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(外の自由)
それに対して逆構築というのは、いかに世の仕組みを見破ったり、
記述して笑ったりできるかというゲーマー型活動家の世界ですね。
したがって厳格さに裏打ちされたルールで遊ぶといっても、学問が
「目指す」ように全てが厳格化されうるのでなく、学問同様、経緯的・
恣意的な要素の入り込む余地があるでしょう。それを自覚して遊ぶの
であれば、規格が権威になったり、他者を束縛するものにはならないと
思います。縛らないなら人材は求めうるはずだし、半ばオープンな出入りによってこそ
持続できる場なのでしょう。学制の人より読書好きとか議論好きとか食傷気味で
主体的な人に参加して欲しいような、良い意味での小さな祭を想うのです。
祭の火がしょほしょぼした狼煙だからこそ人材が寄り付くと思います。
他方、規格内容が固有知であるならば、多数化も防げるでしょう。
「多数化の使命」の圧迫感が無ければ個々を押し潰すことは
無いと思われます。逆に規模の無制限化や最大化極大化を
目指すならスタンダードにする企図があるでしょう。直接には
企図が個人を圧殺すると思います。祭の場合、祭りというのは
唯一絶対ではなく、可能性の1つを見せるに過ぎないはずです。
大小が絶対化しない相対規模なら、大小を問わず人を縛る事は
無いと思います。危険なのは規模自体よりも、過信の(一定の中
規模が公民公認公共の絶対標準に転じる)瞬間だと思っています。
(現実の終わり)
これは「多面的に現実」的な、批判ゲームですね。折りしも「批判時代」というのか、
批判の方法も、批判者のスタイルも洗練され研究され、“商業的に多品種化”も
してきているでしょう。しかし系統だった批判様式というのは組織以外には余り
見当たらないようだし組織も自分達の用語で批判せず場に出て場の雰囲気に
従う戦略を取るでしょう。それゆえブログ的「個別批判」の前(イデオロギー相)の
イデオロギー対決のときのほうが、まだ顕著に様式の対立が見られたのではない
かと思っているのです。時勢のイデオロギーが剥き出しの商業だとして、だからなの
か消費世俗に溶け込んでしまい潜在化しているのですね。イデオロギー未満としては、
2ちゃん的文化などは駄洒落・語呂合わせの類で、語法として着せ替えられてはいても、
用いる概念は旧来のものが多いでしょう。しかし、るい的文化は概念そのものの刷新を
はかることに成功していますね。世界を捉える概念の勝負というのが本格的な
闘争だと思えるし、これまでの議論の蓄積なども、あっさりと押し流し、ここから
愈々メタの概念が、蔓延る新旧概念を軒並み叩き潰していくでしょう。
(多様性、可能性)
組織はどうかというと、知的武闘派の宗派は「批判集団」として知的暴力団のような「存続
努力→存続目的の実現」という脱宗教になっているでしょう。それに対して批判を遊ぶのは
「遊ぶ努力→遊ぶ目的の実現」ではなく、つまり存続を自己目的としない、ゲーム世界なの
ですね。それは単発のハンティングではなく組織的工作でもなく強いて目立つスタジアムに
出掛けるのでもなく、半仮想のゲーム市場において批判世界を成す営為だと思います。
むろんゲームであるならばルールが曖昧だと面白くないだろうし厳格でないものは批判
にも達していないはずです。しかしながら、規格をつくりながら展開するゲームが、
融通の利く面を併せ持ったゲームとして離脱可能である限り、それが人の
可能性(多様性)を縛るトコロテン(押し出した分散)方式ではなく、打ち
上げ花火(分散の押し出し)になるものと、安穏としていられるでしょう。
そういう中で場は、存続を第一義としないことで逆説的に存続されていく
かもしれず、かつ多数化という負荷の無いゲームになるとも思っています。
参加といっても自分の好きなテーマを好きなだけ体系化し、出来れば
同時に其の体系の時空有限性も知りながら、可撤性を保証されて
参加するのですね。提供される様式とは規格でしょうし、それは
作る人と使う人の分業や、固定化を必ずしも意味しないと思って
います。ただ、今のところ画然と異なる概念を提出できるだけの
原理的部分なり基礎概念を保有している中核的人材は、そうは
居ないものと心得ています。むろん、それで即、権威権力権益の話
になるかというと、そうではないでしょう。所詮は無償のゲームであろう
し、その意味で、そこでの利害関係も限定されるでしょう。それに同様の
バリエーションで幾つもの批判母体が立ち並ぶ事にも吝かではありませんね。
いわばこれは批判共同体のような格好ですが、むろん共同体というのでもなくして。
(自滅兵)
規格は自由でも、その規格は確実に守らねば意味が
通じなくなるとともに、コミュニケーション市場上の
淘汰にさらされる厳しさもあろうかと思います。
しかしカテゴリの乏しい世界では、浮かんで
は消える一回性の具体に陥り、「共通性
から秩序、構造をみる」楽しみも批判の
仕事も、応用・交換範囲の狭い、寂しい
形になると思います。だからこそ、規格に
よって共有される素材(相対化の用に呈する
例えば、地域券であるとか、ここでは用語)を介し、
(直接言及の)批判ゲームが成り立つのだと思います。
これは学問と市場を相対化するゲームで
しょうから、弱点を見せながらも厳格である
必要があると思います。他方で其の弱点は
学問にも市場にも共通するものなのでしょう。
ゆえに恣意性を追及される事態となる度に、むしろ
学問と市場にも、持てる恣意性の暴露として累が
及ぶことでしょう。本質が晒されていくという減衰
過程の起爆たるリーチは掛けうるはずなのです。
己が藁人形であれば敵に刺して欲しいですね。
もちろん必死で恣意性を隠し続けるはずですが。
ともかく根本から覆す波というのは、切実な人にも、
腑抜けた生活の場合にも、何かしら血に訴えかけて
いく気がしますね。やるならば「正しい」「言論」活動に
心血を注ぎ、労働はそこそこにして大いに遊んでいって
欲しいと思います。社会自体の解体は面白いでしょうから。