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これは、piyopiyoさんへのレスのつもりで書き出しましたが、レスにすると見てくれる人が少なそうなので、新たなスレッドとして、こちらに記す物です。ご了承ください。
>piyopiyoさん どうもです。
>【どんな罪であれ罪には厳罰で臨むべし。全ての責任は犯罪者に帰します。社会の秩序を乱す者は葬り去らねばなりません。】
Kは最近、この点をよく考えています。
古くて、新しい問題に「戦争で、敵を多く殺せば英雄で、一般社会で多くの人を殺せば、殺人鬼」というのがありますが、両者の差は何でしょう?
昔のアニメや漫画では親を失った兄弟がいて、妹や弟に食べさせるために盗みを繰り返す兄というような設定が良くありました。
K的には「そのような者の犯罪は許されるべきだ」と考えています。そのような場合、本来は両親を失った時点で「国が責任を持って保護すべきであり、それがキチンとなされたならば、幼い兄弟が犯罪行為を行うことはなかった」からです。
「自分のための犯罪行為」と「自分に繋がる者を守るため(犯罪)行為」というのは別に考える必要があるはずです。
一見すると他の犯罪行為と同じに見える行為であっても、自己の利益を求めたのではない場合、その点には情状酌量の余地があるはずです。
しかし、最近の日本の風潮は「結果的な行為だけを見て」怒りやすくなっています。
多分ですが、相当数の人が「忙しく、余裕が無く、せっぱ詰まっている」ために他人に対する思いやりという感情を失っています。また、冷静な判断力を失い「あれこれ考えさせられる行為をしたこと自体が厳罰で十分」という短絡的考察に繋がるようになってきています。
そうした中では「この犯罪は、本当の意味で犯罪(=悪意のある行為)なのか考えよう」という慎重論すら「悪に荷担する考え方だ!」として切り捨てられる傾向にあります。
この状況は第2次大戦前に「アメリカと戦争して勝てるのか?」もしくは「本当に戦う事が日本にとって良いことなのか?」という慎重論を唱えただけで「非国民」とされた時代を彷彿させるものがあります。
この辺を考えると一律的になんでもかんでも「厳罰に処せば良い」というものでは無いような気がします。