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「国家存在」というのが、触(ふ)れられるぐらいに実体的だとしても、
足元が定かでないような、しかし眼前に伸び上がった意味、というのであれば、それはつまりゴーストということでしょう。
その大きさが続続と人を呑み込んで膨張するだけの重力場を日々生成しながら、
遂には「命の束を手向けられた」ホールと化すのですね、ひとたび「戦争」ともなろうものなら‥‥。
そうした圧倒的存在「感」の下で、敵の命を1つ奪えば「戦友が報われる」かの、こうした計算が成り立ってしまうらしいのです。
要は、敵の命という「それなりに重みのある」功績によって人生で背負ってきた、
いろんな埋め合わせができる、というのが「戦争の魅力」というか
肯定論(を前提とした肯定的展開)としての描き方になっているのでしょう。
死を死で贖う「死の連鎖」とでもいうべきものなのかもしれません。(最初の1つの「喪失」を繰り延べていくがごときの)
例えば某国にも、こうした「命の計算」めいた話があるでしょう。
或る人によると、どうやら無形の「精神」を説く主張を裏付けるために、
主張1つにつき、担保にする命1つという風に抽象化されているみたいで、
そんな具合に割腹計算をした人がいたと思いますよ。
そのような命にまつわる世俗意識を変えない限りは、国家的謀略だけ暴いても半分くらいのものなのかもしれません。
漠然とした「死の計算」は、世俗意識構造のほんの一例であろうし、また「謀略」と「世俗」とでは、どちらの阻止・解体が
主というのでもないのでしょうね。
(以上)