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(回答先: 如往さんへ 横レスありがとうございます。 投稿者 ワヤクチャ 日時 2005 年 11 月 26 日 19:52:03)
ワヤクチャさん、こんにちは、レスをありがとうございます。
異論を挟むことが憚れるほどにあっしらさんが明快に回答されていますので、それへのコメントは差し控えたいと思いますが、1,2の疑問に私なりに答えておきたいと考えます。
そこで先ず、【その国の歴史的発展過程に合わせた社会主義的な改革の施策を実施しつつ、世界の社会主義的改革を目指す国々との連帯を模索していくといった永久革命論】は、【その国の歴史的発展過程に合わせた社会主義的な改革の施策を実施しつつ、世界の社会主義的改革を目指す人々(国々)との連帯を模索していくといった永久革命論】と、修正させていただきたいと思います。
極大雑把に謂えば、私は革命[Revolution]とは権力の移行を伴うシステム(制度)の変更であり、また変革[a change]とは本来的にシステムの変更を指すが、しばしば権力の移行を伴うものであると考えています。さらに、改良[improvement]を戦略と位置づけるのではなくて、変革[a change]実現のための戦術と位置づけることが肝要であるとの認識に至っています。このことに関しても、あっしらさんが非常に理に適った説明をされていますので、ワヤクチャさん宛のスレについて熟考していただければと思います。
近代経済社会を眺望しますと我々の大部分が有形無形に何らかの生産的な業務に携わる供給側(生産者)にあり、また同時に製品(商品)を購入しそれを費消している需要側(消費者)にも属しています。しかし、消費者が生産者を直接的にコントロールすることは可能でしょうか。市場価格の暴落が予測され生産調整が行われることがありますが、それは消費者の購買動向がフィードバックされたものではなくて、本質的には製品それ自体の訴求力や供給者間の市場での競争力と云った力関係が大きく作用しているものです。
自由(市場)経済社会の権化とも喧伝されるUS(米国)にあっても、アメリカ史を紐解けば供給が需要を喚起していくのがメイン・ストリームであったことが想像に難しくはありません。例えば大陸横断鉄道の時代に少し遅れて来たバンダービルト家は鉄道敷設事業の拡大化を図り、その後の運輸関連事業に進出することで経済的合理性の追求に邁進していったのであり、そこでは需要者側の観点などは全く末節におかれていたものでした。かくて国策に乗じて官製需要を創出しインフラを供給(整備)していったエスタブリッシュメントの潮流は今日までも連綿と続き、現在も尚US社会の政治・経済的駆動力の本流を構成していると推察します。そして、多くのアメリカン・ドリームはその傍流を成すものに過ぎず、何れはその殆んどが本流に吸収されていく運命にあるのではないでしょうか。
>>そして、それは一頭一頭が無記名な羊の群が一体一体が確かな個である狼の群へと転化していく道程でもあると思量します。
>ちょっとこの意味は分かりません。
人は独りでは生きてはゆけないと謂った諭しを引くまでもなく、人間は本質的に衆を頼みにせざるを得ない存在様態にあるのは免れ得ぬ事実と受けとめています。しかし、その中で自立せる個人による連帯を目指していくのは人間性の新たな境地を拓くことになるのではないでしょうか。
人生の長いプロセスの中では「死んで生きる」こともあり得るでしょう。けれども、畢竟、人間は生誕に因む「死」という宿命から発する「死ぬまで生きる」運命と共にあります。そして、「死ぬまで」に為すべきことの大要は存在理由(=遺伝子の承継)の完結に帰着していくことでしょう。確かに人間界において相対的(社会的・時代的)存在価値はあると想われます。しかしながら、絶対的な存在価値と云ったものは本当にあるのでしょうか。おそらくそれは無いのでしょう。では、我々人類の存在意義は何処かにあるのでしょうか。それを見つけ出すことは不可能に近いでしょうし、むしろ創り出してしまうことのほうが容易いのではと夢想しています。その夢想を支えていくのが個の自立への志向性であり、そして、自由で夢想せる人々の連帯こそが変革に堪え得る駆動力を形成すると信じています。
また、会いましょう。