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パロディーにおいてリアル(/現実)を否定することはできませんよね、リアルさを複製し、
その前提で確実に(または執拗に)「ズラさ」なさくては?
リアルの要素(正)と破壊の要素(反)という「転」の部分と、「結」(新味の整合的な全体性)の鼎立一体、といった感じのものが要るでしょう?
換言するとパロディーというのは共時的な、ボケの要素(総体制的な抑圧への、知的動物的な逸脱)と、
ツッコミの要素(既知の、世俗常識の即時巻き返し)みたいなところのバランスかと思います。
さらに、いいかえれば“自分は安全な側から下げ嘲りつつ、喝采して支持する”というのでしょうか(観劇的に)、
大人は(そして大人びた子供も)生活業務からは抜けられないから、みたいな悲しげな(無抵抗な)攻めなのかもしれません。