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(回答先: Re: 気にかかること、二つ 投稿者 まとはずれのおせっかい 日時 2006 年 2 月 19 日 18:21:14)
物事を分析する場合、
与えられたさまざまな事実を組み合わせて、真理を探すという方法がある、
「帰納法」というやり方だと思う。
算数の証明問題なぞ、これに、「各種公式」、そして「解放のテクニック」を組み合わせると、いい点がもらえる(もらえなかった) 。
ただし世の中の「事件」なりの場合 事情が異なると思います。
新聞紙上の「事実」だといわれているものも、全部が、「事実」というわけでないし(すべてマスコミのフィルターなりアンプなりをとうしたものである)、毎度のごとく意図的に隠された「事実」も相当数ある。
これだけの事実とその分析、自分の知識、見識なり、の組み合わせだけで、「真実」に到達しても、かなり「みずほらしいそれ」になってしまう可能性があります。
そのマスコミ等により「事実」といわれているものが、ほんとに事実かどうか、「吟味」したり、過去の近似する「歴史」、自分の「経験」、豊かな「想像力」を行使して、「仮説」を立てたり、「補助線」を引いたりして、「真実に」アプローチするという仕方がある、そして、それを通じて、到達した「結論なり、真実」からその、仮説なり、「事実」に「逆光」をあててみると「事実等」の相関関係 あるいは欠如している部分が、より明白になり、その「結論なり、真実」なりがより「生き生きとした姿を現す」ことがあるのではないでしょうか。
物騒な話で、恐縮だけど、「あいつは賄賂をもらってる」という「仮説を立てるなり、言論活動」をしたとします、「主観的」にしかけないけど、その主張なりが、単なる「売名」、「スポーツ紙的絶叫」ではなく、言わざるを得ない、書かざるを得ないという「真摯なものをその言論の中に確認できる場合」、論理にそれなりの「整合性」なり、「蓋然性」がある場合、わたしは、その仮説なり、言論活動を評価します。
蛇足ですが、ガリレオ、ニュートン、アインシュタイン、湯川秀樹、研ぎ澄まされた「数学的知性」と「常識を蹴飛ばす、芸術家」の創造力と想像力があったのだと思います。
しかしそれによって、生じるかもしれない不利益は、自ら甘受すべきです。 (自由とその責任の原則、「相手の自由権」との競合、たとえばプライバシーの問題がからむときがある)
相手が、政府なり、我々が「主権者」として、給料払ってやって、仕事を「させてやってる(委託している)」機関なり、その「役職(一機関)」者にたいしては、、「言論の自由」「表現の自由」の範囲は、はるかに拡大されると思います。(このあたり、それなりの「法理論」があるはずです)
そして、「言論の自由の許容範囲」は、駅前で不特定多数者にマイクで怒鳴る、専門雑誌に寄稿する、相手に面と向かってののしる、独り言を言う、異なるレベルがあると思います。
阿修羅でどの種の言論あるいは、表現が許容されるかは、結局「主宰者の判断」如何でしょう。
責任ある、表現の自由、言論の自由の尊重こそ、我々が基盤とする自由社会の基礎であり、自由な社会を保障させるものだと思います。
ちなみに、ガリレオは、「宗教裁判にかけられた」のであって、「宗教団体の支援」を受けたのではありません。ガリレオを引用するのが好きな方、読んでないと思うけど誤解されているいるようなので一言、、