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(回答先: 柔軟に対応して下さり感謝です 投稿者 日 日時 2005 年 12 月 03 日 01:46:09)
日さんへ。
福岡正信の自然農法なら、いくらか管理(支配)状態は軽減されているのでしょう。
しかしそれが“農法”という名において種を植えることにはいささか違和感を感じます。(福岡正信は農法と言う言葉には不本意であったのではないかと想像されますが)
つまり“農法”となると、そこになんらかの意志(思考)が必要になるわけで、具体的には、「種を撒いて育てたい」「生み出される果実を食べたい」「捨てられるであろう種を助けたい」「慈悲による行為だ」「自然に触れ合っていると感じたい」・・・等々。
ありのままの状態に、なにかの思考を不可(こじつけ)してしまうのが、人間(思考)のしている事であり、単なる人間のエゴだと思っております。
日さんが、どのような意図を持って種を撒かれているかは計り知れませんが、文章(他所も含め)からはそこになんらかの“期待”や“比較”があるようにも感じられます。
無期待に、無目的に、無比較にそれがなされているのなら、福岡正信の自然農法に近いのかなあと勝手に想像します。