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(回答先: なるほど、それで「膝枕」ですか。 投稿者 張良 日時 2005 年 12 月 13 日 23:21:19)
が「革命でもしなきゃやってられない」というお気持ちが本心かどうかはさておき
とにかく酷い世の中になったものです、そしてそれはさらに加速している。この先どうなるやら・・?
こうした世の中になると「平和をもう一度」と、回帰しようと思う人が出てくる。しかし大したことはできないから歯軋りするくらいが関の山。北斗の拳のケンシロウくらいの超人が今の世に実際にいたとしてもあの物語のようにうまくは行かず、MI6とかモサドとかの闇の機関の手によってあっという間に消されてしまう。まことに夢さえ抱けぬこの世の姿。
しかし、しかし、荒廃したこの世の姿は全てではなく真実でもない、ある一面に過ぎない。多くの人が「これが現実でそしてすべて」と錯覚しているだけの話。実は荒廃しているこの世とは別にも世界は沢山ある。そしてその広大さもこの荒廃した現実と錯覚してしまうこの世よりずっとずっと広くて大きい。そんな世界にあなたも行ける。
とかなんとか書くと「どこのカルトじゃ?」なんて思うでしょうけど、私はカルトとは無縁(身近には居るけど)、特定の宗教、団体には属していない。
広大な世界とは「心の世界」、その入り口を見つけるのはとても簡単
まずは先に紹介した2つの映画を観て下さい。
・君に読む物語
http://www.kimiyomu.jp/
・私の頭の中の消しゴム
http://www.keshigomu.jp/index2.html
「そんな運命の出会いなんて・・・あれは単なる物語さ・・・」なんて思う必要はないと思うな。自分の心が素直になるだけで今まで見えなかった「人の心」を感じるようになる。すると誰にも「出会い」は訪れる。目の前に現れないのではなく見えないというだけ。見えないものには出会えない。
冬のソナタに限らず、素晴らしいと称される物語には「気の利いた台詞」があるもの。
以前、デラシネさんが載せていた中島敦の「三月記」の中の私の好きな台詞は「人間というものは・・・・」という独白、映画マトリックスのスミスも「人間とは・・・」と語っている。冬ソナでは「この世で一番素敵な家は愛する人の心の中」なんてのがしぶい。
そしてユジンは呟く「相手の心の中にすーーと吸い込まれるような気持ち」、この台詞も凄い。ハンサムとかセクシーとかリッチだとか、そういう外見で好きになるのではなく、理屈以前に心が融合してしまう。好きとかいう話でもない。ミニョンも言う「本当に好きなら理由なんて無い」、あそこがとかここが好きなんてのとはレベル次元が違う。
こうした物語の作者は物語の中で誰かに「何かを語らせる」、そしてその語らせる言葉は作者の抱いている信念のようなもの。こういうものがどこにも含まれていない物語にはまったく興味すら覚えない、そしてこうした「作者の想い」を発見すると「そーなのね」と嬉しくなってしまう。
「自分の心の中に愛する人が棲んでいる」こんなふうに心というものは一体化という性質がある。世に蔓延る安物の恋愛は相手は常に自分心の外にしかいない。どんなに寄り添っていても自分の横、傍というだけ。一体化をしていない二つの心は所詮別個のもの。好みが変われば距離も離れる、理解も出来ないから喧嘩にもなる。サンヨクがユジンに抱く恋愛感情は身勝手で自分にとって都合の良いもので一体化とは本質的に別物、つまりは偽の恋愛感情。
しかし同一化していない別個の心でも長い時間傍に居ると情がわく。情がわいた段階は自分の心ととても近い距離にいる存在となりかけがえの無い相手であることは間違いが無い。仲の良い夫婦、友達、ペットなど、情で結ばれた関係も素晴らしい関係は築ける。
でも「一つに心が解け合う」などという一体化とはまったく別物。そしてもうひとつ言える事は「一体化した心」の二人は離れることは無いということ。さてこうした一つの心になってしまった二人というのは、
「別個の二つが出会い融合したのだろうか?」それとも
「元々一つのものが元の姿に帰るように引き寄せられ一つに融合したのだろうか?」
皆さんはどう思われますか?