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(回答先: ほとんどは如往さんに解説されてしまいましたが・・・ 投稿者 考察者K 日時 2006 年 1 月 12 日 22:11:36)
老荘思想から引いて、規制のない社会がよい社会といっておられますが、
ご存知のように、民法は権利と権利とのぶつかり合いの調整の基準のようなものです。
嫌煙権というものが意識されだして、喫煙者が住みにく世の中になったという感覚をいだくのはわかりますが、それまで、タバコの嫌いな人はただがまんしていたのです。
いわゆるサイレントマジョリティーがいて、黙々と常識に従い、官のいうことにしたがってきました。そして、そのような存在が、一種のクッションであったかもしれません。
政治についても、確かに、選挙の投票率の低い日本ですが、識字率の高さなどから考えて、実際には多くの人が、いろんな意見を本当はもっていて、ただ、日常生活の中ではあえてそれを持ち出さない、そういうことではないかと思います。
ミスコンについては、おそらく行政主催のものが減っているのは、男女共同参画の流れもあるのだろうとは感じていますが、もし、商業ベースでも減っているのなら、なかなか日本の企業の社会感覚も捨てたものではないのかもしれません。
要するに、一定の規制とか、決まりは社会を維持していくのにさけられないことでしょう。そのような規制等が不要な社会とは、逆に宗教がすべてを支配しているか、高い道徳が国民全体にいきわたっている社会です。
それこそ、価値観の多様化によって、法律の抜け穴が利用され、そのたびごとに法律は複雑になってきたのですから。
従って、デジタル二元論思考が、世の中をすみにくくしたのではなく、なんでもありの多元的思考とか3次元的思考によって、それまでの道徳、通年が破壊され、社会を維持していくのに、新たな規制がうまれてすみにくくなってくる。
むしろ、二元論で宗教のように国民全体を精神的に支配をしてしまえば、信者たる国民には住みやすい世の中になったでしょう。・・・という考え方はどうでしょうか。