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病が優劣の一部なのではなく、すなわち、病を含んでの優劣なのではなく、
病が有るから優劣があるのだろう。病とは別に優劣があるはずなのである。
病とは別だからこそ、優劣があると思われるのだ。
つまり、障碍者が居るからこそ、優劣を語ることが可能になるのではないか。
障碍者が居なければ、障碍を負う者は下位者となって差別になるはずである。
障碍者が障碍者として居ないということは優劣を語ることの残酷を露にして優劣
そのものを成り立たせなくするほどにも、強い意味作用を持つ事態なのではなかろうか。
障碍者を優劣に回収するとはそういうことではないのか。そのために、障害者を必要とするのではないか。
障碍者を分けた上で、障碍者リーグをつくって、相互に優劣を温存する形を採らねばならない
はずだ。優劣の軸は、細分しなければ成り立たない多数性を有するものと思われるのである。
教育の場では、男女の名簿を分ければ男女を差別しなくて済むであろうものの、
もし分けなければ、主体生産能力ではなく運動生産能力(労働という社会主要価値らしきもの)の
体力において、女子を下位に置くことになるであろう。(それは統計上、有意となろう)
男女を分けるということは、男女を上下に隔てることではなく、
男女を上下に隔てないために行うはずなのである。
しかし、これは、それぞれの優劣を残すために行っているのであろうし、
そして、これを根本から排除するということになると、
教育の場の意味を排除するところにまで飛躍せねばならないだろう。
教育の場の意味を共に残そうとする者にとってみれば何れにも排除できるものではあるまい。