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(回答先: この世に唯一絶対の理論など存在しない。自ら以外に頼る者はないと、思い知るべきだ。 投稿者 乃依 日時 2006 年 1 月 18 日 13:37:58)
なにもかもが理屈で片付けられるものではない
心なき理論はすべて破綻する
心ある理論は全て実践に現れる
身体は脳に縛られない
よってすべてが理論に縛られものではない
求めずして得るは己の姿
その己の姿を見ようとせず、どこか蔑ろにし、他を敬う事も感謝する事も無く、
克己心無き者、上の存在を信じぬ者、自らの世界に溺れる者の中に、
真の答えなどどこにみつけられようか。
答えは静かに密やかにその集中力が途切れる事無く見つめ続けられるもの。
見つけたいその答えもばらばらでは何を議論しているのかが解らない。
自分が満足して好しの答え。
誰かが満足して好しの答え。
答えをまず決定して、つまり希望と願いを込めて、そこへ辿り着く迄のプロセスを皆が考えて出し合えるようになれば、それ自体がひとつの美しい答えを呼び込む。
ここではおのおの自分が探し出したいと言う答えもまばらに、ただ漠然と示すのはその答えというものに対するアプローチの方法。それを言い張り合っているに過ぎない。
なによりまとまるものもまとめあげる者がいなくては何もまとまらないし、またまとめあげようとする者をまとまらないようにする力が働くここの性格からして、ここで何かがまとまる事も無いだろう。そうした事をいつまでも楽しみたい人間が邪魔をするだろう。皆が納得するのはその時々の現状を的確に言い当てるものに限ってであって、普遍的論理は誰も求めていない。今を十分に肉感的に楽しむ事だけを考える者に於いては絶対的な論理など邪魔な存在だ。
またそうでないものにも、他人が示唆するそうした論理は受け入れられる事は無い。それは生命としての備わる自らを知ろうとするその答えを求め続ける機能によりインスピレーションとしてそのように働く為。
それが生命として愛を持たされたものの本来の役目である。
それを放棄した者達が苦しみを連鎖させる事件を引き起こす。
大きさはどうあれ、いがみ合えばそこに閉じこもることになる。
時のバビロン捕囚などもまたその術の一つであると知る。
人が親の体に身ごもり生まれる迄十月十日。それがあるべき人の一年の尺であると知る。
280日 308日
完全無欠な理論とは全てを包括するあいまいさの中にこそある。
それが調和であり、バランスをとる事。
完全な答えを求める姿にこそどこか欠けたものがある。
ある時代、次元ではそれが答えだとしても、違う時代、次元ではそれは答えにはならない。
機械的にかたどられた、また、ひとつの次元での物言いをただ鵜呑み、模倣した中に完璧な答えなどはないだろう。しかし、答えとは、求めずして得たものこそ尊いと知るのだ。