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「メタ情報」について。
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2・1 「メタ情報」 (柄谷行人「ブタに生まれかわる話」『批評とポスト・モダン』(福武文庫:p.289〜 )
1. ノーバート・ウィーナーによると、戦争中に原爆が開発されたとき、アメリカ政府の諜報活動の重点は、原爆の製
造法を隠すことではなく、原爆が作られたという事実そのものを隠すことにあったという。
1.1 その事実がわかれば、ドイツでも日本でもすぐに原爆を作りえたからである。
1.2 この場合、「作り方」という情報よりも、「作れる」というメタ情報が決定的に重要である。
2. 同じことが詰碁や詰将棋についていえる。
2.1 どんなやさしい問題でも実戦ではなかなか解けない。
2.11 そのために、実戦では心理的かけひきが効果的になる。
2.12 「しまった!」、「やられた!」という顔を示せば、相手は本腰を入れて考えなおし、事実その通りになってしまう
ことがあるし、またそれを逆用するかけひきもある。
2.2 対戦中に観戦者の呟きが迷惑なのは、たとえ助言しないとしても、そのようなメタ情報を与えてしまうからだ。
3. 私がつねづね不思議に思うのは、スポーツなどでも、とうてい破られないと思われた世界記録の壁が、いったん
一人に破られると続々と破られてしまうことである。
3.1 ここでも同じ作用が働いていると思う。
3.11 それは、「成せば成る」といった類の信念や自己暗示とはべつのものだ。
3.2 そういう信念がぐらつきやすいのに対して、「破れる」「解ける」という情報が与える信念は確固たるものである。
(2002/01/18)
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原子爆弾というものが「理論的にありうる」ということは、当時の原子物理学者にとっても、普く知られた「一般情報」の部類であったであ ろう。
しかしながら、実際にそれを作るとなると、ウラン鉱石の大量採鉱からはじまって、それを精錬して金属ウランを取り出し、さらにその中に 1%以下しか含まれないウラン235をほとんど100%に近い濃度にま で濃縮するという人類未踏にして未知の作業工程をこなさねばならない。その理屈もまた「一般情報」として誰にもわかっていたことではあろうが、それはまた、それを実現させるとなると、その困難性の前で誰 しもが立ち竦んでしまうような「一般情報」でもあった。
要するに、そんなことの可能性をさぐってみようなどとはふつうは誰 もが考えもしないほどの難事業であったわけだ。
さらに要すれば、誰もが、そんなことは不可能だと思っていた。
しかし、実はその不可能は可能なのであった。原子爆弾は現実のものとして出現した。
何故か?
そこには、なにがなんでも原子爆弾を(ナチスに先立って)完成させ ねばならぬという強烈な意志と、それを構想し、実現させるにたる「才能」(タレント)の結集があった、ということなのだろう。アインシュタイン署名のルーズベルト宛て手紙が出されたのは1939年8月2日付けであった。
その一月後、1939年9月1日から、ヨーロッパでは大戦が始まる。
それ以前の、1933年ヒトラー政権の樹立から、再軍備宣言、ライ ンラント進駐、オーストリア併合、チェコ・ズデーテン地方の割譲、独ソ不可侵条約締結、というポーランド侵攻に先立つ数年間のナチス・ドイツの動きを、アメリカのとりわけユダヤ人たちは、固唾を呑む思いで 注視していたであろう。
そして、1939年9月1日から、1941年12月8日の太平洋戦 争開戦までの期間、西ユーラシア、北アフリカを圧倒的に制圧しつつあ るナチス・ドイツの進撃を、悪夢をみる思いでみつめていたことであろう。ルーズベルトは「平和」の公約に縛られて動けない。1941年12 月8日までは。
マンハッタン計画が始動したのは、1942年9月である。
アメリカはすでに目出度く戦時下にある。ということは「経済性」を 度外視していくらでも金(資金)を使えるだけ使うことが出来る、ということであり、また、その成否を度外視しても、必要なことはとにかくやってみることが許されるような体制が出来た、ということである。・理論的蓄積、
・有能なタレント、
・強烈な意志、
・「経済性」の桎梏からの戦時体制による開放。
「原爆は作ることができる」という「メタ情報」なしに、原爆を実現させるには、これだけの条件が最低限必要なのであった。アインシュタイン署名の上記の手紙においても、次のようにいわれて いる。
この新しい現象はまた、爆弾を作ることも可能にします。そして、新しいタイプの非常に強力な爆弾が作られるということは --- 確実というほどでないにしても --- 十分に考えられることでもあります。
「確実というほどでない」とわざわざことわっている。このことの意味は、「原爆は作ることができる」という「メタ情報」はまだない、と いうことであり、「できるかできないかはわからないが、とにかくやってみるだけの必要性はあるのだから、やってみてください」ということ である。
そのような要求に応えうるのは、「戦時体制」下にある大国のみであろう、と考えれば、原爆の出現は、ある意味、歴史的に偶然な一回性の できごとであった、という感慨がいだかれるも無理なしとせざるをえないものがあると思われる。かくして、原爆は現実のものとなり、
戦争中に原爆が開発されたとき、アメリカ政府の諜報活動の重点は、原爆の製造法を隠すことではなく、原爆が作られたという事実そのもの(という「メタ情報」)を隠すことにあった。
という「メタ情報」が生まれ、その秘匿の努力もむなしく、まず「ソ連」がそれを察知し、イギリス、フランス、中国、(インド、北朝鮮、 パキスタン、イラン・・・)と続き、そして、現在では、原料さえ入手 できれば(そして、おお! 原料=プルトニウムは世界にあふれている。そして、それを作り出したものは誰か?という問題はまた別の大きな議題になりうる。・・・ごく一部の、例えば高木仁三郎氏や広瀬隆氏と いった、人たちを除けば誰も真剣に議論しようとはしないけれども・・ ・)テロリストにさえつくることができるということが危惧されるまで にいたっている。*
「メタ情報」ということについての典型例をもうひとつあげてみよう。
数学史上の論争点に、微分・積分学の創始者はニュートンか、ライプ ニッツか、ということがある(そうな)。
概略、次のようなことらしい。(p.数 は新潮文庫版「心は孤独な数学者」 の頁)・ニュートンは1666年にすでに微積分法の「理論の端緒を発見」 (p.26)して おり、その3年後には「無限個の項をもつ方程式による解析について」という論文 を、ロンドンの学会誌に発表している。ただし、匿名で。
それが出版されたのは、42年後であり、しかも、どういうわけか、いずれも「著 者名は伏せられていた」。
・ライプニッツは「1684年に微積分学の基本定理を発表して、一 世を風靡す る。ニュートンは数学論文を発表していなかったから、大陸ではライプニッツが微積分の創始者となった。」(p.53)・「日記、書簡などを通した最近の研究によると、微積分はニュートンがウールズソープ村で発見した十年ほど後に、ライプニッツが独立に発見したそうである。た だし発表はライプニッツの方が早いうえ、彼の考案した便利な記号が後々まで使われ ることになったから、数学史上、二人は共に微積分学の発見者ということになっている。」(p.56)
しかしながら、熱血漢にしてラディカルな洞察者藤原正彦は、そんな ことでは納まらない。「発見者はやはりニュートンである」ときっぱりと断言する。そしてその根拠は「メタ情報」の有無ということである。
私に言わせれば、発見者はやはりニュートンである。ライプニッツは基本定理を証明
する二年前の一六七三年、ロンドンに二ケ月ほど滞在した折、王立協会書記からほんの
断片であろうと、ニュートンの成功について耳に入れているはずだからである。ニュー
トンが接線や曲率、面積の一般的求め方を見出したということは、前年暮れに数学の情
報センターとも言うべきコリンズに本人から手紙で伝えられたばかりでホットニュース
だった。(p.56)
ここで「ほんの断片」と言われていることのその内容は、ほんとうに 漠然としたこと、つまり自分以外にも微積分について考えている者がおり、どうやらそれに成功したらしい、といった程度のことなのであろうが、「メタ情報」としてはそれで十分なのである。
数学の難問を解く場合、誰かが解決に成功したことを耳に入れているかいないかでは、 大きな違いがある。離間に立ち向かう際に数学者が当面する恐怖は、「それが誤った命 題であったら」と「それがもし手に負えぬほど難し過ぎたら」の二つである。いずれの 場合でも、考えることは時間の浪費にしかならない。この恐怖に始終脅かされているから、幾度か挫折すると、攻略を諦め撤退してしまうのである。誰かが成功した、となれ ばこの恐怖はないに等しいから、解決に向けて徹底的に打ち進むことができる。
(p.56)
たとえいずれもが「独立に発見」したにせよ、「誰かが成功した」と いう「メタ情報」があるとないとでは、その探求の困難性において雲泥 の差がある。ライプニッツにはそれがあって、ニュートンにはなかった。
「現在では、学会誌事務局に論文が到着した日時により、先取権は判定されるから問題はまずおきない。」
ということのようだが、それよりもなによりもこの「メタ情報」の有 無という判定基準はきわめて本質的なものであると思う。*
この本のニュートンの章(「神の声を求めて」)の最後に、すこし位相の異なる形での「メタ情報」の例がもうひとつでているので、ついでにざっと見ておきたい。
微分積分学の先取権争い、ということであれば、わが関孝和もそれに 加わる資格があるかもしれない。しかしながら、と藤原正彦は言う、
『プリンキピア』のフルネームはたしか「自然哲学の数学的原理」であり、世界を宇宙(すくなくとも太陽系)にまで拡張してその運動の原理を数学によって記述しようとしたものであろう。
そのような試みは我々日本人には思いつくことさえできない。
何故か。
ニュートンには有って、我々が金輪際持つことができないであろうことがひとつ有る。それは、
である。「この強烈な先入観」を我々は少しちがった形での「メタ情報」とみることができるのではないだろうか。
ニュートンは、ここでは、キリスト教信仰による「メタ情報」のもと で、宇宙を数学的に記述するという業績を成し遂げた。
では、本当にキリスト教(厳密にはセム的一神教)的な先入観(「メタ情報」)なしには絶対に『プリンキピア』のような書物を書くことは できないのだろうか。この設問は「西洋近代文明」とは何かと問うため の第一にして根源的な設問でありうると思うが、「できる」と実証する 機会はすでに失われてしまっている。
(2006/03/01)
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【●アインシュタインの平和思想とルーズベルト大統領への手紙
http://homepage2.nifty.com/einstein/contents/relativity/contents/relativity145.html 】
より転載。
1939年8月2日、レオ・シラードの要請を受けて、アインシュタインは、ルーズベルト大統領宛の原爆の開発をうながす手紙に署名した。アインシュタインは、シラードが手紙を持ってきてから、2週間悩んだすえに、署名したのだった。
内容は以下の通りである。
アルバート・アインシュタイン
オールド・グローブ・ロード
ナッサウ・ポイント
ペコニック・ロング・アイランド
1939年8月2日
F・D・ルーズベルト
合衆国大統領
ホワイトハウス
ワシントンD・C
拝啓
原稿で私に伝達されたE・フェルミとL・シラードの最近のいくつかの研究は、ウラン元素が、近い将来、新しく、かつ重要なエネルギー源となるという期待を私に抱かせます。現在生じている状況は、ある面で十分注意深く見守られることが要求され、さらに必要とあらば、政府当局として、即時、行動に移すことを要求されているように思われます。したがって、私は、以下の事実ならびに勧告について、あなたの注意をうながすことが私の義務であると信じます。
この4ヶ月間におけるフランスのジョリオとアメリカのフェルミとシラードの研究によって、大量のウラニウム中に核連鎖反応を起こすことが可能になり、そして、それによって、莫大な力と、多量の新しいラジウム様の元素を生み出すことが可能になりつつあります。そしていまや、これが近い将来に実現されるのは、ほとんど確実なように思えます。
この新しい現象はまた、爆弾を作ることも可能にします。そして、新しいタイプの非常に強力な爆弾が作られるということは --- 確実というほどでないにしても --- 十分に考えられることでもあります。このタイプの単体爆弾がボートで運ばれ、港で爆発すれば、それは港全体を破壊してしまうばかりでなく、その周辺地域をも破壊してしまうでしょう。しかし、この爆弾は、飛行機での輸送には、重すぎることも明らかになるでしょう。
米国で採掘できるウラン鉱石は、非常に質が悪く、しかも採掘量も多くはありません。カナダと旧チェコスロバキアでは、良質のウラン鉱石が、いくらか採掘されます。一方、最も重要なウラン源は、ベルギー領コンゴです。
この状況を鑑みれば、大統領におかれましては、政府と(核分裂の)連鎖反応の研究をしているアメリカ人物理学者達との、持続的接触を密にすることが望ましいと、お考えになってもよろしいでしょう。これを達成することを可能にする一つの方法は、あなたが、ご自分の信頼できる人物、かつ、非公式の立場で奉仕することができる人物に、この仕事
を託すことかも知れません。その仕事は、以下のことを含みます。
a)政府の省庁に接近して、さらなる開発に関して周知すること、米国のために、ウランの確保を確実にする件について特別な注意をうながす内容の、政府の行動にむけた勧告を提案すること。
b)現在、研究は、大学の実験室の限られた予算で実施されていますが、必要なら、かくなる理由で、寄付を惜しまない私人との接触を通して、基金を用意することと、そしてまた、必要な設備が揃っている産業各社の実験室の協力を得ることで、実験作業を速めることです。
私は、ドイツが占領したチェコスロバキアの鉱山からのウランの販売を、ドイツが事実上停止したことの意味を理解しています。ドイツが、そのような早急な行動をとったことは、多分、以下のような理由で理解できます。すなわち、ドイツの次官の子息、フォン・ヴァイツゼッカーが、ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム研究所に配属され、そこではアメリカのウラン研究のいくつかが、追跡研究されているのからです。
敬具
アルバート・アインシュタイン
(転載終わり)
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「藤原正彦「心は孤独な数学者」「(新潮文庫;p.52-57)
葬式は国家的行事として王達の眠るウェストミンスター寺院で行なわれた。棺は二人
の公爵、三人の伯爵そして大法官により運ばれた。これを見物したヴォルテールは、
「善政を施した王のように葬られた」と表現した。
墓碑銘として詩人アレキサンダー・ポープによる二行詩が刻まれた。
「自然と自然の法則は夜の闇に横たわっていた
神は言い給うた、『ニュートンあれ』、すべては光の中に現れた」
晩年における汚点は、微積分発見をめぐるライプニッツとの不毛な論争だった。
ドイツのライプチヒでニュートンより四年遅れて、哲学教授の息子として生まれたラ
イプニッツは、二十歳で形而上学の数学化、すなわち現在の数理論理学を構想する処女
作を出版している。翌年二十一歳で法学博士を授与された彼は、法学教授の申し出を辞
退し、マインツ侯の法律顧問官となる。二十六歳の時から四年間、外交官としてパリに
滞在し、フランスの領土拡張願望の矛先をかわすため、ルイ十四世にエジプト遠征を進
言するなど、マインツ侯の策士として手腕を発揮する。
一方で、ホイヘンスなどの科学者と知り合い、あっという問に数学の第一線に躍り出
る。三十歳の時に、ハノーヴァーのブラウンシュヴァイク侯の宮廷顧問官となり、政治、 外交、ブラウンシュヴァイク家の系図作りなどに携わるかたわら、数学、物理学、哲学 で多くの論文を著す。また学会誌を作り、それをもとにベルヌイ兄弟やロピタルなどと ライプニッツ学派を形成する。
彼の溢れるばかりの才能とエネルギーは止まる所を知らず、ベルリンとペテルブルグ
で学士院設立に動いたかと思うと、銀山開発を手がけるついでに近代地質学の基礎を築
いたり、カトリックとプロテスタントの統一に頑張ったりする。
そんな中で一六八四年に、微積分学の基本定理を発表して一世を風靡する。ニュート
ンは数学論文を公表していなかったから、大陸ではライプニッツが微積分の創始者とな
った。
ニュートンは、一六七二年にコリンズヘ送った手紙や一六七六年にライプニッツに送
った暗号文などで、先取権は確定していると思い冷静だった。ところがニュートン親衛
隊の一人、前出のスイス人数学者ファシオがかみついた。ニュートンが最初の発見者、
と言うに止まらず、ライプニッツを剽窃者呼ばわりしたのである。
ライプニッツは当初、自分は第二発見者でよいと思っていたのだが、剽窃と聞いて腹
を立てた。ニュートンの『力学』を匿名批評した中で、暗にニュートンによる剽窃をほ
のめかしたのである。ニュートンの弟子キールがこれに対し、「ライプニッツは名称と
記法を変えただけ」と応酬した。ライプニッツがニュートンの暗号を解読したとか、彼
がロンドンに立ち寄った時、ニュートンによるコリンズ宛ての手紙を見て写し取った、
とかの理由だった。
ライプニッツは王立協会に苦情を持ち込んだ。王立協会はすぐさま特別委員会を作り
真相究明に乗り出した。翌年、ライプニッツの主張は却下された。当然だった。会長は
ニュートンで委員は彼の息のかかった者ばかりだったからである。怒り心頭に発したラ
イプニッツは、匿名論説の中で「ニュートンは『プリンキピア』出版の一六八七年にな
っても高次微分を知らなかった」とまで書いた。ベルヌイが、プリンキピアに見つけた
小さな誤りを、ライプニッツに教えあおり立てたのである。ニュートン派がこれに
反諭し、それに対しライプニッツ派が・・・・・・。
泥仕合だった。ニュートン派による反撃文の多くは、ニュートン自身の丁寧な検閲の
下にあったり、彼の発案だったりした。十数年も続いた論戦は、終いには国家威信をか
けた、手段を選ばぬ中傷合戦にまでなった。
ライプニッツはニュートン誹謗のビラをヨーロッパ中の数学者に配るし、ニュートン
は王立協会にロンドン駐在のすべての外国大公使を集め自分の先取権を力説した。王立
協会長とベルリン学士院長という科学界の両巨人、ニュートンとライプニッツまでが争
いにどっぷり漬かるという不様だった。
一七一四年に、ライプニッツの主君ブラウンシュヴァイク公はイギリスに渡り、ジョ
ージ一世としてハノーヴァー王朝を開いた。外交ばかりか、系図作りまでして主君を盛
り立ててきたライプニッツは、当然ロンドンで新王を補佐できると思った。ニュートン
を会長とする王立協会は、王室に対する主導権の思惑もあって、ライプニッツをことさ
ら攻撃した。ライプニッツが新王の参謀とでもなったら何をされるか分らない、と考え
たニュートン派は、ライプニッツ来英阻止のためありとあらゆる画策をしたのだろう。新王はライプニッツに、「ハノーヴァーで系図を完成せよ」と冷たい命を下したのだった。
「万能の天才」の名を欲しいままにしたライプニッツは、失意のうちに二年後に世を去 った。葬式はニュートンとは対照的に、宮廷関係者も官僚も誰一人参列しない淋しいも のだった。ニュートンはライプニッツ死去の翌年にも、ライプニッツ非難の書を刊行し た。恐ろしいばかりの執念と言えよう。
日記、書簡などを通した最近の研究によると、微積分はニュートンがウールズソープ
村で発見した十年ほど後に、ライプニッツが独立に発見したそうである。ただし発表は
ライプニッツの方が早いうえ、彼の考案した便利な記号が後々まで使われることになっ
たから、数学史上、二人は共に微積分学の発見者ということになっている。
私に言わせれば、発見者はやはりニュートンである。ライプニッツは基本定理を証明
する二年前の一六七三年、ロンドンに二ケ月ほど滞在した折、王立協会書記からほんの
断片であろうと、ニュートンの成功について耳に入れているはずだからである。ニュー
トンが接線や曲率、面積の一般的求め方を見出したということは、前年暮れに数学の情
報センターとも言うべきコリンズに本人から手紙で伝えられたばかりでホットニュース
だった。
数学の難問を解く場合、誰かが解決に成功したことを耳に入れているかいないかでは、 大きな違いがある。難問に立ち向かう際に数学者が当面する恐怖は、「それが誤った命 題であったら」と「それがもし手に負えぬほど難し過ぎたら」の二つである。いずれの 場合でも、考えることは時間の浪費にしかならない。この恐怖に始終脅かされているから、幾度か挫折すると、攻略を諦め撤退してしまうのである。誰かが成功した、となれ ばこの恐怖はないに等しいから、解決に向けて徹底的に打ち進むことができる。
最近、アンドリュー・ワイルズ数授が三百五十年ぶりにフェルマー予想を解決して騒
がれた。彼の偉大さは何と言っても、多くの数学者を潰してきたフェルマー予想のもつ、 この二つの恐怖にめげず八年間も戦い続けた勇気、にあると私は見ている。ニュートン の成功を耳にしてからというのでは、たとえ独力で達成したとしても、私なら「あ、そ うですか」ですますところである。
ただここで注意すべきは、ニュートンもライプニッツも、最後の一押しをした人間だ
ったということである。微積分成立は、ニュートンの力学やフェルマーの数論の如き、
個人プレーによるものではなく、十七世紀という時代精神の産物だったのである。
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「藤原正彦「心は孤独な数学者」「(新潮文庫;p.66-67)
庭を歩きながら、ふと私は、母親の暮らしていたあの教会の美しい尖塔は、ニュート
ンにとって怨念の尖塔だったろうと思った。
後年、トリニティからの追放の危険があったにもかかわらず聖職者になることを拒絶
したのも、教会には必ずある十字架や聖人の遺品などを偶像崇拝として斥けたのも、三
位一体論を聖書改竄と決めつけたのも、原点にはいつもこの尖塔があったのではないか。 私はリンゴを握りしめながらそう思った。
尖塔が象徴する現状を堕落と見たから、神を求めるニュートンの視線は、人類が堕落
する以前の古代へと向かった。聖書や、古代史、錬金術書を組織的に調べたのも、神の
真理が比喩や隠喩を用いてそれらの中に暗号的に表れている、と信じたからである。
『プリンキピア』をユークリッドの『原論』に模して書いたのも、自ら開発した微積分 を証明に用いず、冗漫を冒してまで古典幾何学に執着したのも、古代の再生を意識して いたのではないか。赤から紫まで連続した色の帯を、七色に分類したのも、七つの音階 との連想であり、ピタゴラスと同じく『天上の和声』としたかったからである。
ニュートンにとって宇宙もまた、尖塔を通さず直接に神の声を聞ける場であった。
「神が自ら造った宇宙だから、神の声がその仕組みの中に、美しい調和として在るに違
いない」。
この強烈な先入観があったから、宇宙が数学の言葉で書かれている、などという信念
をニュートンは持ったのだろう。そして、神の御業を知ることは神に栄光を加えること、 と信じ研究に励んだのである。キリスト教の勝利であった。ニュートンに近い内容の数学を和算家達は持っていたが、『プリンキピア』だけは、何百年かかってもとうてい 我々の発見し得ないものだった。
聖書では使徒の言葉を通して、史書や錬金術研究では古代や中世の賢人の知恵を通し
て、自然研究では宇宙の仕組みを通して、ニュートンは神の声を希求しつづけたのだっ
た。「最後の魔術師」ではなく、論理の一貫した人生を送ったのである。幼少のニュー
トンにとって、母の愛への渇きを癒すものは、神の声だけだった。長じても、家族や心
からの友人に恵まれなかった彼の孤独を癒したのは、神の声だけだったのだろう。
私はすべての始まりであった尖塔を探してみた。二キロほどしか離れていないが、土
地の起伏のため見えなかった。私は安堵の深呼吸をした。リンゴの木が、束の間の秋陽
に輝いていた。