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皆で甚振るという愛が無知の鞭になる私が個別に居るのであれば。(震源地より防毒マスクの逆配布)
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投稿者 トム・やむ君 日時 2005 年 12 月 23 日 06:36:25: kjKjlqLIymqec
 

【前説】

私は考えるのが苦手かもしれません。やたらと閃きが連続するので、考えようとしませんね。
私は思い出すのが苦手かもしれません。頻繁に閃き、頻繁に忘れ、そして頻繁に思い出そうとしているようです。
 ○
 とりわけ、まだ書いてもいないうちのディテールの閃きというのは、忘れやすく、
 忘れたときの復元が厄介に思え、好きになれないでしょう。

閃きが、(絶えず)絶えずに、閃きが溢れるならば、思い出せないほうが寧ろよいだろうに、とも思うのですが。
あるいはまた、思い出そうとし、(その間は)閃きが抑えられたとしても、しかし、それでも、それは良いことなのかもしれませんが。


天才のはしくれとしては逆構築の話は幾らでも展開できると思います、それなりにがっちりと組みあがるでしょう。
 ○
 たぶん他者を要しません。そうであることから、所属するとか、ユニットを組むとか、弟子と取るとか、閃きで窒息するほど
 忙しいのに、なお閃くように、刺激的なメールで遣り取りをしたいとは思わないというわけです。(ごめんなさい、私の年末ですね)
 ○
 最近は「日の目を見る閃き」が少なすぎて、ほとんど雑文で、非常にもったいない、体力と寿命の無駄遣いかもしれません。


私が見てきた運動は他者をプランに組み入れるということですね。何かの全体の一部になってしまうということでしょう。
 ○
 それに対し個別化運動は、究極には「個別に必要に思う全域について為す気があれば、自他・環境の事情により、為せる
 範囲で1人で為す」というぐらいの生き方であろうし、且つ、一つの方法としては都市原始人化するということになりますね。
 ○
 一方逆構築は、個別化と集団化の中間ぐらいのところで、
 言うなれば「ダウンローダーズ」(規格だけで繋がる関係全員)とか、
 そういうノリをもった生き方だと思っています。規格(共有)結合するための規格が異なれば、これは別の集合でしょう。(規格と集合の組としての集合)
  ○
  ちなみに自分は作曲家タイプだと思うので「他者と云々」以前に、別の作曲家の作品の演奏は
  今は余りしたくないですし、「別の作曲家とは一緒にしにくい」とは思っています。

なお、私は、生い立ちからして、というのか批判されることには少なからず食傷気味なのだと思います。
 ○
 これから敵味方、私に本気で挑んでくれる人も多いと思いますが、私はしなくてはならないと思っていることが山積していますので、
 もし喫緊の要事でなく、気持ちに余裕があるのであれば、なるべくならやめて欲しい気がします。
 味方だと思っていただける方には、特によろしくお願いしたいですね。
  ○
  例えば問い質されて答えを出せても、相手の方が満足できても、答えが出るのは天才のはしくれで当たり前でしょうし、
  今、そんな偶発的テーマを解決する意味が無いでしょう。この自分にとって必要なのは偶発的閃きのほうですね。
 ○
 もし全ての問題を「全方位解決」したければ(自力で)すればいいのだろうし、
 それらの「社会的に分類された」「全体の」問題が「自分にとって」全部必要だという人もいるだろうし、
 「一通り手はつけて、後は専門だけやる」だとか、そういうところは(もしかすると各自の
 問題だけに)何でもいいはずなのです。(極大化や多角化は非義務だと思います)
  ○
  もとより認識拡張による拡張認識というものが、「社会とされる、偏った特定の複数の個別個人が主体と
  なって」社会の領域に留まっているならば、範囲も分類も延長も、何某かは無効、というわけでしょう。
 ○
 要するに、逆構築も、滅却も、何ら義務ではないはずで、各自のニーズ、延いては
 交換相手のニーズに合わせるなりと、したいことを、したいだけすればいいでしょう、仮令それが権利ではあったとしても。
  ○
  さらに私は褒められて伸びるタイプであろうから、批判されるのと同じ伸び率で予想されるような、そうした計算にはならないものと思います。
  ○
  既存の思想を、労を厭わず吸収し、結果的に自力を縮小させているような飽和者には、
  批判の刺激というのが、硬直した引用を再編して提出できるよい機会になるかもしれず、按摩の効果はあるでしょう。

そういうわけで、今これを読んでいる未知の貴方、既知の貴方が、ご自身もし私の味方だと思うのであれば、
貴方からの批判はまっぴら御免です。私に欠点は多いでしょう。しかし、まずは溢れ出る長所を見て欲しいのです。
これでも今、まさに迸り出るようにと、苦しい状況を整えようとしているつもりです。
私を批判して補完しなくても、理論は完璧に修復されると思いますし、そもそも完璧な網羅性をもつ必要もないでしょう。(あるいは貴方が黙って完璧になればいい)
 ○
 それに個別というのは、取り組む対象もマチマチなら、取り組むウェートもマチマチということで、解決が部分化するということだと思います。
 ○
  そもそも外形にかかわらない問題は(かかわっても本来は)、被害といえる被害が被害としてかかわらない限り、共有してさえ、個別のものに思えます。
 ○
 また個別個性については(何やら協業で、全体の「生産」や「関係」を実現するかに、徹底的に公私イメージキャンペーンされているかの個性であるとはいえても)
 相互に補い合って全体化するときの、その全体である必要は、とんと私には判らないみたいですね。
  ○
  もしかして、非動物性への自然からの逃走に準える「人間」像というものがあるとして同様に、
  そうした「全て」への執着は「全体」という形式への特異応報、特異強迫ではないですか。(私としては原理的全体は供給し、欺瞞的全体は対象化するとしても)


なぜ逆構築、逆構築化するかというと、ひとつには長期化させるということですね。
(早い話、雨露をしのぎながら逆構築的に生存させる、柱・壁つき傘屋根としての初期規模の逆構築であろうし)
 ○
 このことを逆構築の、長期を費やさねば長期化できない、という矛盾(/主観矛盾)ととるか、
 前段から長期を費やせることで長期化の一環として、長期性を既に楽に成立させられる、結果的・拘束的利点、と視るかでしょう。
  ○
  私が他者を要するのは、ずばりこの部分であろうし、さすがに命ばかりは倍加できないと思うからでしょうが、
  それでも、全く人が相手にしないという、相手の側の自由の全面的全開を見越しえたことで、悲観的にでも、
  余地を超える完全な余地が未来に開いてあるとは思うのです。
  ○
  そもそもしばることなく、具体的な規格については、逆規格の(他者化の)実力で
  お相手に採用していただき、ご評価たまわりたいところですね。(私としては流行知よりは文化知のノウハウの移転で)


私にも集積としての逆構築は、途方も無くむずかしいでしょう。それは2ヶ月でやろうとするからかもしれません。
これを30年でやるならば作業負担は、およそ2百分されるでしょう。あとはやるか、やらないかかもしれません。
 ○
 世界の覆しが簡単なはずがありませんね、少なくとも解体するための工数は世界分に、多くなるでしょう。
  ○
  “それで、凡そのところで一気に世界像が崩壊すれば、超越的存在から、お褒めが下るかもしれません、直後の熱いうちに”
 ○
 じっさい某運動などは、30年かけて体系化しながら、今なお洗練と、それにもともなう、ともなわせる拡張を実現しているようです。
  ○
  しかしここの運動は逆構築に近い中間構築ですね、つまり構築性を色濃く残しているでしょう。
  構築とは、今いうとすれば恐らくは「虚妄生産の承継と、虚妄自体の承継(引用)、および
  根拠化(応用、展開、延伸)」ということになりましょうね。
   ○
   “ともかく逆構築で、しかも幅広くやっていこうとしたら、人生2回と半分であるとか、フィギュアや鉄棒になってしまうでしょう”
    ○
    運動の要諦は、専ら「確度」であることでしょう。そのための規模に思えます。
    ならば規模のための規模や、指定された(全体強迫的)規模を、免れえていますね。
 ○
 陰謀論も構築に限り無く近いような中間構築でしょう。半分は世俗要素、
 残り四分はオリジナルでも事実の解明、反映というかたちで、その
 残りの主たるところは秘教的伝統や遺産の流用にあるのではと(大雑把な種別構成を)想います。(情報の外形的質の話のつもりです)
 ○
 一般報道、一般言説は、多数が悪しきソースのコピーの類に見えるので、
 自己の生活造形、習慣造形であるとか、異系価値の規格化が急がれるでしょう‥‥むろん画一化、統一ではなくして‥‥
 細部の規格から起こしての、(情報量における圧倒的占有比と見受けられる)ソースのコピーに対しての、
 自主選択や、再/本(正規)契約・半独立宣言(自己意識)に伴う「規格転換」ですね。
 たぶん、その因としてこそ言えよう“契約なくば違約なし、かつ離脱なし”
  ○
  言葉の隅々までを正確に、免責体系につくりかえることは、個性にも強制にも属さない、純粋に個として共感を感じる、集合規格の要請(即自的なリターン)ですね。
  (その規格は、個のリバース形態として対象に重合し、合致的に「際立たれても」存在するでしょう、それこそがまさに)直接の分節であるならば、
  分節されたそれによって、それに即そうとする第2の積極的な動機が生じるときには、これは自己と対象の共振と、修正自己との3者の合一ということなのかもしれず、
  この自己が理想自己であるのかもしれません。
  さらに、その「関係の過程的関係」が他との一致における「記号的限界」を想わせるのですね。両者的な自己的記号を介する、他との共有結合において)
  ○
  他方、薬剤・菌類の空中撒布などの目撃記録も護身(生活)情報である以上に別文化として集束し、体系下に置かれ、「新方式の博物学」化してきていることでしょう。


逆構築へと集う集合に、文化なくば集合(構成員)としての厚遇に値せず、と見なしてくるでしょうし、
 ○
 独立への一部作業として実際に結合するのは、文化という共有事実内容を通してでしょう。
  ○
  民族とは遺伝と言語と、生活圏を除くとして、主に生活習慣ですか。
  そしてその伝統的積層からくる「深い霊的な感じ」なのでしょうね。

【レス】

貴方の今回の得点は1ポイントですね。これは、もともと1ポイントがマイナスにならないような絶対評価といえるかもしれません。
 ○
 「逆構築」という言葉(メタ、特例としての)自体についても、「その意味で、それを使うこと」、それが逆構築一般にも、私の規格にとっても1ポイントだと思います。
 ○
 ただし、私には「異文化圏」の原理要素(キー概念)の混入はマイナスでしょう。原理要素は、かりに一片であれ、場を組織するものだと思います。
  ○
  構築する人達は、どのみち集権大衆として部分化させられてしまうかもしれませんし、構築は大構築によって巨大構築へと系列化されるのでしょう。(当然、個は弱まるでしょう)
 ○
 つまり逆構築という趨勢辞書にも載らないような用語の使用がポイントになるというのですね。(各種異義では常用されているようですが)
  ○
  逆構築は義務ではなくも、個別各人の目標としての強度をもちうる、そういう方向での閉鎖化、ゲリラ村的分断、逆差別ですね。
   ○
   特定の者にとって制御可能で利用可能な、戦略的な系列的分断ではなく、
   収拾がつかなくなるような分散型分断としての、(全員構築工場でもあろう構築場の)粉砕への可能性までを秘めるはずで。


貴方が、これまでといい、用語の点では最高の逆構築演奏家になってしまっているでしょう。
別に何かを作る必要も無いはずだし、歌うのにも、今のところ全ての用語規格を無視できるような、
そのポジションにおいての、それは、逆構築の実現だと思うのです。

 ○
 言語は、むろん結合型造語においても(既成言語形成上にもあろう
 場の拘束性や、偶発性、個別の恣意性と同様)、恣意性を拭い去ることはできないはずで、
 また先行する語(とその様態)の配当・占有が、後続を系統的に規定するでしょう。
 いきおい、用語からは「恣意的に私的なテイスト」を排除できないと思われ、
 「それらの、全てを含む幾つかを使いたくない場合」の現前は、
 至極当然にも、自然な傾向にも思えるわけですね。必要に逆らえば運動のために不要な商品を買い占めるが
 ごときの、無形の負担額が蓄積するはずです、少なからずして(また爆発・顕在化して贖いの回収を試みないまでも)。
  ○
  ただ使えるほどに気に入る範囲で使わないことには(意識的に個性的表現へと再加工するのでは)、これは(規格分解というのかして)運動になりにくいでしょう。
  第一義の方法を選択してしまうかの、(生存下の生存様式の、常々様態分節を組み替えているであろう自他の世界認知上の)
  有らん限りの全面的個別化ということでは、どうしようもないでしょう。
  しかし作り手サイドは、構築に逆らい、別原理に依る、もしくは「主義・文意文脈は免れるであろう語源表」(要するに辞書等でしょうが)
  から直に用語を吸収するなどして、より対構築的に逆構築していくことが(個別化の深度を下げてこそで)可能なのではないでしょうか。
  ○
  運動そのものに構築化の欠陥を見つけて、その流れに抗うという2次逆構築がありうるでしょう。
   ○
   しかし逆構築の手法そのものには拘るというなら、シェアの分断と逆転を狙った競争をしかけるのが本筋でしょうから、
   利他的目的での、覚悟ある執拗な滅却は、そちらが幾ら正統でありながらでも、逆構築の共有において滅裂的かもしれません。
    ○
    滅却は、省略の利かない理路の伝達だとして、自他のより(心身経済生活)破壊的な「熱量の授受」を成立の拠り所とするような、
    緊張感と集中力の(断絶を見据えながらの)、確言疎通ですね。

  ○
  内外の「論旨の共有」が「本来の運動」でしょうが、
  逆構築は流行にも通じる(抗いうる)意匠形態(恐らくは設定多寡の恣意規格、造形異系原理によるもの)でしょうから、
  単純にそれを使い、利用し、再編することで反復するところに「恣意性の自覚的強調の、皮肉」を形成できるのでしょう。

  ○
  用語以外の規格性の確保としては、日常語を、逆構築圏で語られているようにして、法則的に
  セット概念にして(対立一双として)さらに用いるという用言的(動的・文脈的)手法が挙げられますね。
  “例えば形式:内容、外形:内実とか集団:集合、系統的分断:分散型分断と語ったように”
  用語・用法の併用(独自文脈体系)としては、ここでは構築:逆構築、多数化:個別化とか。
   ○
   まとめてみますと、今かんがえうる「ここ」(「ここ」一般に通じる「ここ」)での、(メタ)逆構築が、
   じつは用語としての「逆構築」を「単純に使う」などというレベルで、
   生活に織り込んで御題目のごとく利用するというだけでも事足りうるのだとすれば、どうでしょうか。(原理要素、拡張因子の生活場への持ち込み)
   まさに恣意的な提供者サイドの、恣意的であるところの使用されうる〜されることへの願望(個別主観、
   当為に関する事実主観)の範疇に在って、無害にもコスト(労の負担)上からも誘惑的であろう、とのことで。
   一方、恣意的に使う側の恣意に対して、何をか、強要する理由も、それに擬した(派生分配された)かの権能も、
   それに類するらしき、直接的に脅迫的な物理力も、有志に「過ぎない」作り手としては何らも有しないわけでしょう。
    ○
    “その意味(内実)を問うことなく”既成の「民族」も、そうやって“内実で、または茫漠とした外形で、
    言語や、生活に潜ませた規格の形骸の散在を恃むかに、かろうじて繋がっている”のでしょうね。
    また趣味集合も、(混合構築・中間構築としての)商業系二次創作でない純然たるオリジナル志向(嗜好)の
    場合には無自覚逆構築の集合だと思われます。
    さらには虚構を虚構とするか、自他に関する命題を主張しない場合には、
    それを逆構築(“固有自由規格の真実体系”)とは称しえずとも、虚偽の構築、との謗りは免れるでしょう。
    ○
    ただし“外側の想像力”の範囲で、それでは外側に拒絶されるのか、
    それとも案外、或る時期には、新鮮に見え面白がられるのかということでしょう。
    (厳しさという内実のバリューは、しばしば精度という外形に反映され、結果でのみ量られるのでしょうね)
     ○
     「明確に誤っている“既出・後述の類の”論客」と相対する場合に(娯楽性の質、量を限定した作業
     というような)“労務”部分の節減を思います。例えば(仔細を略して)的を外す、茶化す命題の多用
     という“技法”との効果的な混用によって「骨子を外さない限りで」一連の確言や警句群を希釈しても
     いいのかもしれません。「拠点闘争」や「逆構築」においては“伝達”は主目的とせずに、“排撃”したり、
     “磐互・歓娯”をしていたりして、寧ろ主観的「部外者」の切断を試みるとか、切断するように誘うのですね。
     ○
     誰を説得するにも、(説き伏せたい対象にあっては数さえ問わずで)個別性により「説得される資格」を平等に有するとしても、
     その際に「演出的な奇策」とか「内容を占有するほどの趣味性」(正攻法以外)への、一律の抑制などは無用かと思います。
     逆に「悪質さの総合的な程度差」や「キャラが選ぶ、訓諭のスタイルへの自他の限界」で、そこでの説得内容に差を加える
     柔軟さでさえも、そもそも「訓諭することの無義務性」があれば不要でしょう。(正攻法以外であると)自覚、区別して、使い
     分けるにしても、また攻めにせよスルーにせよ、肝要なのは唯一「倫理における許容範囲の厳守」では、と思っています。

【本文】

逆構築の形式は簡単でしょう。逆構築とは、滅却の乗り物ですね。
 ○
 相補関係の、これらがセットだとして、メインは滅却であっても、現前するのは逆構築でしょう。


逆構築の内容は簡単でしょう。例えば、用語規格で語るのですね、
 ○
 対象の真実か、あるいは真実らしきことを、それらの程度の確からしさとする表現で、ですね。


分散的に排外するのに
符丁化を要しえますね。


結合的に内向するのに、
符牒化を要しえますね。

○○
言語独立性⇔「言語の圏域の拡張」

○○
代物独立性⇔「代物の承認の残闕」

○○
物流独立性⇔「契約の爾余の物流」

○○
→生活環境への撒布毒性。
←外縁の、選別(必要)情報と、好適配分の編成。

○○
→生活資材への封入毒性。
←内服の、選別(必要)情報と、好適配分の編成。

○○
→生活様式の直接要求。
→生活様式の具体要求。
→生活様式の連鎖要求。
○○
→断片象徴による付随要求。

○○
在来関係分析
 (対抗する) (迎合する) (逃走する)
 適俗←(経俗←拘俗→反俗)(乱す俗←乱俗→乱る俗)(氓俗←俗累/俗学→殊俗)→(脱俗/絶俗)

【資料】
○○
← 様式の加工。
← 習慣の再編。

○○
←標準(の)造形。
←心像(の)造形。
←実演(の)造形。
←補修(の)造形。

○○○
→規格搾取への←規格削除。

言と語。語による言の構成の制御。
代わる物の、強制通用の法制。
物と流れの互換共通規格。

→通用範囲の拡張←規格のインフラ(ライフライン)の各所での切断、
(即ち)二重規格による、着脱主体の、主導権の獲得。(混在する分散難民)

○○○
人体(物流上の)多重使用。
「末端所在」者の(利用)、
「物流‐入出力」実験。

 ○○○
 同時
 →労働搾取(演算機のネットワーク、
 人力巨大ホスト化と補助機械ホスト)
 →実験献体搾取。
 →生贄応報搾取。

 ○○○
 前後
 (各種生存条件)寿命実験、
 引退後のカット確率、搾取。

 ○○○
 遊離
 (個別寿命実験)好奇・代理。

○○○
撒布の尖兵‐安全極相。
○○○
封入の製造‐確率極相。

○○○
人体結線、抽象結線(トレーサブルファイル→
←ランプチップ)「入出力‐双方向無線─発信機→←誘導波」。

○○○
標的徴集、所在結線。

○○
変動提供の、稀少密集。
変動配給の、稀少衰微。
変動漏出の、稀少密集。
変動布告の、稀少衰微。

 ○○
 弛緩型、棄権‐自由、王系増長↓
 無罪型、克己‐自由、伏兵台頭↑
 市民型、抗議‐加圧、王系応酬↓
 支配型、不当‐加圧、伏兵養成↑

 ○○
 自衛、世襲(扶養)強制。隠者、遮断、個室。
 自衛、分担(助力)強制。隠者、隔絶、戸別。

 ○○
 合意の、委譲側面、
 「開(ガード)放」側面。
 ○○
 抗議の、過去(主観、内実)怨恨側面‥‥慰謝分。
 「外観、外形」側面、総決算の起動‥‥賠償分。

○○○○
(←)個別化 ‥‥ 滅却、←外形→、逆構築(→)。(基礎配当の、構成)
実相、評価の不問、救済、←外形→、無知称揚、被覆構成、素人(才能)解放。
 (策動「形式余地」反映)
 (通力「形式余地」反映)

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