★阿修羅♪ > 昼休み6 > 399.html
 ★阿修羅♪
ごりんぴっく
http://www.asyura2.com/0510/lunchbreak6/msg/399.html
投稿者 桑の実(市区町村) 日時 2006 年 2 月 20 日 08:57:09: Szt/imEacmcv6
 


 
 
 
 

投機五輪ピックの話はほとんどしていない
‥‥または、しないほうがいいと思っている。

‥‥

成人病が文明病なら、文明が無ければ成人病も
殆ど無く、老いを迎えることができるかもしれない。
「異様な症状」や「狂気の労働束縛」が無ければ運動
不足にもならずで結果として高齢疾患からも免れ易いと見える。
確率としては「少数の健康脱落」に当たるか吉と出るか、「少数には成らずに済む」と
信じられそうな多くが賭けてみたくなるというような「非文明界」が想像できそうではないか。

医師不在の生活はさぞかし地獄の体かと思うも、しかし、だとすると然程でもないのじゃ
ないだろうか。病気への不安も情報が少なければ事ほど左様には無いものと思える。
医療情報など知らなくても患わないなら何の問題が有ろう。逆に、一生を闘病で過ごしても
罹りきれないほどの種類の病気が、これでもかと紹介されているようだが、健康への
基礎的な食品知識(と商品知識)があれば、医療を知る必要も余り無いはずである。

医者は、ことさら哀れな症例を煽り、また「恐怖」と「医療投資の必要性」
と「医師の権威」を煽っているのだろう。罹病があたりまえな雰囲気になれば、
罹患したときに気は楽かもしれないが、気が楽な前に罹らない、罹らせない、そして
症状を当たり前としないことではないのか。(疾患あふるる)事故、傷病に満ちた病院社会なるものをつくり上げないほうが先決に思える。
病院(床)数は、中高年には切実かと思う。たしかに一部の中高層は隷従的であるか、または生活破壊に富んだ、
(身体・経済ないしは時間管理・仕事自体、余暇・ライフワークや人間関係に“相対する”ところの)病気地獄に陥って見える。
しかし、その実相はといえば、治すのも病ませるのも、やはり同じ化学というマッチポンプに
過ぎないのかもしれないのである。これは、つまり“医毒同源”ということではないか。
「人が誰かに都市の巣で飼われない昔」の鋭い「感性」はどうなったのか、野性の勘は。
病気になれば即アウトではなく早期に察知でき、例えば薬草を採りに“今から”探しにいける体力が温存されていよう逞しさというものは。

とかく運動不足を問題にされがちなようだが、都市化されたスポーツや、町村化された共同作業も、
個別の野生とはかなり赴きを異にするだろう。野生とはトータルに病気にならないための、文化的雑念の無い、つまりは心身苦を直間に招来しない、
快楽原則への奉仕であるはずなのだ。(ある者には文化が、当人にとって心身の重荷にも成り過ぎると思われるわけだ。
それは命じ、強い、生活マスゲームに依る全体様式を維持させる、主体疎外とも成ろうし)。
スポーツは文化として都市化されているのだろうが、じっさい余り役立たないはずなのである。
というのは見栄えのいいように様式化されており、日々の「ちょっと(した)運動」にはハードルがやや高め超と思われるから。
運動する場所が囲いこまれ、うろうろできないのではないか。“高低差をコースに伏せ含めてうろうろするだけでも運動になるはずなのだが”
坂道は自動化され、立ち至る垂直移動では、その抜け穴は電化されてしまっているようであるから。

スポーツなのではなく運動こそが必要だと直観できればスポーツは身体にとって「それ」以上の意味はないかもしれないのである。
自然界に潜む多岐に亘る危険からの護身にも余りならず、自然からの護身の必要もない形にされているのが災いして?
猛獣から高率で逃げ遂せうるまでの鍛錬は、いかにも無駄なのだろうが、スポーツもゲームとしてなら同様に無駄に当たるはずなのである。

スポーツの「実体価値」(の無さ、没価値性)がよくは知られずして高騰するがごときの長期スポーツバブルというものの、
成立が可能にと、実現されたのであるなら、それは所与の資本によるプロイベント(が、先行しているとの前提条件)が、
まさしく社会基盤(文化上の形式・内容のインフラ)としてあるからだろう。
アマとプロが打ちかえすラリー、その経済循環、口コミとマスコミによる相互宣伝たる、循環めいた連係がうまくいかなくなるとき、
生活必需としての実体の無いスポーツ価値は、まさに下落することであろう。
軍役に象徴される(生活)安全保障(非常時的2次必需)としても維持できないものと思われる。
人はスポーツは普遍だと果たして堂々と保証して言えるだろうか、その暴落を我々(筆者・読者)は終ぞ目の当たりにしなかったとなるだろうか。

しかし今は日々の大掛かりなイベントが有るであろう。そのさなか、勝敗決着の直後などには、こじつけとしてでも、
(同系の)スポーツの話題をコミュニケーションに乗せやすい(話を切り出しやすい)はずである。
私はスキーが趣味なのですがというとき、「知っていますよね」の一言が省かれるのは、甚だ大きく思えるのだ。
コミュニケーションでの優位性を持った内容とは、おそらく説明不要の既知であるということなのだ。
コミュニケーション言語がコードで成り立つものなのだとすると、話題の内容までコード化されているほどに強い概念は無いであろう。
だからこそ、ブランド品に、そして全ての商品にブランド性が関わってくるはずなのだ。
(迂闊な早合点で本質を見誤り、落として核心の方向に迫れない「愚者」でないならば、熱量の省略ではなくして、
緩衝、夾雑物、劣位性の省略のつもりであると言われれば得心して分かろうが)

かくして実はスポーツとは“口”(耳目、歓心)なのであるとすると、その存在意義はコミュニケーション価値によって決定されているはずなのではなかろうか。
本来スキーをしていますといえば、情報の洪水が無ければ、へぇそうですか履いた板の上で? 身体をよじって転げませんか?
で済まされる話ではないのか。それを当たり前のようにしてスキーという“珍妙”な民族芸もしくは極寒地搬送その他“自業(踏み入れ連帯)救出”等の(極地方面ビジネス業界固有の)
“小智慧”と高度な特殊技術を、アフリカの踊りとは別の、別格の価値を加え、誇示を交えて、得得として祖国(自己)紹介混じりに話すことが場の風に適うのだろう。
(また自身にも若干にでも腕に覚えが有る者なども俄かに滅却を忘れ、そうしたアピール合戦に、熱く参入するのではないか)

  ちなみに、この文章で筆者として強いて言いたいこととは、今の最後のくだり(後段)でのみの、一連の“構造解釈”の文言だったと過言なく申せても良い位である。
  スポーツ批判→エリート批判→ドクトル(メディク)批判と書き進めるべきだったか、これが弁惑であるならば。

↓↓
“文化化されたスポーツ強迫の悲劇”
  修行途中でお亡くなりになっておりました。体脂肪0もわかります。
  http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/otaku/5109/1138801007/31

 ところで番外地のほうで吃驚すべき新事実が、次から次へと明るみに出されていたみたいだが、
 以前、読者にとって衝撃的だったのは、てっきりオジサンが書いているのかと思ったら、
 大の宝石好き、それもペット好きの、波乱万丈(薀蓄)金持ちオバサンが綴っていたのであると、しかも男勝りのマッチョ
 オバサンだったということか。(筆者はといえば…だいたいのところは感づいていたと思うが)

◎ 番外地の真実とは「オジサンはオバサンだった」ということなのかッ!

 
 
 
 

 次へ  前へ

  拍手はせず、拍手一覧を見る

▲このページのTOPへ       HOME > 昼休み6掲示板


  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。