★阿修羅♪ > 昼休み6 > 189.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
・┬・┴・┬・┴・┬・┴・┬・┴・┬・┴・┬・┴・┬・┴・┬・┴・┬・┴・┬・┴・┬・┴・┬・┴
・滅却/確言は冷たいでしょう
滅却や確言(…権利や抗議の伝達)というのは、相手の誤魔化しをひたすら暴いては
消し去るかの冷たい作業です。その、相手の感情にお構いなく筋だけを通していく姿勢
だけであると(それにはそれの魅力は有るにしても)それでは生き辛くなってしまいましょう。
・対象範囲は滅却よりは確言のほうが狭いでしょう
滅却力で喝破していく対象としては学・産・媒・民…と幅が有るはずで、
学は教育で/産は商品で/媒は報道で、民の生活と関心と会話内容を
変動標準で規定してくるでしょう。また民は民同士で生活態度を牽制し
合い、パラメータ毎の生活水準、という差別変数で強迫を煽り合うのです
ね。限定された原資で、如何に効率よく水準強迫へと網羅的に対処した
り、不備を蔽うかという生活ゲームになってきているはずです。それらへの
滅却に対し確言は、さらに狭い対象範囲への能動性しか持たないでしょう。
確言を行おうとする大多数の“一般民”が、直に物申せる相手は民ですよね。
・最大の敵が、同じ民と位置づけられた人ならば、その敵とは闘えないでしょう
しかし民を敵に回すのが、一番生活に響くはずで、民に対する確言と滅却は御法度に
なるでしょう。人は“遠い方の悪口をいう法則”に基づいて一緒になって行政の悪口を
いいつつ、そうすることで民同士の折り合いをつけ、結束している…。そうするための
仮想敵が実は政治であるという考えてみると驚くべき構造なのではないでしょうか。
・無意識の、よりも無心の加担が中間構築として、しかも構築には滅却を加えて、代えても猶この、〜
もちろん政局自体が直ぐに生活を変えてしまう事態は、平時では寧ろ少ないと思いますが…何れにせよ、
政策ブログであれ、陰謀サイトであれ、民同士のつながりを確かめ合う温情の場が、プライバシーは見せ
ないことを前提とした場にシフトしているのでしょう。しかしbbsでもリアルでも、そういう交流の場が生活を
規定・評価してくる圧力源自体として機能しますね。知らず知らずにでも圧力に当然かに屈し当たり前の
人間として角を丸めてしまいうるはずです。それは仮面を被るというより拘束具を被せられた状態でしょう。
滅却や確言を、それを中心とした運動生活に強めていく場合、純粋資質者でない以上、当人も味気なく、
人もついてこない…。反対に冷たい魅力を脱した潤いある運動圏にするためにと、例えばミッキーマウス
マーチに乗ってサウンドデモをするのか、ということですね。これは一方では滅却をしながらも、他方では
大資本的・大量消費型文化を受けて構築するとの、思うが侭に恣意の中間を割って伸びうる一種の中間
構築に思われるわけです。中間構築は、交流圏たる運動圏での避け難い所産かもしれません。滅却生活
では寧ろ、仮に誘惑的加圧下に曲げた増産により、増産の全項をそこでの自主構築にする上、生活加圧の
解放期間に自力でも模倣し引き摺っていては、さらに中間滅却と呼んだ処でそれは構築そのものなのでしょう。
a…構築+逆構築→中間構築‥‥
b…構築+滅却→中間滅却‥‥
・相互従属関係にあるでしょう
洽平というのがこの種の総体制では起こりえぬ夢想だとして、平時と戦時とは相互従属の
関係にあるはずで、戦時(戦域)消費問題を追及する「反戦運動」部門は、他方では明るい
(平時の消費生活と好況への期待、経済成長に肯定的な)態度を以て衡平させるという風に、
これはつまり、民に慮る、面白い構造になっているでしょう。とりもなおさず、批判ひとつにも閾
値があり、総量規制となっていれば、それほどまでに民には民の加圧が大きい…。“戦争として、
もちろん人災(平時放散)商法と、大人災(戦時集中)商法との相互従属関係も有るのでしょうが
ちなみに、その際、それが商法で目的に沿う限りは無制限の善として悪が容認されるでしょうね”
・┬・┴・┬・┴・┬・┴・┬・┴・┬・┴・┬・┴・┬・┴・┬・┴・┬・┴・┬・┴・┬・┴・┬・┴
・逆構築未満の実態
異状を垣間見る勉強会というイベントが有れば、それも含めて汎日常的な循俗なわけでしょうね。交流場も言わずもがなで、
“怪しい”テーマごとに語り合おうとも、潤滑油と接着剤はといえば、無難にも“今日は/今晩は”で始まる、同じ此岸に属す
同じ平俗の人のはずなのです。大概、俗世に重心を温存し、“湯加減を試すかに片手片足、ちょちょんと浸けてみるかの
アストラル界”との関わりですね。それでは未知へ向けた創造は力強くならず、確率的にでも意外に安全な行動を冒険
とは呼びようもなく、悪業を為さずとも“世界”は成せるはずなのです。恐らく悪業を積まずば如何ほどの自由と抵抗可能
性とが残されているかとの実相を知らないのでしょう。そもそも悪が判っていない…それゆえにか答えを出しきる原理が
見つからない想像力で、安直な舶来相対倫理へと集束していくのでしょうか。逆構築というのは免責範囲を目一杯使って
時弊を超えて非日常的日常をつくりだす試みといっていいかもしれません。クリスマスなどは演出用品をくくりつけて、
ムードを高める…そこに雪でも降ると酣になるのでしょう。まずは言語独立性で、言葉の部屋をつくってしまうといいと
思います。言葉でつくった門松・鏡餅・注連縄のオリジナルをしつらえてみるわけですね。しかも、そうした用語は形骸
ではなく、現に“外部の趨勢世界”を照らし映す描写用語として実用に供しうるだけのものがあろうというのです。ならば
荏苒とせずに逆構築するのみではありませんか。世に対して斜に構える隠れ里的な場はネット上にも各地に散在
するでしょうが、だからなのか、腰の回転が弱く中間化のほうへ進み逆構築にまではなかなか至らないようですね。
・そして ‥‥ 逆構築主体「人間性」による外形の数量強化の目的外性
人集めの人徳は逆構築の作業に関わりが無いでしょう。
例えば「仲裁で1人のほうを守れば多数のほうは分散され、恥にも傷にもなりにくい」という指導者の方法論(心理の外形化、幾何化)。
そのような描写(想定)知は、(半量しか寝てないので半量起きていればいいといった類の、)推論(憶断)に過ぎないかもしれません。
(この場合には、少数重視でさえもが、多数志向の手段であったりしますね)
沈黙を要求しておきながら、しかも、そちらからは(理不尽で稚拙、
表面的な情操の失敗のような意味での攻撃に摩り替わるかの、同左攻撃にも)覚悟はしてきたのだろうと、押すに念をも押す場合。
それが人を遠ざけることは予想できるとしても、こちらが内在する真実である限り、
フィクションや比喩以上の真実性をもっているのであれば(むしろ稀少な、個別的な主張とし、)
自由と個性の発露として逆構築的ではあるでしょう。ただし稀少なほど個性度が高いという序列はないでしょうね。
・ややもすると、方法論でも命題化を避ける(免責、ブレークスルー待ち、フレキシブルな細部)。
逆構築全体の構成としては批判系以外にも、疑問構築もありうるでしょう。
(一切皆苦と唱えることは苦か楽、苦の軽減なのか、といったところで層形成されるような)
逆構築の適性について。
主に投資と論理柔軟性の(反比例する)関数と目される廃棄力の既成構築に対する程度。
殊に、分野にどっぷりと浸かった状態(履歴、経験大)等、当否はどうか(権威ごと入力努力を捨て去り、
初期化できるか、そうして問題は、そうした侭で動けるか、なのだが‥‥)。
“そこで問う、何故に、その人はアカデミズム〜マーケットに位置するのか、拒んだのか、拒まれたのか”
(精神・傾向、各種優劣分布による個々の特性として。相対連鎖も視野に…)
逆構築の配分としては、、例えば基軸型(組織パターンの主調となる型)、
機軸型(機能する超立体連結の中軸となる型、型の多様な並びの体系)を
分野毎に自在に設定し、外形的にも任意に特徴づけて専念していくとか。
(他の世界観研究の、)その研究の在り方についてと、その世界観研究の世界観と、それらの相関と。
“陰謀封建制。前近代的・近代的な感覚判断が罷り通る方法論と権威力の問題、権威者の階級”
・逆構築の伸び
逆構築には、構築段階だけである場合と、使用という応用構築(動態、パフォーマンスを含む)までである場合があるでしょう。
自己の段階に留まる状態が個別構築で、逆構築の本領は(個別化とちがって)共有構築(共有可能性の追求)ですね。
批判が「相手にのみ特異的に吸着されて使え、反転適用が限定される選択型攻撃」なら、
ここで別の着眼を要して「為すならば‥‥露出面積を上げる方向で為す言及の累加」を逆構築というのでしょう(副次定義、必然的連動的属性)。
・逆構築の露出面(と他者性)
また逆構築を売り出すとき、考えを押し付けるようなかっこうになって採用されなかった場合に、丸ごと
他で発表するくらいなら、初めから掲示板にでも出店しておきたく思います。“人間は2種類”ですね…、
アイディアを買ってくれる人と押し売りしてくる人の…。啓蒙したり使うために人に接する人が、これまで
いかに多かったか。尊大に「人間」を説くよりも、人のアイディアを“パッ”と買ってくれる(自他へのコミに
活用してくれる)人に器の大きさを感じるのですね…売り手の都合というのか、勝手には…。人を持論の
最終端末(捌け口)とはせずに…自信があるなら店に出せばいい、というのとは違いますか。もし買われたら、
自他的な逆構築が成立、買われずば自己的な逆構築で、まあ個別化、という消極的な分水嶺なのでしょうが‥‥。
普遍性を高め(普遍的価値を加え)、自他に温もりを持たせるということが緩やかな(/ときに・絶えず賑やかな)
集合を齎す意味で(滅却は自己的行為であり)逆構築は他者的行為であるということができるかもしれません。
・用語パートナーへの用語
言語独立性の新奇さは両方向に作用すると期待します。見慣れない用語という決定的欠陥に対して
新奇性が良くも悪くもある、その悪さが結局、見慣れなさであるならば問題は見慣れなさと新鮮さしかないでしょう。
・逆構築のパートナー識別
しかし、慣習的な関係に収束し易いと思えば‥‥実践としては距離感を保つ際、困難に陥るでしょう。
過剰に補正することでせっかくの最初の・最適な運動パートナーを喪失する可能性も否めないのですね。
とはいえ、それが運動パートナーであるかどうか。その人のバックボーンが、別の思想体系にあり、
そちらに“保険”をかけている場合には、これは“心中”を掛ける相手ではないでしょう。既成の一切の
思想に懐疑的でなければ逆構築でないだろうし、あらためて逆構築を試みなくても、既成の思想でことたりる
はずです。むろん既成の、何れか当該の思想が逆構築そのものであろうからです。
勿論もし“掌を”返すようなことがあっても、それがその人固有の逆構築に帰着するものであるなら、
“離反”は問題がないはずです。少なくとも、どちらもが逆構築たりえている場合にはそうでしょう。
文法規格、基本語彙規格は遵守しているものの、問題は、それ以上の規格に
ついて採用するかしないか、採用しないのであれば、同業者ではあったとて
好敵手以上の別規格の…異境者(文字通りの反対者)となりうるのでしょう。
逆構築は真実の全てでなく、または特定の系統(分野)の全てというのでもなく、
むろん、基本的な全てというときの、基本となる軸とサイド(向き)は不明
なのでしょうね。また一定の単純さをもった真実の全てではなく、または
大小の自由な真実の単複・断続の、任意の(寄せ集めた)一部でしょう。
・┬・┴・┬・┴・┬・┴・┬・┴・┬・┴・┬・┴・┬・┴・┬・┴・┬・┴・┬・┴・┬・┴・┬・┴