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ただ運動というものは主観運動であれ、客観運動であれ、その「動機の部分」は、偏に主観なの
だと思います。いつ始めようと止めようと、それにまた再開しようとも、それは任意の問題であろうし、
主観的自由意志というべきか、自業自得(自己決定や自己責任、自己利害)の話でしょう。また、
それが他者運動であれ自己運動であれ、やはり同様に個別の自己主観が根源なのだと思うわけです。
これは実は大変なことで、これまでの運動は「そうすべきである」という当為自体に、引き出すべき
原動力があった、と思うのです。特に「歴史段階的に避けられないので、それをしていくしかない」
というのが、カルトでいう破局日や、ユートピアでいう極転換が、そういう心理的加圧、思考誘導の
機能概念だったのではないでしょうか。しかし、もし運動が「任意、分散の個別」であったならば「必然史も循環史も
段階史も漸進傾向も無く、それに大反転も起きえず、起こしえず、持てる個別性自体に、形式と内容を合致させうるのだ」と思うわけです。
ところが(そういう個別化の良き面を継承するばかりか、)個別化の理念に抵触しない、その線上に乗りえた逆構築であるはず
なのに、個々の逆構築としても‥‥逆構築の一般理論そのものも、受容されていない現状というのが甚だ残念なのですね。