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‥‥ 逆構築というものは、取りようでは後退した(折衷かもしれないが)段階なのかもしれません。そもそも
言葉の園(国)建立の少数による拠点闘争が常に難航を極めてきたとし、受信員数の、最小の接地(確保)を囲う
かの闘争の、原理的に副次的かつ形勢不利な展望を、しかし副次だと思えばこそ、寧ろ楽観していられるのでしょう。
それでも、「通の人」以外を、半ば拒絶的に吸着する場について考えてみるとき、最低でも「2ちゃん
型翻訳」を超え出る言葉の園を要する筈です。例えば芸能情報一つとっても、側面構造を抽象語(即ち
固有名詞の派手な輝きを削ったフォルムのようなもの)で一般化できるなら批判的/娯楽的に(情報よりも
抽出された構造や変換に即して)語れると思うし、既成/日常の(メディアや上位者から)伝播される訓戒に
しても構造語(雛形)を用いて分類する等で比較・対照できそうな活路がありますね。造語といっても、恋愛
構築などは不評だったように記憶しますが、恋愛パターン(言説)に体系的な別の表現を与える、というの
であれば言葉の園には合致するのだと思えます。恋愛構築という営為そのものは、共有可能性の高い
「個々の経験の体系」として日常的に構造化を試みているとの形での実は「実在」なのでしょう。ただ
日常の層(現在の相)では個別具体の表現の照合に留まり、用語統一への「規格の統一」が(自生
では尚更のごとく)見当たりませんね。規格を奪還(主体化)するとは、換言すればフィクション(想)、
ジャーナリズム(実)、フィロソフィー(則)とは画された真偽不問の逆構築自体でしょう。規格化する
事で、「描写性」と「同一性」を以て“固定的な使用事実”を成し、更に(免責的領域の)規格事実の
(免責的な)配布に至らしめ、自在な概念世界へと、昇華と実現を図れば、別民族化の方向にも
倣う筈です。人徳や個性原理に基づく集合‐結束では、思想(惰)力の面で弱体に思え、ゲーム
人脈的にローカルな強度・斥力での、(おっしゃる様に)脱資本回収的な少数実現を夢想して
いるような状態です。そこにも(自在さを許す利便性を睨めばなおのこと)規格の堅牢さ
(厳格な緻密さ)と運用上の安定性が要されるとは思います。(これは案外、オープン
ソース宗教とも、避難経路に於いて等で繋がっているかもしれないわけですね)