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また少し捻って考えてみると、
テロリストが米国のヤラセ工作員であるとすれば、殺す必要が一挙に失せるのではないでしょうか。
そもそも多くの場合、死亡を確認しなければならないようなテロリストそのものが「実在」しないかもしれないわけです。
あるいは、そうやって死んだことにして大本営発表(敵艦撃沈報道)がなされ、それを実績としてしまうのかもしれませんよね。
『トップガン』とか『ステルス』とかを観ていると、
空軍の事故や内紛で戦友を喪っても、見事に敵を討ち取れば、それで報われるのでしょう。
また国家に役立つという形で、苦しい過去の経験(他者の死そしてトラウマ的苦と、その乗り越え)が
無駄ではなかったと位置づけられ、肯定的に回収されるのですね。
そういう形で(つまり、或る目的のための命であり、命と人生を懸けるに値する巨大な意味を与えてくれ、
また、その意味を与える根源であるのだともややもすると認識される性格によって
自ずと最優先に回されてしまう傾向をもつような)「国家存在」というものが改めて要された上で、
構成(論理構成、組織構成)というものが組まれるわけでしょう。
(一面では、おそらく命の取り返しの場としての「戦争」の生成のためにも)