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「老い」と向き合っている半兵衛さん
その「老い」も悪いばかりじゃないですよ。
「静かに西の地平線に沈んでゆく淡い朱色の夕日」
こんな夕日を先日、沈むまでの30分ほど、ずーーーーーっと眺めてました。
昨日通った並木道は歩道が銀杏の落ち葉でまっ黄色、そこを歩けばシャンソンの世界
私は「あと数年生きればよいかな」とさえ思っています、というよりもっと早まって欲しかったりもする。ただし、愛する人と同時に旅立ちたい。しかし・・・掌の生命線を眺めると「くっきり深く長い」誰と比べても見劣りしない。入院や手術もした事がない、伴侶共々・・となればまだまだ余生は長そうだ。嬉しいような哀しいような複雑な心境です。
長い余生を送るとなれば「人込み離れた山の中」ということでとりあえず山小屋を造ってみた。たまに下界に戻ってきて阿修羅を眺めたりする。いずれ山小屋にこもる生活に入れば阿修羅ともお別れです。
世直しなど微塵も考えてない。無理だから。そして人生の意味にとってさほど重要ではないと思うから。人はそれぞれ違った境遇を得、違った人生を歩む。その与えられる(実は自ら選択した?)境遇は今生を経験するための小道具に過ぎない。私が見つけたモノは「魂の震えるような感動」だ。何故魂がこれほどまでも震えるのか?それは捜し求めたいたものだからだ。そして宝物に私は出会えた。すでに完結してしまった。あとの余生は余韻に過ぎない。
こう私は確信するのだが、それが万人にも普遍的意味があるかと言えば、たぶん違うだろう。私自身が勝手に思い込んでいるのかもしれない。でもいいんです。少なくとも二人は同じ気持ちなのだから。
松山千春の歌で「風の歌を歌えるよ〜♪」という歌詞がある。 「お金沢山持ってます」、とか「肩書き凄いです」なんて人にはまったく興味が無い。風の歌が歌え、小鳥のさえずりが言葉に聞こえ、せせらぎも音楽と感じる・・・微笑が至高のものであったりする。自然そのものが常に己の魂と共振し己自身が自然の一部、自然そのものだと感じる。人込みを離れ山小屋で寝起きするとそれが当たり前になる。