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丸激本第三弾へのまえがき:IT化が突きつける価値選択
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=322
投稿日時:2005-12-18 - 11:20:58
【丸激本第三弾の位置づけ】
■『漂流するメディア政治』『アメリカン・ディストピア』に引き続く、丸激本第三弾だ。丸激とは「丸激トーク・オン・ディマンド」の略。インターネットでのニュース解説動画配信番組で、国際ジャーナリスト神保哲生氏と社会学者の宮台真司がレギュラー出演する。
■毎週一回月曜日の配信で、既に250回を越えた。年間52週ほどだから、まる五年である。最初は二人でトークをする形式で始まったが、ここ二年ほどは毎回各領域のエキスパートをゲストとして招いて、より深く立ち入った議論を展開するという形になっている。
■『漂流〜』『アメリカン〜』で述べた通り、神保と宮台の二人は、メディアと政治というショートスパンの第一軸と、歴史と環境というロングスパンの第二軸を、掛け合わせた問題設定をしている。『漂流〜』は第一軸優位、『アメリカン〜』は第二軸優位である。
■今回は、政治よりもメディアに寄った上で、メディアと歴史、メディアと環境といった方向に、話をひろげた。とりわけIT技術の発展とともに拡がる、デジタル化(ダウンサイズ化)、ピア・トゥ・ピア化(n×n化)、セキュリティ化などに、焦点を絞っている。
■具体的な話題は、目次を見れば分かるように、専門分化した各領域のかなり奥深くに入り込んでいる。いまIT技術の進展を背景に急速に変わりつつあるメディア状況について語るという営みが、何を意味し得るのか。限られた紙幅だが、コメントをつけておきたい。
【〈システム〉全域化と〈生活世界〉空洞化】
■近代社会の古典的なモデルは、第二次産業(製造業)が中心だった近代過渡期(モダン)のものだ。すなわち、相対的に非流動的な〈生活世界〉の外側に、流動的な〈システム〉が拡がることで、〈生活世界〉を生きる我々の福利や便益が増大する、というものである。
■しかし、産業構成上も労働人口上も、第二次産業よりも第三次産業(情報&サービス産業)が中心となる近代成熟期(ポストモダン)になると、今度は〈生活世界〉の内実をなしていた自立的相互扶助そのものが、〈システム〉へと置き換えられるようになり始める。
■〈システム〉とは「役割&マニュアル」優位な関係性の領域で、匿名性と流動性が高い。〈生活世界〉とは「善意&自発性」優位な関係性の領域で、匿名性と流動性が低い。〈システム〉がコンビニ&ファミレスだとすると、〈生活世界〉は地元商店街に相当する。
■〈生活世界〉の盤石さは、コミュニケーションの共通前提の分厚さを意味する。共通前提を当てにできる範囲が「我々」をなす。共通前提の分厚さは、社会で育ち上がる人々の感情の働きを一定のバラツキの範囲内に収めるから、互いの感情や動機の共有率も上がる。
■これを前提にして言えば、〈システム〉化(近代化)が善きことだと見做され得るのは、それが「我々」にとって善きことだと感じられるからだ。だが先述した近代成熟期は、〈システム〉全域化による〈生活世界〉空洞化を招き、価値の地面たる「我々」を断裂させる。
【IT技術の発展がもたらす自己触媒作用】
■〈生活世界〉が空洞化し「我々」が断裂した社会では、互いの感情や動機が不透明になり、不信ベースのコミュニケーションが一般化する。自明性が支配するはずの価値の地面が液状化し、不安ベースの実存が一般化する。単に「〈物語〉が小さくなる」のではない。
■IT技術の発展は、(1)〈生活世界〉の空洞化を埋め合せる準私的なネット・コミュニケーション領域を与え、(2)不信ベースのコミュニケーションを埋め合わせる監視テクノロジーを与え、(3)不安ベースの実存を埋め合わせる個人化したデジタルコンテンツを与える。
■IT技術の発展は、〈生活世界〉の空洞化がもたらす付帯効果を手当てすると同時に、そのことで〈生活世界〉の空洞化を触媒する。例えば、ネットがもたらす匿名的親密さは、家族内の記名的親密さの空洞化を埋め合せると同時に、記名的親密さへの期待値を下げる。
■すなわち、ここには、IT技術の発展が、IT技術への需要(の背景となる〈生活世界〉の空洞化)をもたらすという「自己触媒作用」がある。この化学的な比喩が示すように、IT技術の導入は、是非を論じる暇もないままに、極めて高速度で進むしかなかろう。
■70年代から進展する〈生活世界〉空洞化には、二つの処方箋が既存する。一つは、〈システム〉全域化を制約する、欧州的処方箋。もう一つは、〈システム〉全域化を制約しない、米国的処方箋だ。日本は事実上、米国的処方箋への無自覚な追随を示してきている。
【欧州的処方箋とは何か?】
■欧州的処方箋は、スローフード運動に象徴される通り「役割&マニュアル」な便益追求による人間の入替可能化に抗い、〈生活世界〉の空洞化を防遏しようとする。抽象的には〈システム〉の過剰拡大を〈システム〉によって防遏する「再帰的近代化」が企図される。
■シングルマザーへ支援や同性婚容認を含めて「伝統家族」から「変形家族」へのシフトを政策的に支援する。弱者を手当てする(ネガティブウェルフェア)のでなく、家族形成や就労を含めて「社会参加」の動機づけを持つ者を手当てする(ポジティブウェルフェア)
■かくして、〈生活世界〉の範域と結合した人口2〜3万規模の基礎自治体を「我々」のベースにして、まず「我々」で問題の解決を図り、それが不可能な場合に上位のレイヤーを呼び出すという「自治と補完の原則」を、国家から国家連合への主権移譲にまで及ぼす。
■同時に、人間には〈生活世界〉のプレイヤーたり得る「まともさ」を要求し、「まともな主体」を生み出すための規律訓練を施す「フーコー的権力」が重視される。不安&不信ベースでの「ルール形成」でなく、内発性&信頼ベースの「組み込み合い」が重視される。
【米国的処方箋とは何か?】
■米国的処方箋は、〈生活世界〉を護持する代わりに、アーキテクチュラルな権力を持ち出す。冷暖房の温度、照明の明るさ、BGMの音量、椅子の堅さ、家具や調度のアメニティによって、主観的自由感を損なわずに、客の回転率を制御する技術によって象徴される。
■「権力者による監視」というより「データベース化による検索」を意味する「監視社会化」も、この種の権力に属する。フーコー的権力と違い、「人間」でなくとも快不快に反応する「動物」でさえあれば制御できるような「ドゥルーズ的権力」が重視される。
■「人間であること」に小さな期待しか抱かないこうした傾きは、米国社会の多人種構成に対処するところから導入された「役割&マニュアル」優位のサービス提供や人事管理にそもそも見出される。更に遡れば建国の歴史に由来するアソシエーショニズムに行き着く。
■米国の政教分離は、叙任権闘争に遡る欧州の如き「宗教的猛威の囲い込み」でなく、メイフラワー協約に遡る「異なる宗派同士が殺し合わない宗教的共和」を意味する。そこでは各宗教ごとに示される「善」と、共和のためのルール形成に示される「正」が分離する。
■分かりやすく言えば、米国社会が〈生活世界〉の護持に固執しないのは、もともとそうしたものに依存しない開拓文化を背景にした「明示的ルールによって共和するアソシエーショニズム」と「ルールによる共和を要求する強固な超越神帰依」の存在ゆえである。
【日本的選択は如何?】
■翻って日本的処方箋は如何。見出されるのはコンビニ&ファミレス的なものへの無防備さだ。こうした無防備さは、日米構造協議以降に限っても、牛肉&オレンジ自由化⇒大店法規制緩和⇒年次改革要望書制度⇒建築基準法改正⇒BSE全頭検査廃止、と如実である。
■こうした日本的無防備さには幾つか難点がある。第一に、日本にはアソシエーショニズム(ルール的共和)の伝統がない。ルール服従意思の明示による異質者との共存は、困難だ。それゆえに社会の流動性が上がって異質者が入り込むと、排外主義的になりやすい。
■第二に、日本には超越神への帰依が存在しない。米国の場合、〈生活世界〉空洞化がもたらす不安や不信は、超越神への帰依によって吸収されるのでアノミーになりにくい。こうした吸収装置のない日本では、不安でオタオタするヘタレが、国家主義に陥りやすい。
■第三に、米国が時間をかけて実現させたプラットフォームを前提にした最適選択だけを思考し、プラットフォーム自体の戦略的選択を思考できない「自称保守」の愚昧さが覆う結果、如上の社会的妥当性と無関係に、米国的処方箋に向けて高速度で誘導されている。
■第四に、欧州的処方箋に向けて舵を切り替えようにも、古くは維新以降の集権的再配分に依存した産業化、ならびに新しくは米国的プラットフォームへと依存した便益化によって、〈生活世界〉の実質をなす自立的相互扶助メカニズムが、既に全面的に壊滅している。
■第五に、〈生活世界〉が空洞化した日本では、「感情の働きが壊れた人間たち」「動物化した人間たち」が大量生産されつつある。「壊れた人間たち」が多数派になれば、もはや「壊れることの是非」を論じられない。小泉自民党の大勝は、その兆しかもしれない。
【おわりに】
■IT化は、こうした広く深い問題と密接に関係する。日本ではそのことが、アカデミズムの領域でさえ殆ど自覚されていない。もう手遅れかもしれないが、本書が、そうした絶望的な状況を好転させることに、わずかなりとも資するところがあればと願う次第である。
■マンションの一室を改造した狭苦しいスタジオに、低額のギャラにもかかわらずお越しくださった各先生方、ならびに、先述した二冊の本に続いて、今回もテープ起こしから編集作業まで含めて多大な労力の提供を惜しまれなかった春秋社の小林公二氏に、感謝申し上げたい。