★阿修羅♪ > 昼休み6 > 163.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
さて私のほうは、これといって、お誘いがあるわけではなく、
今夕にも、時間が許せば身体医のほうへ伺おうかと思っておる次第です。
“魂揺さぶる怒涛の深部常識流”に打たれて心寒さを覚えたくもないが為、寂しさも募る
この玄冬にあって、年の瀬の喧騒を離れ、丘に上って町並みを眺望するかの清々しさがあるようです。
氏が、その小窓の1つに潜り込み、並々ならぬ志をおさめて陸沈できるというのであれば、
これは、また別才と賞しうるものでもありましょう。私などは催しに赴いても、
ただだだ陸に上がった河童として振る舞うのみに思えます。
今回、氏とのシンクロの確認として特に印象の際立つのが、“常識というイデオロギー”という点でありましたね。
この氏の言い回しは、言われてみれば基本中の基本であろうにも関わらず、私のほうでは、
或いは迂闊ながらも直接には言及はしていなかったやもしれません。
すなわち世俗という語のほうを常用していたと思うわけですが、いつしか、
当初より己で用いた気になっておりましたら、御赦しのほどを願います。
こうした、これを以て「正論者」か「信仰者」かの踏み絵を行えるほどの凝縮命題は、
単純なことのようでいて、私が百万言費やすよりも、なお有効に思えます。
いまさらながら、、まず如何にして解体の手法を衆人にお伝えするかと申しますれば、
恐らく当然の如、結論を兼ねるところの、「常識≒イデオロギー」なる
図式を確立せしめんとする事こそ、基軸となる視座を(殊そこでまでも迂遠の
用語集に依らぬだに)速やかに、如つづれば提供してくれるのでありましょう。
巷には、例えば、すでに十二分にイデオロギーとして在ろう日常を、
さらに世界の基礎として、ともかくも「固定的に再体系化」する
という風に、親しくもお寒い定立に尽力なさる学者もおられますね。
その同じ学者が口走られる引用、具体的には常識の“奇怪なアマルガム”との
形容は、日常と常識を分別してなせる業なのか、はたまた常識に連なる日常に
対しますところ、本音と建前の乖離であるのか、甚だもって奇怪でありましょう。
もとより視点にも依りましょうけれども、常識なるものが内容も、そして伝達形式におきましても、
むしろ我が目にも確かに整然として映るのであれば、もういっそ(常識‐アマルガム/)「常識イデオロギー」と
用語化してみても構わぬのではないかとすら思ってしまいます、が、さりながら、(それらを)直に
繋げてみたところで、どうにも耳馴染みが宜しくないというのでしょうか、
語系造語原理からの逸脱に依るなり、また音韻そのものが飛躍するかの、
何かしらのおさまりの悪さ、ぎこちなさで読み心地に障るやもしれません。
それにしましても、膨大なメールの只中で用語の出来栄えを吟味し、愛でるなどという風雅を味わえ、
私などは恵まれて幸福ではありましょうね。また私には騒々しくも猛々しい宴よりも、こちらのほうの趣きが、
いっそう心高くにも感ぜられます。さらに他面、私は気質からの活動家でありましょうことから、いとも軽率にも、ことさらに
用語を打ち出していくというかっこうで、学者諸氏とは異なり、実効性をことのほか重んじるところがありますでしょう。
私に今ここで何が出来るのか。体制の母胎に育まれ、滋養分を補給され続けている、
反体制の自我をもった別系統の命、さらに其の身中の虫といいますか。
これは、じつのところランチタイムの中庭で、物静かに、さざめ事する植栽なのでありましょうね。
もとより言葉の園は、ざわめかずとも言の葉の繁茂する場でなければ、
地より天より鳥獣出でて腰を据えては、諸心の糧を食せぬものなのでしょう。
なおも実践的な物謂いで申しますに、文中に独自概念もしくは、
その的確な表現が含まれていましたら、投稿は
まず成功と申せるものなのであろうし、単純に、その
個数でのみ、得点に換算できるとさえ思えるわけです。
それと同時に、私に聊かでも関心を持たれた方へは、
自他ともに庶事に多忙ななか、伝言ゲームさながらの重層的な情報生産を潔く省かんとし、
不肖我が近況を一気呵成に配信、共有するためにも、公開メールにさせて頂いている点は何分にも恐縮ではありますが、
私の真意、立場というものを、例によって至って正確に、氏にあっては把握して戴けたようで、
いつにも増して心強く思える所存であります。
(ありがとうございました)