★阿修羅♪ > 昼休み6 > 286.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
12
オリンピック選手のようには、おいそれとワグナーは作り出せないはずだ。
そう考えると、それだから多くの国は、各種目のヒーロー達でさえ、(※)
一束にマスで扱われる「スポーツ競技会」を、挙って押し出したというようなことも、案外あるのかもしれないな。
スポーツ競技的にはもとより、そして軍隊的にでも肉体的に差別的なナチスだとして、
しかしオリンピック映像については、
節目の(つまりは企画物のうち1つだけ、としてのみの)、大型「国営広告イベント」に留めているのかもしれない。
他方、要の党大会や、日常の権威ムードづくりには、
肉体美の音楽‐劇を優先したとするとどうだ‥‥。
何れにしても、世俗の侈楽のほうはスポーツ(スピード)観楽と音楽と「性」観楽
(ただし、長編映像と食を楽しむ場合は日常大中イベント的、
諸分野の演奏会と性交渉は、群小イベント的に見受けられるが)を軸にしているな。
13
薬物とロックと脳仕込みで乗り切るかの、“相互痛打行為”(戦闘)に似て、
生贄たちが入り乱れて踊る狂騒の、競争コロッセウムでの永劫マスゲームの課題曲は、
まだ統一的代表を見出せていないのだろう。しかし、卑近な例としては、
体育会とX’マスの“卑俗”な演出、煽りは固定化し、毎年ゆるやかに定番が再編されていると映る。
そんな機会音楽の重層へと淘汰的に象嵌された化石類としての、
唱歌・クラシック・ポップミュージックを「相互に」、多衆は比較的に差別していない
(ジャズとラップには不利か)と思われる。
それにしても婚礼の儀の音曲の双璧が、“幸せの夭折者”メンデルスゾーンと、
“波乱の借金王”ワグナーであるとすると、この「皮肉」は、いったい何なのだろう。