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ところがヒトラーをして、あそこまでナチスの本質たらしめ、奉じさせたような、
作用可能性としての「意味の外形構造」というものがあるはずなのだ。
(これは多分にゲルマン的性格に固執した点が幸いしたのだろうが‥‥)
しかも、無数の主体の身に降り掛かる共有の不幸によって押し上げられたであろうところの‥‥
一種さいわいかもしれない余波とも、また、そうであるとする冷徹さに突き放されるかの
愧辱ともまた別に、この作曲家の、当の作曲家的領分は、こともなげに血糊を拭き取り、
地肌に傷も残さず、命脈を保っているものと思しい。
(※胎蔵する危うい偏見の殺戮的拡大についていえば、一方的に惚れ込まれた、
それゆえ‥‥即ち巻き込まれたとも、寧ろ‥‥ややもすれば
初めから無頓着にすら見えるものの。)
そして‥‥それでも、不即不離に並行する昂奮が現世には在り、
冷めた者も思い出す先の熱狂を知っているはずなのである。
(しかもそれらS、Nは多分に接合を求めていると映る)
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イメージで華やいだ日常であれ、ひとたび群れから離れればスタンガンを向けられるがごとき
直接苦や窮屈、そしてルーティンの倦怠があるはずだが、
それを横に置くかにして、また時折りは首に巻いて寒さを凌ぐかにしているようである。
したがって、それ等を和らげるところの、面白可笑しくも微笑ましい装いの顛末に誘導はされようし、
また、そういった渦に主体は逐次で吸着することだろう。
ゆるゆるに弛緩させられるイベントも、まがまがしく激烈なる、このまたイベントも、
なぜなのか手が届かないところにこそあり、星影は、その姿で送り届けられ、
届けられば即、幻灯が投影するだけで、戯れてなお関わらずに済むものらしく。
とりたてて肉や脈や温もりや、その別に立っていられる大地への渇望もない安全と康楽が根底にあるらしい。
ならば絵姿が互いの実像であるという相補の危うさを、自信に満ちて造作するのは誰なのか。
(至近であるなら、家内の安全保障など、ただひとつ、こつんとする音にだに、
場所も場所なら、折りも折りだとしてながら、脅かされはするものなのだろう‥‥、
実際に「ありえない」音がすれば、実際に)
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夫夫に、そうした構成内容を観てきても、口コミ上の行動反映しか為されないとすれば、それは、それが、
生産の手を休めずに観ていられる、よいしょと運んで端に置かれた映像箱だからだろうか。
耳のほうで気に留め、そして絶えず患うかに自他交代にて脅されることで、その手が動いているということであれば、
相応に互いに利するものとは思われるが、しいていえば、どちらに何倍もの益が生じるのか。
しかももし、おぼろげに漸く結ぶ像でさえ、とどまで手堅く造花を意味するようなイメージに過ぎず、
製品を実物より先に運び込むその営業の製品に他ならず、値札が買い手に付された商品を超え出ず、
有価物に如かず、欲望に足らず、慶事に満たず、正反対と言わず、
全てが事実と巧みに離されて盛り上げられているならば、
そうした情報取得の意味さえもが怪しく思えてならなく成ってくるかもしれない。
そうした情報は専ら、端的に言うところのコミュニケーションコードとしてこそ在るはずなのである。
固有名を中心とし、皺に刻むらしい、それは余分の苦しみ、自滅の標か。
しかしコミュニケーションコードなのであれば(順次になのだなと眺め、頷き、
またもや既に行き渡ったかと見回すに)独り知らぬも谷底と見えて。
これを吹き込む耳を使って手を動かす、または手を動かさせるために、耳を引っ張るというのであるか。
脅しは、その場面では実際にはせずでこその脅しなのであろうし、脅しは怒鳴り上げても、
聞こえたか聴こえないほどに囁いても、やはり充分に脅しではあるのだろう。
聴こえずして聴こうとしよう上に、かように聴くに及ぶほうがよく染み、よく聞こえるものなのかもしれない。
懐かしげにも遠そうな、幽かな脅しであるとき、迂闊にでなくても聞き届け損ねれば命を落とすからと、
ぜひに漏らさず聴いておきたい一言ではあるだろう。
ことほど左様に、耳目を釘付けにするのに、熱狂に堪えるコンテンツはといえば、
むろん‥‥他方、商機を窺う世人からも、血眼で求められているはずなのであるが。
だだこれについては、その担い手というものが、イベント形成が可能な巨大資本なれば、
ほぼ漏れなく、膨大な時間を投じて次なるプロジェクトを自前で準備しているのだろうけれども。