いボールも黒いボールもすべて受け取らなくてはいけないということです。
  後になるほど一度にまとめて投げ返されることになりますので、早く(改心して)少しずつ受け取る方が楽であることがわかります。しかも、白いボールと黒いボールは霊界でお互いのパワーが相殺されますので、黒いボールを受け取っても心を乱さないほどに身魂磨きができていれば、つまり恨んだり恐れたりする必要がないという気づきを得ていれば、その後は新たに黒いボールを投げることはありませんから、受けとる量も激減していくことでしょう。
  そのあたりのことは『2012年の黙示録』または当サイトの「フツーの人が書いた黙示録」で詳しく述べていますので、じっくりご覧いただきたいと思います。



三千世界
● 三千世界一度に開く梅の花   2006年1月17日(火) [TOP]
  前回に続いて、時間のスピードがこれから起こる出来事とどう関係してくるのかということについて考えてみたいと思います。ここでは「時間」という言葉を2つの意味に使っていきますので、その言葉の定義をしておきます。
                       ☆ ★ ☆
  私たちはいま、「時間」というレールの上を走る列車に乗って旅をしています。行き先はこの世界の終点となる「大峠駅」です。その列車内には時計が掛かっています。乗客である私たちは、その掛け時計を見て時の流れを判断する癖がついていますので、列車はいつも同じスピードで走っていると思っています。
  でも、時々窓の外を眺めてみますと、なぜか景色の移り変わりが速くなっているような気がします。列車内の掛け時計の示す時間と、外の景色の変化から感じる時間がズレているように思えるのです。ここで、列車内の掛け時計が示す時間を「時計時間」、窓の外の景色を見ることによって感じる時間を「認識時間」と呼ぶことにします。
  列車内の掛け時計だけを見ていますと、時間のスピードの変化に気づくことはありません。1日はいつも24時間ですし、1週間が6日になったりはしていないからです。しかしながら、外の景色(=自分の周りで起こっている出来事)に注目しますと、列車がだんだんスピードアップしているのが感じられます。それは、多くの人の「認識時間」が変化しているためです。
  「認識時間」は「脳が認識する時間」ですから、脳の働きが変化(活性化)しているということを表しています。どうやら私たちの脳は、いまものすごいスピードで活性化しつつあるようなのです。
  なぜいま脳が活性化しているのでしょうか――。それには、私たちの脳がこの三次元の物質世界と異次元(霊界)をつなぐ「扉」の役目を果たしている、ということを理解していただく必要があります。科学や芸術の分野で天才と呼ばれる人や、俗に「超能力者」と呼ばれる人たちの脳を科学的に検査した結果、脳の働きが一般の人とは明らかに違うことがわかっています。
  天才的なひらめきというものは異次元(霊界)から来ると言われていますが、その中継となっているのが脳なのです。私たちは脳(特に右脳)を通じて異次元と交信しているらしいということが、最近の研究で明らかになっています。
  そして、その脳が活性化するにつれて、異次元(霊界)との境界が薄くなっていくのです。つまり、脳が活性化した程度に応じて、人は異次元とのつながりが強くなる(異次元からの支援や干渉も受けやすくなる)ということです。
  わが国においては昔から、座禅などの瞑想によって脳の機能を開発し、異次元である霊界とのつながりを強める手法が知られていますが、最近ではそういう特殊な修行をしなくても、スポーツや芸術、あるいは将棋などに打ち込むことによって、超人的なすごい能力を開花させる人が出てきています。
  もともと私たちの肉体と重なり合っているといわれる幽体は、毎晩睡眠中に肉体を離れて(=幽体離脱)霊界を訪問しているらしいのです。肉体を離れた幽体が霊界で体験したことを、私たちは目が覚めたときに「夢」として記憶しているのだと言われています。ですから、霊界とのつながりがいま突然始まったということではありません。
  これまでは夢の中だけで訪れていた霊界との境界が、これからますます薄くなっていくとすれば、その結果どういうことが起こるでしょうか。そのことに対する私の結論は、「私たちのカルマの表面化するスピードが速くなる」ということです。列車の譬えに戻って考えますと、列車の窓から見える景色は「カルマが表面化した姿」ということになります。
  つまり、私たちが過去(前世も含めて)において作り出したさまざまなカルマが、今まで以上のスピードで表面化するようになってきたために、「認識時間」のスピードが速くなっているように感じるのです。異次元にプールされているカルマは、この三次元世界に現象として表れるまでは消滅することはありません。『大本神諭』や『日月神示』を読みますと、終末現象というのはカルマの大掃除、大洗濯であることがわかります。終末の大峠までに、異次元に蓄積されているすべてのカルマが現象化することになると述べられているのです。そして、その現象化のスピードが、これからますます加速されていくということです。
  異次元に蓄積されたカルマの現象化は脳が媒介することになりますから、それが一度に出てくると脳の処理能力をオーバーする危険性があります。すでにその処理能力をオーバーして、あたかも異次元とコードが繋がったような状態になっている人を見かけることが多くなったのはそのためです。いつもぶつぶつと独り言を言ったり、見えない空間に向かって語りかけたりする人を見かけますが、そのような人たちは霊界の特定の波動を持ったエリアとのつながりが強くなりすぎた結果だと思われます。
  また、最近では、突然異次元(神や進化した宇宙人を名乗る存在)からメッセージを受け取るようになったという方が増えていますが、そのような存在とコンタクトし、チャネリングを続けていますと、そのうち脳ジャックをされる危険性があることは既に警告してきました。「身魂磨き」が十分にできていない段階で異次元との交信を行なうことは大変危険なのです。相当の霊能力を備えた人であっても、いつの間にか低級霊に憑依されて、現世利益(人気やお金)の追求に走ってしまっている事例を、私はいくつも見ています。
                       ☆ ★ ☆
  テレス・マッケンナが言うように時間(認識時間)がスパイラル(らせん状)に進んでいるとすれば、いまその渦が中心(ゼロ・ポイント)に向かって集束しつつあると考えられます。その結果、渦の回転するスピードがどんどん速くなっているということです。
  渦は水面近くのところはゆっくりと回っていますが、中心部分ではものすごいスピードで回るようになります。それと同じ形で時間のスピードが加速されるとすれば、これからどんな出来事が私たちを待ち受けているのでしょうか。
  『大本神諭』に、「時節が来たから、何もかもが速くなる」と繰り返し述べられていることを、以前にご紹介したことがありますが、ここでもう一度『大本神諭・天の巻』(平凡社)の中の一節を引用しておきます。

  三千世界一度に開く梅の花、艮(うしとら)の金神の世になりたぞよ。梅で開いて松で治める、神国の世になりたぞよ。(明治25年旧正月…日)

  時節が近寄りたぞよ。世界一度に開くぞよ。(明治34年旧3月7日)

  何事も時節が一度に参りて来て、世界中の困難が到来するということが、毎度知らしたことが、実地になりて、一度に開く梅の花、おいおい分からなんだことが明白(ありやか)に分かりて来て、キリキリ舞いをいたさなならん、夜の目も眠られんようなことになると申しておいたが、一度筆先に出したことは皆出てくるぞよ。(大正7年旧正月12日)

  三千年余りての仕組みが、一度に実現(なり)て来て、一度に開く梅の花、万古末代萎(しお)れぬ花が咲いて、三千世界は勇んで暮らす神国になるぞよ。(明治31年旧5月5日)。

  「時節が一度に参りて来て、世界中の困難が到来する」ということは、たとえば地震や洪水、ハリケーンなどの自然災害が一度に発生する、とも受け取れます。あるいは地軸の移動によって「陸が海になり、海が陸となる」ような現象が起こることを述べているのかも知れません。
  「一度に開く梅の花」という言葉は、『大本神諭』の中では繰り返し使われています。私はこれこそ「時間がゼロ・ポイントを迎えた瞬間」のことを指しているのではないかと思っています。
                       ☆ ★ ☆
  それでは、ここでもう一度「時間列車」の譬えで考えてみます。車内の掛け時計が示す時間(時計時間)は常に一定です。しかし、列車のスピードはどんどん速くなって行くわけですから、外の景色の移り変わりもますます速くなります。それが現実のこの世界にどのような形で表れるかと言いますと、物事の起こる間隔がどんどん縮まってくるということです。
  既に、ファッションや音楽の全盛期が短くなり、短期間で新しいものに移り変わっていくようになっています。1年間ロングランで大ヒットする音楽や小説はありません。次々に新しい作品が生まれ、それが前の作品に取って代わって人気を集めるようになっているからです。
  同じように、好ましくないことの起こる頻度も増加しています。地震やハリケーン、豪雪、干ばつ、洪水などが発生する頻度は、過去10年を見ても恐ろしいほどの勢いで増え続けています。しかも、そのような自然災害のスケールがますます大きくなってきているのも特徴です。それはなぜなのでしょうか。そのことを説明するためには、もう少し踏み込んで、この三次元の物質世界と異次元(霊界)との関係について、共通認識を持っていただく必要があります。
  前項でご紹介した『サタンが降りた』の中で、桑原啓善さんは大変わかりやすい譬えをされていました。その譬えを借りてこれから起こることを説明してみたいと思います。まずは、その文章を引用しておきますのでお目通しください。

■因果律がこの世を支配している
  あなたの現在の状態は、あなたが過去において投げたボールが、白いボールであったか黒いボールであったかの結果です。白いボールは愛と奉仕であり、黒いボールとは自己中心主義です。この世には因果律があり、白いボールを投げると白いボール(幸福)が、黒いボールを投げると黒いボール(不幸)が返ってくると、心霊研究は教えます。これは正確無比で寸分の狂いもないそうです。人が因果律という壁に向かってボールを投げている姿が人生だと教えます。
  人はこうして、人生とは因果律が支配しており、自分の現在は自分が過去に投げたボールの結果だということを知るのです。ですから、現在の自分の状態を変えたかったら、今日あなたが投げるボールを変えればいいのです。あなたはいつも自分の未来を創造する「現在」に立っています。(中略)
  だから、現世(物質界)においても、人は想念で人生と住む世界を作る神である。ただ、あの世とこの世の相違点は、あの世では思ったことがすぐ実現するが、この世では実現に時間がかかるという点です。
  しかし、現在が自分の過去に投げたボールの結果である点は、あの世でもこの世でも何の違いもありません。また、このことは輪廻転生、つまりいくつもの生まれ変わりの人生の中でも、寸分の狂いもなく実現されています。あなたはあの世でもこの世でも神なのです。想念で世界を創る神と同じ仕事をするからです。
               ――『サタンが降りた』(桑原啓善・著/でくのぼう出版)

  「この世は因果律によって支配されている」ということは、仏教では「自業自得」「善因善果・悪因悪果」という言葉で、新約聖書でも「人は自分が蒔いた種を刈り取らなければならない」という表現で、それぞれ同じことが述べられています。最近の言葉でいうと「原因と結果の法則」ということです。
  人がこの世で体験する内容は、すべて過去において(前世も含めて)自ら発信したこと(思ったこと、表現したこと、行動したこと)の結果だということです。たとえば、他人を傷つける黒いボールを投げれば、一定の時間を経て、今度は自分が他の人から同じ黒いボールを投げられ、傷つけられることになります。
  投げ返されたボールによって痛みを感じるため、私たちは自分が投げるボールを変えなくてはいけないことに気づくのです。ボールには色がつけられていて、必ず同じ色のボールが返ってくるようになっているからです。これが「自業自得」ということなのですが、このように大変ありがたい法則であることがわかります。
  桑原さんが言うように、私たちの投げたボール(思ったこと、言葉、行為)は、異次元(霊界)を経由してきっちり同じ種類のボールが返ってくるということです。
  その一番極端な事例を、『2012年の黙示録』では、「人を呪わば穴ふたつ」という譬えで説明しました。わら人形に釘を打ちつける「子の刻参り」という呪いの儀式を行なうことによって、恨みに思う人物を呪い殺すことができると言われています。しかしながら、その呪いの念は「黒いボール」ですから、それはやがて自分のところにも同じ黒いボールとして返ってくるのです。その結果、自分も死んでしまうため、埋葬する墓穴が2つ必要になるということです。
  この「必ず同じものが戻ってくる」という宇宙の法則があるために、私たちは過去において投げたボールをこの人生で受け取っていることになります。各神示の伝えるところによりますと、人生でどんなボールを受け取ることになるかは、生まれる前に霊界ではわかっていて、私たちはそれを覚悟して生まれてくると言われています。ところが、現実にこの世界で生活を始めてしまうと、「なぜ自分はこんなに運が悪いのか」「なぜ自分は他の人よりも苦労をしないといけないのか」などと不満に思ったり、悩んだりするようになるのです。
  そして、神社や霊能者のところに足を運び、「どうか運がよくなるようにしてください」とお願いをします。でも、これはおかしいのです。「私が投げた黒いボールを、どうか受け取らなくて済むようにしてください」とお願いしていることになるからです。その人が投げたボールの行き先がなくなってしまいます。
  「親の因果が子に報う」という言葉があるように、祖先の投げた黒いボールを子孫が受け取る場合はもちろんあります。しかし、全く関係ない人が、他人の投げたボールを受け取ることはありません。「自業自得」がカルマの法則だからです。
  この物質世界を貫いている法則(エネルギー不滅の法則)から見ても、ボールは途中で消えてしまうことはなく、ブーメランのように必ず投げた人のところに返ってきます。その法則があるために、この宇宙の秩序が保たれているのです。
  個人として投げたボールだけでなく、国家や民族、あるいは人類全体として投げたボールも、同じように返ってきます。今日の地球の環境破壊や異常気象は、これまでに人類が投げてきた黒いボールが返って来ているのだと考えることができるのです。
                       ☆ ★ ☆
  ここで再び「時間列車」の譬えに戻しましょう。私たちが窓から風景を見ているという譬えは、「過去において投げたボールを受け取っている」ことを意味しています。
  ですから、外の景色が次々と変わっていくように、私たちの身辺ではさまざまな出来事が起こります。ある時は黒いボールが返ってきて、悲しみや怒りを覚えることもあるでしょう。それらはすべて過去に投げてきたボールの結果なのです。
  列車のスピードが速くなると、外の景色の移り変わりも速くなります。過去に黒いボールをたくさん投げてきた人は、悲しみや怒りを覚える出来事の起こる頻度も増えていくということです。
  そして最後は、「一度に開く梅の花」――まさにビッグバンとも言える現象を伴って、この三次元世界の次元上昇、つまり「ミロクの世の誕生」ということになると思っています。その時に二極分化した魂の行き先も完全に分かれてしまうということでしょう。
  最後に、『大本神諭・天の巻』の中から、時間のスピードに関係が深いと思われる内容をご紹介して、この項を終わります。

  艮の金神、国常立尊が、変性男子の身魂の出口直の手を借りて、明治の25年から今に引き続いて知らしておいたことが、何もかも一度に破裂いたす時節が近寄りて来たから、何時までも我を張り欲に迷うて、利己主義(われよし)のやり方ばかりいたしておる守護神よ、人民よ、ここまでに神が気を付けてやりておるのを、何時も啼く烏のように思うて油断をいたしておると、思いがけないことが出来いたして、ビックリ虫が出るぞよ。腰が抜けて顎が外れて、物もろくろく言われず、「アフンといたして、四つん這いになりて苦しむようなことが出来いたすぞよ」と、毎度申して知らしてあることの実地が現れて来るに近うなりてきたぞよ。
  今までの人民は、神がいい加減な嘘を申して、人民を脅すように思うて、まことにしておらんから、今に神が知らして気を付けるのであるぞよ。嘘のことならこれだけ何時までもくどうは申しはせんぞよ。実地が一度になりて来たら、どうにもこうにもしようのないことが、日本の国にもでけるから、万古末代取り返しのつかんことであるから、これだけに気を付けるのであるぞよ。(大正7年旧正月23日)
                           ――『大本神諭・天の巻』(平凡社)

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