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遺言として、だいたい‥‥だいたいの感覚に過ぎないが、以下のようなことを想像してみる。
1。永遠を求めているのは私ではない。私は有限論者である。
神秘めかして宇宙の法則などといっているのは、無限論者である。そもそも宇宙は永遠か?(法則は? その保証は?)
宇宙が無限かは分からない(が想像はつく)。だだ語れるのが有限なだけで。(‥‥圧縮し、集束させ、一括するにせよ)
進歩とか進化というのも無限論者である。無限論者は死ぬまで精進する。
むろん親しげに無限を語るのも無限論者である。無限の中点も然り。
有限の相の下で無限を語ることができない対応関係というのを知らない人がいる。‥‥対応させなければ「存在」のこと(すること)を語るに語れない。無間の相についても同様。
有限の存在が、相手の有限に乗じて、その向こう、その向こうと(最初期に)
諦めるまで繰り返させ、話を引き延ばしているに過ぎないことも。(想像延長による相互余剰)
その上で、別に「無限でない区間」でも語れる「状況」(事態形)までを、無限と神秘がらせたりしたくはないのである。
2。真理を求めて彷徨うことはしない。もともと私は答えをもっている。
それに、その答えと違う人をさほど責めるわけでもない。
私は、いまさら「究極」を追究しようとはしないし、
誰か世界の責任者を追及することも無い。(まずもって出来ない。突き付ける材料も、会う約束も無い)
「追及」と「追究」と「追求」。この中で、
私に残ったのは追求である。欲どおしく追求する。体制下存在とも、自覚だけある
皆とも同じぐらいに。ただし逆向きに。