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通常、優秀者が思想を理解し、教導する立場になる、なろうとする、バランス型の人間中心の流れがあると見る。
ここで優秀者のほうを分析対象化、相対化するのであれば、
そして、そのとき優勝者が思想を選ぶのではないとすると、優秀者は優秀者として優秀者でいつづけられるように動きうるのである。
つまり、階層属性的な個性保存へと、指導的地位に就きやすくて将来性のある、高い期待値の新進思想に、逸早く投資する姿勢が、優秀者らの習性としてみられるのである。
その優秀者の剰余能力を、運動体は資源とし、世俗性との溝を埋めるのに充てているが、それにも自ずと限界があろうというものだ。
その皺寄せは、1つには、多数化の失敗、もう一方としては思想を詰める余裕が無い状況の生成ということになる。
すなわち他方で多数化の迷妄を追究するだけの時間的精神的思考的知識的な余裕が無いのである。
(換言すれば、別の優位系統を組み入れられないほどにパーティションを張ってイニシャライズしてあるというわけだ)
聖地より出でて遠征的に開拓すべき広大な僻地の異教徒、思想的他者の需要と様式は社会文脈上に成立し、
市場取引操作や大規模投資広告によって需要形状と関連商品と関連生活形態は、
市場価格からも序列化され、価値の低域に人は集合しない。