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美術については、僕は「らしからぬトレーニング」はしていました。
文字列の並び、平行する行の対応関係を‥‥じっと見つめるのがトレーニングです。
眺めるのではなく、比べて探る、判断する、答えを出そうとする、欠陥を悲観的に、厳しく予想し、
問題を発見するに至るぐらい、よく見比べて精査するというわけでしょうね、これは、自分として。
要は、対象の形に関する(ものの位置関係、モチーフの布陣、構図)への
病的な執着ですね。つまり…粒が(端から食み出さずにトータルの量目が揃って居るか)、
筋目が通っているかというのを上下に見比べる、形の見極めなのです。‥‥
拘っているので、よしあしを見極めたら、良くなるまで修正していきます。
(逆にいうと)修正するぐらいの「現実度」であるから、
見極めにも気が篭もるということでしょう。身が入ればトレーニングになりますね、
目の精度を維持し、鍛えていくためにも、病気の(維持の)ためにもですが…。
文字の並びを見ている目は‥‥すなわちフォント幅の違いを見ている目というのは、
精確な測量をして(場の力の入り‥‥込み具合を見て)いるのですね。
(ただし隣り合った大きさの違いではなく)離れた距離の筋目を見る目というのは、これは絵画的な感覚(基礎能力)なのだと思っています。
ヒットマン、スナイパーが、跳ね上がったボールを的確に掴む基礎トレーニングを積むようなものです…←これはフィクションか。
押し入った部屋で、緊迫した空気の中、奇妙にも楽器を弾き続けさせることで、奏者が余計なことをしないか、同時に監視しつつ、
平常の持続を擬装するとか…←関係の無い話ですね。
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あとの問題としては…絶対感覚よりも、
これからは、対象の特徴の、
把握能力の手薄さという(分野課程段階へと突進する、その)“濃い壁”に
直面し、それを補っていくような
段階…“被害状況”と、療法の両方を
見出してですね、…ということでしょう。