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>ニコちゃんさんすぐに気づかず申し訳ありませんでした。
いえいえ‥‥反論なり回答を違う板に投稿した、こちらの“反則”でしょう。
私だったら、そんなことをされたら“コノヤロー、分かるワケ無ぇダロー!!!”とキレるかもしれません(笑)
しかし‥‥投稿に気づかなかったということですと、
貴方は主に某板を読んでおられるのですか? では“某板附設の掲示板”なども御覧になる?
ともかく、私のあんなレスに対して、こんなに丁寧なレスを頂けるとは、これぞ晴天の霹靂ではないでしょうか。
>平板にしか捉えられないのではなく、
キツイことを言って済みません。もう今さら撤回するつもりも有りませんが‥‥。
某板には平板な人がよく現れますので(笑)つい口走ってしまったようです。
私だったら、そんなこといわれた日にゃ、‥‥まあ、やめておきましょう。
>全力投球してもこの程度なのですが気持ちがありましたら支離滅裂ですがご一読ください。
一体どこが支離滅裂なんでしょう。すこぶる明快な論旨に思えますが。
>>「まいど」
>たった3文字ですが、自分の過去の生育暦や現在の生活圏には存在していない言葉だったので、
そうですか。私の生活圏からも、若干距離がありますね。
>とても新鮮に聞こえました。
それはよかった(笑)
>こんなときはどう返答すべきなのか?しばし考えてしまいました。(冷汗
別に・・(笑) 無視して下さっていいのですよ(笑)
>「へへっ、ぼちぼちでんがな」「おおきに〜」・・・
ほほぅ、いけるクチですね(笑)
でも、なぜ「へへっ」と笑ってるのか、答えが見出せず困ります(笑)
方言というのは性格的なものにも、影響するのでしょうか。
私からすると「大阪弁」は、ややつくった感じに響きますし、
一般に地域外の人たちの模倣も人工的な感じがします。
(当然かもしれませんが)
>>戯れに過ぎないはずのスポ
>某板ではトップアスリートの厚遇を紹介する投稿が主構成でしたがこちらのとを併せ読ませていただいて、
まあ、政治家の厚遇、皇族の厚遇、芸能人の厚遇、選手の厚遇といった形で、
一種の「階級格差」というものが話の導入としては解りやすいかもしれません。
>ニコちゃんさんのスポーツに対する考えは上記の「戯れに過ぎないはずのスポ」に集約されているのではと感じました。
その通りでしょう。
>たしかに英語ではplayという単語を使いますね。。
>playは同時に遊ぶという意味もあります。
>まさに、戯れに過ぎないはずのスポですね。
本質的ですね。
>>戯れに過ぎないはずのスポが、学校の名目であるはずの“主役の知育”に
>>伍すかに台頭
たしかに報道において、スポが政治の次にくる根拠が希薄かもしれません。
まして教育において、あそこまでスポが必要という理由が分かりませんね。
>以下よろけるチーズUさん投稿より引用(註1)
>体育科では、手っ取り早く、多機能・勘・持久力を養うために総合競技として
>何種類か「ゲーム」をやらせているようだが、それで体力を底上げしたいのか。
>(定着するのが体育好きに限られ、分極するばかりで、昼夜没入されても国力には
>結ばないとして)もはや本来的に国力、生産性の向上と、身体能力が比例しないんでは?
>事務系個人の体力増進がジムで行われてるんだったら、
>体育の授業を検診みたく交代制の順番待ち方式にして、学校にジムだけ置いて、
>筋肉を練成するといいだろうし (中略) もう集団演技にさえ転用しづらい体育なら、
>形骸の・息抜き・遊び‥‥そして?
>戦闘(獣性に駆られた、敵陣攻略目的の兵務行為群)と、芸術(ポイント制の鑑賞対象の、
>姿態や振る舞い)の中間ぐらいなポジションなんじゃないか?
>(引用おわり)
これはそうでしょう。
>と、ご両人とも学校内での体育の授業不要も訴えているように見えました。
皆さんのほうこそ、確たる正当な理由も無く、体育の授業を当然視しているのではないですか?
>これは、自分はあまり思ったことのない考えでしたので、
そうでしょう、誰も言いださない‥‥本物のタブーでしょうから。
スポそのものを批判する人は、知る限り2人いたかどうかぐらいでしょう。
この辺りから、本題に入ってきますね(笑)
>興味深く拝読いたしましたので、機会がありましたらもう少しお考えを知りたくもあります。
つまり‥‥いかに陰謀を追及しても、恐らく世界は変わらないということですね。
草の根の革命が成功したと思ったら、覇権国が糸を引いていたとか‥‥フルーツ革命といいますか(笑)
世界が変わらないのは一般多数が、強固な世俗意識を「植え込まれていて」他のことに注意を向けられず、
常に「忙しくしている」からでしょう。たとえば、スポの試合結果のチェックに余念が無いとかですね。
何しろ、遊びに類するスポでも、いまや「文化」とまで列せられるのですから(笑)
ところで阿修羅は陰謀論のメッカという側面もあるでしょう?
陰謀論というのは、裏で何をしていたとかいうことが中心になると思います。
内部情報が出たり出なかったりで、なかなか内情を知ることはできませんよね。
内情を知りたいのは、とくに爆発とか災害とかが引き起こされた場合ですね。
しかし陰謀は、そういう大事件だけに留まらないと思います。
「悪い制度の制定」も陰謀でしょうし、一般人を意識レベルで侵食する「世俗意識」というのも陰謀でしょうね。
世俗意識というのは、絶え間なく目の前に「実在する」力学のはずです。
ところが空気のように掴み所が無いのですね。確かに何処か、この空気はオカシイんだけど、
空気である以上は当たり前すぎて、万有引力の法則を見つけることができない‥‥。
それでも何か、見えにくいカラクリがあるわけでしょう?
‥‥私も目下、いかに構造を抉り出すかに腐心しているところですよ。
>自分の周辺の現況を簡単にお話すると自分の家族の中に、
たいてい身内の誰かは、スポに取り込まれているはずです。
取り込んでいるともいえるでしょうが、取り込まれているともいえるでしょう?
身内が打ち込んでいるのだから、批判しづらくて、タブーになるのだと思います。それは非常に巧妙なところかもしれません。
早い話、スポは学校教育で必須なのだから、(貧困・虐待・ヤクザ絡み等で就学できない人を除き、)国内の健常者の
ほぼ全員がスポの側に取り込まれているといっていいでしょう。これを“共犯関係にされる”といったりしますね。
身内や仲間がスポーツマンだから、スポーツの悪口は言えない‥‥これは
人質の仕組みでもあるでしょうが、とにかくタブーにほかならないはずです。
そのタブーをどのように掻い潜って、成り立ちや力学を掬い取るかですね。
もしも仮に「脱出しがたいスポ環境」が編み上げられているなら、
それが陰謀であることは間違いないのだろうけど、
陰謀といっても、どの組織・どの機関がどうした、という話じゃないでしょう。
いつ・誰がといった具体性が体を成さないなら、
この種の陰謀論には、かなり抽象的な
要素が入ってくるのじゃないですか?
ありがちな陰謀論と「抽象陰謀論」が違うのは、研究の仕方だけではないでしょう。
陰謀論の対象は「そこに取りこまれ」「その強固な一部を成し」「その解明を阻もうとする」
私自身との闘いになると思います。‥‥見えないのだから、何も無いんだッ、と首を振るほうが
楽は楽でしょうが、しかし。‥‥何だか「スポが実際は自分との闘い」という話に近づいてきますね(笑)
>ある種目を小さいうちから特化して習っているのがおりまして、
あの‥‥雑技団みたいなエリートが居ることが主たる問題ではないと
思いますよ。皆が遣る(皆が遣るべき価値があるとする)という
もっていき方に、問題性が感じ取れるわけですね。
>そもそものきっかけもニコちゃんさんほど問題意識を持たずに無自覚のまましているにすぎないのですが、
それは‥‥国家の制度を前提としているのでしょうけど、きっかけは親御さんが与えているのではないかとも思います。
>好転につぐ好転ならば、ひょっとして大舞台出場も実現できたらと夢みている節もあります。
宝籤でも当たる人はあたりますしね、と期待が膨らむところで行列が出来、
裾野も広がるかもしれません。それが商業というものなのでしょうが‥‥。
>スポーツも体力増進、楽しむ方面と競技選手育成方面とでは、語る話の向きも異なろうかと思いますので、
でしょうね‥‥。
>競技選手育成方面にて、雑感を述べますと、
どうぞどうぞ(笑)
>他者と競合することで得る高揚もあるかもしれませんが、
>それ以上に自分の目には「ライバルは自分自身」といった精神的な面、
>そして強くなりたい一心から練習内容を工夫しようとする精神修養にも似た静かな面が前におしだされる気がいたします。
精神力はそのまま知育にも役立つものですよね。ただ、知育でもそれが育まれるとすると、
知育内部でことたりるという観方が出来るかもしれません‥‥知育にも、生産それ自体にも。
>そこには戯れるといった動的イメージよりも自己陶酔にも似た部分のほうが似つかわしく思います。
そうかもしれません。私かいったのは、自己陶酔や精神修養も含めて個人の問題ではないか、
個人の問題に過ぎないものをマスで遣らなくても、
個々に有志を募って遣れば済むではないか‥‥という主張のつもりです。
そもそも精神修養を至上のものとする人もいれば、何の価値も感じない人もいるでしょう。
それでいいはずなのです。
とはいえ一般人が“本質的に自由である”一方、国家からすると何事も国益に直結させる必要が有るでしょう。
何かが国家に巧妙にリターンする、そういうつながりが潜んでいるはずですよ。
もとより国家というのは「世界を分割する」本質をもっていますね。
ならば国家は絶えず国家間競争に晒されるでしょう。
「国家は自己保存のシステムである」というのは、自己保存的に動かなければ、
競争に負けて淘汰されるという「余裕の持てなさ」から必然的に帰結する「本質」だと思います。
(ちなみに、もっと進めれば個別の精神的な価値を公共のものとして絶対化するところに
信仰の問題も生じてくるのだと思いますけどね)
>それだけに、わき目もふらずに自分自身への挑戦で終始して目が自分自身にしか向いていないときは、
>誘惑(利権へのいざない)も耳に入らないかもしれませんが、
なるほど誘惑が個々に対処できるとすれば、いっそうスポで鍛える必要がありそうですね。
しかし今問題になっているのはマスの行動だと思いますよ。
誘惑する側にすれば「石頭」の人(強固な意志を持った方)というのは織り込み済みでしょう。
そういう人は初めから客じゃないわけで統計的に何割かが利権に走ればペイできる‥‥ということかもしれません。
でも、もっと大きな構造として在るのは、スポに参加しているだけで陰謀に加担することになるシステムでしょう。
例えば‥‥それであるかどうかは別として、「国民が何かの大試合に気を取られるとか」
「団結する習慣をつけるとか」「敵チームを憎悪するとか」もあるでしょう?
私の問題提起の主眼は、むしろそういった方面に有るわけですね。
さらに例えばですが‥‥スポというのはつまるところ、名目に関わらず総じて
‥‥ストレス発散のためのネズミの大車輪なのかもしれず、
だとしたらスポは紛れも無い「体制補完装置」ですよね。
無難に飼うためには欠かせない道具立てという意味で。
>ピュアな分腹黒い連中にすれば赤子の首をひねるかのように簡単にだましてしまえるのでしょう。
スポが市民権を得ていることを思えば、スポが「公共の価値をもつものである」と
「全員が」だまされているのではないか‥‥という視点なのです。この壮大な罠が脳内にイメージできますか?
>だからほどほどがいいのか?そうするとニコちゃんさんのいうしょせん、スポーツは戯れごとでとどめておくのが一番効果的??
意外かもしれませんが、じつは本気でのめりこむことを含めて、戯れごとだと思っています。
競馬やゲーセンで財産を摩るのも、飲酒に呑まれるのも、遊びは遊びなのですね。
精神修養そのものに価値があるとするのも、遊びとはいわないにしても、個人の問題だと思うのです。
要は精神修養それ自体ではなく、それによってどれだけ市場価値を生産したえか(生産効率をあげえたか)という
問題でしょう。それが延いては税収となり、国力になるのだと思っています。
もし生産に直結しないことを慣習・制度として奨励しているとしたら、
そこには何か別の国体護持の目的があるのではないかと疑えるでしょう。
先も述べたように、国家は無駄をやる余裕が無いはずですから。
(むろん利権‐私欲が突出するとその限りではないはずですけど)
>でも、人間という生き物はやっかいで、
>ほどほどを楽しむで満足いかない輩も出てきますよね。
そんなわけで、どれだけ個々が真剣にやろうとも、スポが生産向上(まあ絶対服従
というのもあるでしょうけど)とリンクしないことには「全体化」は不自然に思えます。
それ無しで全体として組織的に推進される意味や建前がわからないわけですね。
あたかもスポは暗黙の既成事実として押し通されているというのか。
それでは、いったい何のためにやってきたのか。軍事教練の長期ソフトランディングなのか。
もしかして不屈の精神を養うのが、ミス・ムラ・ムダの少ない生産ロボットを
つくる為だとしたら‥‥。或る程度は合点がいくかもしれないですね。何でもそうでしょうが、
目的に向けて自己を滅していくゲームというのは、或る人々には旨みがあるのかもしれません。
>ただ自分のなかでは、スポーツを戯れごととは言い切れないのが正直です。
>むしろ内面の自己と語り合うツールといったものでしょうか。
精神面のコントロールも、身体のコントロールも目的(ゲームに勝つこと)の技術(手段)といえばそうでしょう。
さらに、ピアノ演奏とスポーツは殆ど差が無いと感じます。ピアノとて身体芸であるとともに、
白黒がはっきりするコンペティションが有るわけですね。しかしピアノを全員に弾けとは命じない‥‥。
>それもこれも、企業等から目にかけてもらえない成績だから、いいたい放題なのでしょうけども。
だとすると御自身も相当に体力や腕前に覚えがあるということでしょう。
そこまで鍛えた人生の投資を否定することは難しいと思います。
しかし間違ってもらいたくないのは、そもそもスポ好きや、
スポへの没頭を否定する必要も無いということですね。
貴方がスポにどれだけの(死ぬほどの)価値を見出しても、いっこうに構わないでしょう。
しかし、別の誰かには、何の意味も無いかもしれない。そういう人を説得することは出来ても、
価値観を押し付けることはできないはずなのです。
>これが万一大器と認定されたら、ピュアすぎると自己を破壊されそうですね。
もはや「ナイーブで利用される」とか「強くなって入れ込みすぎて利用される」とかの問題ではないでしょう。
大勢でやることで、それが伝統的にも価値となり、
そこに違和感の有る人も巻き込んでしまう、というようなところが問題でしょう。
好きな人がやる分にはいいはずです。ただ世渡り上、好きにならざるを得ないシステムとか、
さらにはその精神(忍耐力)の戦時利用ということもあるでしょうし。機会均等の競争ではなく、
愛着がわくように露出を増やし、好きになるようにさせていくとかですね。
愛国心も似たような「つくり」かもしれないですね。
最終的には修養した精神力を発揮して生産効率を向上させるとき‥‥
誰が得をし、誰が消耗するかでしょう。スポによる体の損耗は、
短期的な蓄積や、短期的な判明に限らないと思っています。
>支離滅裂で申し訳ありません。
一体どこが支離滅裂なんでしょう。すこぶる明快な論旨に思えますが。