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輪廻転生の学習素材
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投稿者 ニコちゃん 日時 2006 年 2 月 04 日 18:11:15: bhbMh7tUagOb.
 

輪廻転生について
http://www8.ocn.ne.jp/~ohmybud/jihou6.html

 
 

「地獄はありますか?」「故人は今どこにいるのですか?」という質問を受けることが多いので今月号のテーマとします。


仏教の死後観


仏教の死後の世界観は古代インド人が考えたものです。

インド人は現世を基本的には苦しみの多い世界と考え、以下の6つの世界(天界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界)に分類し、死後はこの六道(ろくどう)を輪廻・転生すると考えたのです。

お釈迦様は六道輪廻では永遠に苦しみから逃れることができないと考え、極楽世界(輪廻を超越した世界)である浄土を考えたのです。

地獄の恐怖が浄土を生み出したと言っても過言ではないでしょう。

故人は浄土に往生し阿弥陀仏のもとで仏に成るべく修行をし続けておられるのです。仏教の真の目的は浄土においても仏に成ることです。


神道の死後観


次に、古代日本人(仏教伝来以前)の死後の世界観はと言いますと、神道のそれであります。

神道では、死後は他界(たかい)へ行くのですが、そこは不老不死の世界であり、神々の世界であります。

いわゆる黄泉(よみ)の国・常世(とこよ)の国であり、今尚大きな影響のある山中他界という考えを以下に記しておきます。

神道では、我々は死後に死霊になり、穢れ(けがれ)を持ち、その穢れを浄化する為に祭祀を行い、次第に浄化され、祖霊を経て祖先神になると考えます。

この間、約33年から50年と言われます。弔いあげの年数は山中他界観が根拠です。


1.この世を輪廻する(2003.9.20)


「人は死んだら、中有(四十九日)と呼ばれる期間内に必ず何かに生まれ変わる」


輪廻転生の考え方から言えば、必ずこの世の何らかの生き物として、生まれていることになっています。六道(ろくどう)と呼ばれる六つの世界(天界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界)を生まれ変わっている訳です。


ここで、注意しておくべきことは、あくまでも「この世」での出来事であるということなのです。つまり、「死後の世界」というようなものが、この世とは別に存在しているとは考えていないということです。

2.何が輪廻するのか?


輪廻転生は、この世での出来事ですから、幽霊に関する話ではありません。


念のため、霊魂と幽霊を辞書で調べてみます。新仏教辞典によれば、霊魂とは「肉体から区別された、精神的統一体」とあります。そして、幽霊は「死んだ人の霊魂が、この世に姿を現したもの」とあります。


この説明では、輪廻転生した霊魂と幽霊の差がなくなってしまいます。そこのところをはっきりするために、幽霊とは「死んだ人の霊魂が、死んだ人と同じ肉体を持った状態のまま、この世に姿を現したもの」ということと理解して構わないのではないでしょうか。


さて、本題に戻って輪廻転生ですが、再度何物かに生まれ変わると言うからには、生まれ変わっているものは何かという疑問が湧いてきます。


通常の認識で考えれば、人間は、身体と、身体を司る精神とから成り立っているように思われます。身体とは、肉体のことですから、いわゆる死を以って火葬してしまいますから、「身体が生まれ変わる主体」とは考えにくいと思われます。


次に、精神についてはどうでしょうか。精神とは、心と言っても差し支えないでしょう。もしも、輪廻する主体があるとすれば、心の部分に関わっているのではないかと考えることにしてみます。


3.輪廻する主体


ミリンダ王は問う。「尊者ナーガセーナよ、次の世に生まれ変わるものは何なのですか?」
ナーガセーナ長老は答える。「大王よ、実に名称・形態が次の世に生まれ変わるのです」
ミリンダ王「この<現在の>名称・形態が次の世に生まれ変わるのですか?」
ナーガセーナ長老「大王よ、この<現在の>名称・形態が次の世に生まれ変わるのではありません。大王よ、この<現在の>名称・形態によって、善あるいは悪の行為(業)をなし、その行為によって他の<新しい>名称・形態が次の世に生まれ変わるのです。」

(田中教照共著 「輪廻転生」P32 大法輪閣)


「心のような言葉でしか表せない抽象的なもの」を「名称」とし、「身体のような具象的なもの」を「形態」と考えて良い、と続きます。


つまり、輪廻転生とは、新しい心と身体を持つ「新しい存在」に変わることであると言えます。


そして、「現在の存在」が行なった行為(業)は、「新しい存在」に影響を及ぼすと考える部分は、極めて仏教的ではあります。 

4.死んだらどうなるのか?


死んだらどうなるのか、あるいは死んだら何処にいくのか、という疑問は実に素朴な疑問として、常に我々の関心のあるところです。


ところが、残念なことに、我々には「自分自身の死」を経験することができません。生きている時点で想像している「自分自身の死」は、想像している自分自身からの視点である以上、どんなに考えても表現できることではありません。あるいは、自分自身の死後においても、肝心の経験するはずの自分がどうなっているのか、想像の範囲を越えることができません。


結局、人間にとって、認識の限界を超えていることであり、認識できないものは、存在していないのと同じことであるようにも思えてきます。


「死後のことは経験を超えているから、それがあるともないとも断定できかねる。芋虫は、さなぎとして死を迎える時、自分がその後、美しい蝶となって空を舞うようになるとは夢にも思っていない。われわれも、その芋虫のようなものかもしれない」

(宮元啓一 「インド死者の書」P47 すずき出版)


芋虫が本当にさなぎの時、蝶になることを夢にも思っていないかどうかは定かではないのですが、たとえ話としてはなるほどと思わせるものはあります。


そして、確かにこの世を生きる我々は芋虫のようである、と思えなくはないのですが、だからと言って、死後に美しい蝶となれる夢ばかりを信じる気にもなれません。しかも、その美しい蝶ですら、死を免れる存在ではないはずです。

5.死を考えることに意味がある。


死んだらどうなるのかを考えることと、自分の死を主観的に知ることとを混同してしまえば、結局、自分の死を主観的に知ることはできないから、死んだらどうなるのかという問題自体ナンセンスに思えてしまいます。


ところが、死を考えることは、生を考えることと同じくらい、意味を持つはずです。


我々は、あるものごとを見て何かを考えるとすると、その対象に対して、まず心の中に勝手な想像を膨らませます。例えば、死に関しても、一言で言うならば、「全てを失ってしまう出来事である」というようにです。


つまり、たいていの場合、自分の死を考えることとは、自分だけが消えてしまった世界のことを考えることです。これは、過去に自分以外の人々の死を経験し、その際に何事も変わらずに存在し続ける世界を見てきているために他ならないからです。


しかし、自分の死を考えることとは、自分だけが消えてしまった世界のことを考えることなのか、もう一度考えてみて下さい。


それは、むしろ遺された家族の視点に近いものがあります。おそらく、自分自身の死を、無意識に愛する家族に成り代わって想像しているのかも知れません。


死を「全てを失ってしまう出来事」であると想像してしまうのは、死後にも自分自身を認識している何者かを存続させたいという欲望が作り出している思い込みではないか、そのように考えることがあります。


つまり、死後にも存続するもの(霊魂)があると信じる人にとっては、「死とは、全てを失ってしまう出来事である」と言えるのかもしれないのですが、死後には存続するもの(霊魂)はないと信じる人にとっては、「死とは、決して自分だけが消えてしまった世界のことではなくなる」のではないでしょうか。

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