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※…
絶対価値の有無を問わず、
絶対価値の所在に、相対価値は充填しえないだろう。
隠せども、誤魔化せども、その僅かの差は狂おしくも、
生霊の如くに付いてまわるかもしれない。
絶え間ない「価値ゲーム」に在っては、恐らく
「死者格」(生存資格が元元無い者達の範疇)において生ける者に向けた
排除を企てるしかない。お披露目で広く認知される以前、極小の
「心像胚」の段階で、故、生体を以て実に即「死者化」されるはずなのである。
そしてその、おぞましい原則と思しきは、こうだ。
1.勝者とは瀕死の患者に対しても勝者であろう。“卑しくも危うい業たろう不言及の次第は先ず、こちら向きで静観と騒動が掻き消すに任せ、双方の刹那に重ね重ね留めることか”
2.超人とは少数畸形者に対しても超人であろう。
但し、これらの適用先は趨勢に纏わる趨勢絶対主張が、生産型価値
ゲームに収束している場合の時局に違わないはずではあるが。
左様であるなら、濃く成り過ぎた残酷へは、足元を這う霧の白では事足りえないはずなのだ。
英雄が舞台に立っているときのみに英雄が英雄なのであれば、
そしてその舞台が舞台として充分に映える自責を負うとき、演出とは、まさに捨象をこそいうのであろう。(…※)
かくいうおぞましさとは寝息のうちに“小息を埋めること”だなどという処に、ここで指し限らせるべきではないだろう。
むしろ、これは“足元を常に地下に埋めているとの在りよう”それ自体の後ろ暗さに他なるまい。
素より英雄たる英雄の足元が、寝食の別無く、何時までも掌を踏み続けているにしても、多勢の
生身であれば立ち上がリ、交代で担ぎ掲げるなどは容易いものと思われる。だが、かくいう鴻声の只中に在っても、この少数は少数である侭の数を増しつつ恨みも唱えず、猶もそこに
埋まっているはずなのである。少数ゆえ、または多数の世ゆえ、その多くは生きられても生きえないという、恐らくの処は到底理由たり得ざる理由で
のみ他の理由の擡げを押し殺し、意欲を以て生かされないのではないか。そのおぞましさは生活文脈を外されることで徒でさえおぞましくも視えよう
者達にこそ、印象的な、乃至は情緒的な陰翳が加味されて映るのみならず、この排除を加速させる手立てにも、暗に転用されているはずなのである。