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(パターン)
時宜流行で批判対象は変わっても、同じ論法で同じことを繰り返しているに過ぎないということがあると思います。
そこに盛り込まれている知というのは、別に複雑な奥深い知ではなく、
1つの判断基準で、出てくる素材を捌いているだけで、
それぞれの流派で言われることは、もう何が旬の野菜として出されても、およそ想像がつくはずなのです。
片や全て塩辛く、片や常にギトギトこってりしているといった具合に。
それが共時的な一斉行動の形で湧き上がると、あたかも神秘的なポピュリズムがあり、
予測不可能な超越的存在(現人神と、量的飛躍をともなう無数の集合体)を戴き、
天の声を謙虚に聞くかのポーズが、政権に近い有力者・有識者はもとより
コメント屋(学内クリティーク屋〜院外ポリティクス屋)に自身を欺くようにして見られるかもしれません。
何か背後に、民衆の魂(尊厳の塊)のような良識があり、人をして突き動かさしめる、そのマントルのような、
アメーバのようなそれが主権者市民の神性であるかに錯覚してはいないでしょうか。
別に複雑系が、確率的な異常集中を巻き起こしたのでもないということですね。
予測可能性は、集団からの脱落を防ぎ、帰属意識を高めるということで、思想生活を保障しているのでしょう。
それを暗黙に供給している「主義集合」であればあるほど、拡大勢力となる仕組みかもしれません。
批判者というより成員からして、だいたいはパターンが読めるからこそ、その場を選ぶのでしょうし、
パターンが読める場(群れから逸れずに済む緩慢な渦)に飛び込むのが常であるはずです。
寄らば大樹というので身を囲ってくれそうな木陰が出来たとかいう
異変に敏感な虫は、そうした物陰に走って潜り込むのですね。
(パターン言及)
しかし、潜り込むには情報(進行形の経緯としての)と、知識(過去の経緯としての)が、ともに要されるのですね。
それぞれの主義集合の成員は(行動のフローチャートとしては)世相(政局〜風潮)を、感受し、観察し、分析して、
しかるのち論駁するわけでしょう。のみならず集合の沿革(伝統)をも押さえておかねば
ならないのだとすると、約めれば主客(集合内外)を識るということになりそうです。つまり、
描写世界の内外について、その前後的な軸も追いかけ、力学構造全体の配置や法則、属性を
理解しなければならないのでしょうね。しかし学ぶのは、これら四方の領域に
留まるといえるかもしれません。そんなふうにして学んだあと、続いて考えることといえば、
以降の思想生活が心身を満たすような制度環境の展望として予想するということのはずです。
そして主義集合の成員はリーダーとして出家者であり、導かれる一般は在家者である、といえるかもしれないわけです。
だとすると出家者が(在るべき理想の姿を来るべき未来像として)ビジョンの実現を図っていくという話なのでしょう。
そこに異教・邪教が立ち塞がり、伏兵が顕われるとの図式がイメージされるはずです。
在家者を惑わす悪魔というとき、この両者が主義集合の外ということでしょう。思想生活とは、まずは主義集合の
内と外という濃淡の環境整備そのものですね。そして安定期には、内から外への流れを維持しながら、
集権一体となって、より高度な問題に対峙していくという、いささか単純な絵柄しか、あるいは描けないのだと思われます。
俯瞰して、そういう光景しか描けない社会像は、その限定性からしても、むしろ何も描かないほうがいいかもしれません。
いずれにしても主義集合は、リーダーの集合であろうし、リーダー間の競争もあるでしょうから、
先に述べた四方の経緯を猛スピードで詰め込んでいくのだと思います。知っている人が勝ちであるはずですから。
では知っている人は何をするかというと、それは「1…経緯の記憶の幅からくる連想、
連結。2…経緯の記憶の正確さからくる、敵味方への指摘」といったものでしょうか。
やっていること(知的生産)といえば(それに学的・体系的な認識を加える
くらいで)情報の物量にまかせた単純反復、いわば知的肉体労働なのかもしれません。
(人的存在応報)
そうした言説生産の中核を成す、理論的指導書とは何なのかということです。
思想書の膨大さは(哲学書でもそうでしょうが)、個別具体の経緯の量ということになってくるでしょう。
とりわけ哲学の場合、個別具体への言及を通して、そこに共通する原理を浮かび上がらせるというのが、手法でしょう。
ここでいうところの思想の場合は、原理を使って個別具体に対処していくリアル面、
その、枝葉の実用性がマニュアル的に意義をもたせようとしているのかもしれません。
宗教書でも経緯が延々と述べられ、それは教義の寓話というよりも、魅惑的な内実そのものの形成層であるかもしれませんね。
すると、それは神秘的な装飾や芸術へと刺激や霊感を与え、その肥厚が、さらに外郭の演出や、確固たる量的実在感を醸し、
もともとは何も無いところに肉が巻いて実体化するはずなのです。
思想史そのものが系譜でしかないでしょうが、これは思想の形式ですね。
宗教は、顔と体温を立て(人型の偶像と動き・営みを活写し、少なくとも頭に描かせ)、系譜そのものが内容となるでしょう。
「未だに」の、血の世界での存在理由たる由緒の系統図であり、また血が沸く流血の厚みから、
民族憎悪や、体験した喜怒、情趣の充実をもたらされるのではないでしょうか。そしてそこには量的存在応報がともなうことでしょう。
哲学と思想と宗教の分離分割には難しいものがあるでしょうが、ここでは哲学のようにして応用する原理を教える、というのでなくして、
宗教・思想では応用そのものを教えていく、というくらいの意味で、です。
しかし対象との、そういう関わり方では、主体的な個別判断とは違い、対象の個別具体の
洪水に溺れてしまっては「主体性」が矮小化(減耗、圧縮)されるということにもなりかねませんね。
(確認)
人は世界を認めることで、客観化したというよりも「去勢」されたの
でしょう。大人になるということは、エゴの欲望を切断することでしょうが、
子供が獣で、貞操帯をつけたのが大人ということですね。元服とは装着式というような。
動物は、欲望にしたがって尚、(すくなくとも同族との)調和を保つようには、できているはずです。
あるいは、欲望にしたがうことが積極的な善であったはずです。これを例えば「悪魔主義」などと見立て、
猶も抑圧するのでしょうか。しかし、神にすがっても、超越的な摂理がどこからか供給されるものではないかも
しれません(たとえ未知の巨大な世界がひろがっているにしても、それが世の「煽られて在る過剰な欲望」を制御
できるほど支持の広がりを得るのは、全員が地上で新陳代謝を蒙る、まだまだ先の話でしょうし、「個々の衆愚」を
覚醒させ、その多数化を急進させるイメージとしての大破局は、それがくるかどうかは当て物のようになってしまうで
しょう)。客観的に成れ、というのは原理的には正しいかもしれませんね。けれども、誰かの主観に合わせたり、誰かの
欲望に対して補ったりしてはいないでしょうか。社会に対して遠慮がちになることが、適正値の改竄によって、権利を小さく
見積もられているという搾取形態もあるでしょう。つまり資本と同様に、全員の「権利の」総和までは順当でも、配分には
傾斜がつけられ、割りを食った大勢の人の権利としては著しく小さく計上されているのでは、ということですね。支配という
ことなら、それが「自然な形」でも、よりによって、その一部が「大人になる」との名目によって騙し取られているのだとすると、
そして当然ながら、気づきもしないのだとすると、案外、これは、事かもしれませんね。
(パターン言及への言及)
パターン化するのは、代議士・官吏や両翼や、アパシーを決め込んだマジョリティだけではないでしょう。それに
カルトとか、また既成政党ないしは、そこにまで潜入して操りうる、伝統・格式ある陰謀組織の専売ではないでしょう。
それらにまつわる2次情報を収集して密やかに愛し暴露し糾弾し、そのことで己の日々の鬱憤を上乗せして
解消しては何かを為しえたと思う人達の心性というのもパターンなのでしょうね(これも権利の搾取というもの
なのかもしれません。じっさいの腐敗や謀略は、もっと計り知れないほど大きな氷山なのでしょうが、知りうる、
現在扱い中の事案に対しては過剰な批判になっているかもしれないというのですね)
したがって、情報パッケージでは牛や鶏や、それらを齧って生きる鼠までをパターンとして(失礼
ながら対象化して)扱うというのが、その縦割りではない学以上の方法(かつ実践、抑止運動)なの
かもしれません(対症療法への割り振り、過熱を諌める意味での)。また卑近な、分野的・特定集合的な
目的での“私情あふるる”厳格な研究には社会科学なるものの出番が少ないかもしれないわけです。
パターン言及の効能は、金満家の政治手法、暴力団の恫喝手法よりも、より身近な相手に効果があるのでは
ないでしょうか。また、それ(相手が知っているということ)を当人が知るところとなると、誇りが持ちづらいでしょう。
そうすると人生がその繰り返しでしかなさそうであるというところで、互いに上下隔ての無い「裸の反復者」という
ことにもなりますね。プロは外形認識上は単純なコツ、ノウハウで生きているはずであり、ただ、それを知らない者
との情報較差に平安の場が得られているのでしょう。テントを剥がされてステルス効果を破られては、
そもそも強力な思想のシールドの無い人間には、外に“ハッタリ”も、内には戦意も無くなるのだと思います。
(その種の理解と言及なのですね。構造化と観賞による作品、抗議よりも逃避であり、むしろそれを重用するのでしょう)
なお少数“小人”への個別的対処の方法論としては。
‥‥あらかじめパターンを整理して分け並べ、そういう相手にリンクを貼ってやればいいでしょう。
(ここに書いたことが、やがては実践モードに溶け込んで、「元の理論」が薄まるのだとしてみると、これはエネルギー
保存則とでも言うべきでしょうか)
※
≪厳格知における、科学グローバリズムへの相対化、分散型分断(非戦闘、不「国論2分」回収)割拠、
独占解除、多党制、対抗、個別化≫ 有用(個別声価)、かつ学的には“脱価値(集権回収)的”と思しき具体的方法として、
1、概念純化 2、順列展開」による個別利用という「コンセプト」が有るでしょう。
つまり厳格な知というのは科学に固有な属性にあらずして「科学≒厳格知」ではないですね。
「科学的システム」であるということですら安定的ではないと思える
わけです。科学に客観価値があると思われるのは「1、事実と整合、対応
していて、2、固定的で、3、美しく、4、発展的であり、5、順次知りうる。」
といった付加価値属性にも負うのでしょうが、どこまでも「知ることが、
どこかで大いに役立ちそうな目処(経験則)がある」のであろうとともに、
また「信用」されるに足る厳格さが科学にも有るというのでしょう。それを、その役立て
方に差が有るというだけの話で、他の知の体系が押しやられているというのであれば、
いかにも不合理で、また寂しくはないでしょうか。適宜効果的に用いうるとの点だけを
とっても(これまでにも部族的な知の体系は無数に有ったではないかということよりも、
そして、そこまで集団支配的な制度よりも)趨勢の「科学信仰」下に置かれていてさえ、
むしろ閉鎖的にであるがゆえに、厳格な知の体系の魅力が保たれていたということが
有るかもしれません。科学は「自然から知る素質」と「先人から知る素質」を除けば、
「学究も」「学習も」ユニバーサルでしょうが、全員に知られていない格差で、
交歓が可能となり、パテント(大組織による用心棒的な規制)の無い状態
でも保護がなされ、秘伝・世襲に生活保障されることで磨かれる等ですね。(稀少性による総量再編的均衡)
殊に「厳格な芸能」「厳格な造形」「厳格な儀」「厳格な占卜」「厳格な病」は、
知と厳格さを揃え、兼ねているはずです。
(たとえマイナーであろうと)