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“個別ヤクザ≒寄生虫”に見られて。(生贄の養殖)
自然権(という名の目減り)
食うや食わずですから、温かいものは沁みます…(タンタン麺を食べたところ)。
しかしまあ、ミスドに依存せずとも、野営をすれば、薪を拾って、
火で炙って温かいものは食べられますよね。(毎回、時間をかけて火を起こしたり、
頻繁に火事を出すのは考えものでしょうが)。
ボーイスカウトで苛められていた頃は、カネを払って非文明を味わう贅沢もしたわけでしょう。
贅沢というのは、文明を味わった上での輝きや醜さへの驚異でもあるはずで。
自然という預け払い機は、最も便利で身近で危険な場所ですね。
そんなATMを撤去したり、占有している国家には扶養の義務があると思っています。
これは考えてみればド厚かましい話で、
この時点で誰とも話が合わないというのは有るかもしれません。
しかし、義務だとすると、わざわざ障害者保護などしなくていいのですね。
(※ 保護撤廃は解決策としては最悪だとしても、
国権存立を認めた上での国権としては理論上は
そうでしょう‥‥自然回復後の、環境保障と過去の
補償をした上で‥‥でしょうし、結果的に上記で賄えるならば)
ヤクザ≒搾取の民営化(プライベート口座)
人口を、引き返せないほど増やして過密状態にしておいて、
増やした一部をときどき減らす、これは生贄の養殖ということでしょうね(人間バンク)。
自然に人が養われきれず、自立(増産、複利増産)を申し渡されるのであれば、
(相互依存的にしか)養い切れない人数に(自ら)人為的にした、ということがある(した以上は殺せない)はずです。
そして増やして(しかも余裕の有る地域は)人間を国外に輸出し、土地についてのシェアを占有するのですね。
そういう意味で被差別の外国人なのに、連れて来られる以上に何らかに増えることへの右翼言辞は当然の反発でしょう。
人間は既成事実として占領地に打ち込まれる無言の立て札でもあるばずです。
「価値戦争」
(神は僕に「希望を捨てよ」とはいっていないにしても、
神をも畏れぬ無知な)僕は無能者です…。
治っても「復帰」できる力が養われていない…という「2重の病」患っています。
そして…定義によっては“ヤクザ”(強引に財に食らいつく人)です。
(僕の場合は自分の娘の性資産を対象にしたのではなくて家財に‥‥。
むろん蔑称「パラサイト」とは思いませんが、例外の存在を捨象した
判りやすい国家の皺寄せを、家族に転嫁してはいるでしょう)。
国家や世俗とは無関係に、原始人格としてマトモに生きられるなら、
こちらとしても暴力はもとより、代替加圧も必要がないかもしれない。
生きるための必要を満たさんとする者達の、反動的な欲望を組織化し、
生きるため以上(他者が生きるための糧)を
搾り取る形態にすると組織ヤクザとして明快な形になるのでしょう。
(ここに見られる志向性をハングリー精神といったりはしないと思いますが、
僕とて、もっと激しさを秘めたものがあろうかと思います)
“個別ヤクザ”(迷惑という言葉と同様、強引という意味の
微妙な定義にもよるでしょうが)にされたほうとしては、
「僕が社会の害である」と嘘をいわれることなく、気持ちよく生きられれば良かったかもしれない。
そうすると欠乏の裏返しである「個別権力」に走ることも無かったのだと思います。
しかし、その人に世が(悲願としてでも)戦国に見えれば…低い確率で信長は誕生するでしょう。
じっさい、僕にとっての対岸は、じつは他の人達にとっても彼岸なのだと思います。
※ したがって国家教育で宣伝し(教育と宣伝の使い分けを取り払えば)、
下支えしてきた価値を(市場というからにはコミュニケーション内容をも)総市場の変動相場に(既成の経済交換において、
通貨という片側を「万能に限る」ことで経済が成立し、経済を財に限ることで経済を保護するとすれば)
戻した途端、総(価値)バブルは(知りえた個々の内部で)崩壊し、
まさに乱世が始まる‥‥僕の仕掛ける混乱は、せいぜい「価値戦争」ですが。
(この程度の意味しかない「経済」の繁栄なら…神の名を戴いた「諸システム」の下位に置かれるとしても止むを得ないかもしれない)
寝技
奴隷として生きるか義賊として生きるか。
あるいは放浪者になるか。
観光でプチリゾート(上高地や十津川)には行っても、
秘境に小屋を建てるのは御免蒙るのではないでしょうか。
僕は、この道を必ずしも進んでやっているのではなく、
するしかない…いま死んだら、何が残せたといえるのか。何の人生かという思いで生きています。
(また場合によっては…自分の意思を貫いて今「死ぬ」ということ。
するしかなくてしている以上は…しないなら死ねるということ)
人に価値を与えたと思える以前に、まず自分は価値の中に自分が位置づけられてあるのを感じられるか。
引き返せる場所にいて飛び込むのは「褒められたこと」なのでしょうが
‥‥人一倍褒められたい僕にしても、そんなふうにしてなら
「褒める」という行為であってさえ御免ですね。
愚かしい基準(かつ下らない基準)から出たことは…肯定も否定も無いのです。
そうすれば、一切の公的価値が消えるとも言えますでしょう。
あとは寝技(主観闘争)の問題でしかありません…。
個別の個別
…養われながら罵倒すること。…それを個別運動として完遂し、
同時に、価値個別化の運動としての具備条件を守ること。
逆らうのが趣味というのではなく(むろん選択して)、如何な生活条件にも、
自分に妥協しないで済む自分を、持続的習慣的に確保すること…(選択的な主観生活を主観的に選択する、ということ)。
人生半ばで世間から隠遁しています…退路となる諸条件に恵まれて
…それでも息のつまる生き埋めの毎日に呼吸の隙間を見つけて生きてきました。
僕の居たポジションで、もし本当のことを言い続ければ、摩擦の毎日に早晩(墜落方向へとひた走り)
隕石のごとく燃え尽きてしまうでしょう(尽きました)…。
もしも僕に対し、親が何もいわなければ僕は、真人間に「成れて」いたか。
僕ほどの真人間はまずいないという見渡しは…
つまり確定的な規範にしたがって生きる人が居ないと思うからです。
皆迷いの中で生きていると思うのです。
あるいは僕の基準でいけば、それがモラルであれ、教義であれ、ファトワであれ、持論であれ、
どのような枝も(場合によって生死についても)悉くといっていいほど間違っているでしょう。
少なくとも、そのような基準では審査対象としての自分は何ら満足できていないだろうし、
制度環境・慣習環境が満足できるような仕組みにはなっていないと思うのです…。
(心を痛めつつ?)親がまったく批判しなかったら、
歪んで儀式殺人まがいの猟奇に走ったか…。
主婦として親として管理し、後継指導しなければならないと思い込んでいる、
…または家に居るのは異常だとして、プレッシャーをかけるのが人倫上の務め、
と思って批判を続ける。その結果として、
強迫(文章も、その文言も)に巻き込まれ、プチビジネスの準備が遅れ、
いまや万引きと務所しか…(自殺と野宿は避けますでしょうし)、
(渡欧できなければ)生きる道が残っていないわけですね(もちろん掲示板泥棒の次元ではないでしょう)。
管理型の親権
家に居るよりも「世の夜風」の方が厳しいようでいて‥‥、
しかし互いの人生否定は烈しいもので。(職場でもネチネチとストレスはあるでしょうが、
他者の目があればそこまではいわない…家族なら割り引いて、という内容なのか。
利害に徹するべきなのか‥‥家族としての否定の重みは)
親など管理型主婦のいる家庭が癒しにならないのはお互い様として、発言に加減はするはずです。
加減してはスポイルするとした先方が、この年齢までスパルタ表現を貫徹すれば、
それは精神的には最大化してくるでしょう。
(積み重なった怨嗟の解しようのなさは、さながら中東ですね)
しかも、こちらの唯一の「社会価値における存在意義の拠り所」でもある、
なまじ(カネにもならない)才能を(即金にならないと見越した上で)一部、評価しているのが‥‥
盾(つまり全否定はしていないぞ、との。)になっているようなのです。
他方で僕の、長年の小さなビジネスプランには(否定にも要る根拠の、はっきりしない)疑問を呈し続ける…。
しかし僕は(当の芸術分野でこそ)並みの人間が到底味わいえないような挫折を経験したかもしれません。
その芸術分野で拒絶されてきて(むしろ「余技」のほうをビジネスにしようとしてくれた人が複数いた)
そんなものが身過ぎ世過ぎの話に出てきて、追い出し(引っ越し)の件と混ざっているわけです…。
(当然の帰結とはいえ…さながら地底都市に逃げる話にまで万策が尽きている)
僕のささやかな才能への、世の徹底的な拒絶は事実ですね。…むろん
(条件を満たす限りで基準を示さずに)拒絶する権利もあったでしょう。とはいえ、
そんなふうに僕に対して、それから…そもそも親も、全否定なら全否定でもいいのです。
(僕のほうこそ‥‥盲従するかに上納金を払い続ける他者に対し、全否定に近いものがあるでしょうから)
「生活」妄想
培地に当てるのは、太陽か北風か、どちらが人を強くするかといえば…当然後者だと思います。
望まずして、また巧まずして、結果的に強い面が形成されたのかもしれません。敵対の相手は、もちろん親に限らずして、
闘いの日々(そんなわけで僕には欧米流のしたたかさがあるらしく…そこが堅気の日本人と一線を画す資質でしょう)。
傍目には僕は温厚な人間であって…それどころか健常者よりも極微の「生活妄想」に拘る虚弱な人間です。
しかし、家では(弱者ねらいの内弁慶なのか)老いた親を罵倒するヤクザであり、
外でも追い込まれると何をしでかすか判らないところがあるはずです(追い込まれてもしない人はしない)…。
抗議活動〜奉仕活動では、陰に陽にいろんなことをしましたが、
もし本当に、そんなことが誰でも出来るというなら僕は「日本人並み」でいいつもりです。
僕にとっては人見知りぐらいの意味ででも、色濃く「敵味方」がありますね。多くは、
自分が特定される形では敵をつくりたがらないのではないですか(疲れるだろうし)。
味方かどうかを決めるのは(出方ではなく)自分です…。
およそ頭を下げても容赦はありません…。そういう半面は…(手足を斬られても)信長です。
口に筆を加えてでも、人を潰しにかかる面では正直でしょう
(しかしむろん、盗みはしても殺したりはしない…)。
そういうわけで、僕の殆どの成果物(振る舞いをも含めての。)は、
自分の意思を通す(自分として意味を感じる)生存・
生活であるか‥‥遺産・遺言だと思います。これでは、仕事とライフワークを
往復する車庫いれスペースも、選択の余地もありませんね…。
(結局、年齢が上がってなお「下積み」を続けるのが、そういう道だとしたら、
片足を突っ込むのも、幸かどうか分からないでしょう)
…端的には「生の意味への強迫」と「生への強迫」と「強迫」とで生きている(だけの)つもりです。
貴方は優しい文章を書きますね。僕に似てきていたなら、
僕もあんなふうにソフトに見えるのか‥‥。
でも、そういうところは貴方独自の持ち味でしょう。
僕に有るとすれば、こんな気持ちが分かる人はいないだろう…
という種の、人の特殊な苦しみが判る程度の感性(経験の内実)でしょうか。
‥‥僕は優しくはありません(イメージや貴方とは正反対かもしれない)。
生活と生存にかけて…口は悪いのです。せめて‥‥
ありがとう。