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Kは思うのだが、社会には「性格ヤクザ」と言うような性格の人が増加している気がする。
実は、性格ヤクザと正当な意見者の区別は非常に難しい部分もあるのだが、とりあえず「我が儘で自分勝手な理論でインネンを付けるような人」を「性格ヤクザ」とKは考えている。
特徴とすると
1「人のミスは認めず、ここぞとばかりに苦情を投げつける」
Kは前から主張しているが、人はミスを犯す動物である。ミスに対して「注意をし、以後同様の被害が起こらないように苦言を呈する」のは間違いではない。しかし、起きてしまったミスは「既に過去の事実である」どんなに文句を言っても、過去の事実は変わらない。それは決定事項であり、タイムマシンで過去にさかのぼって過去の改竄でもしない限りは取り戻せないのだから、必要以上に苦言を呈してもどうにもならず、どこかで折り合いを付けるしかない。だから、一定ラインを越えるような苦言は「性格ヤクザ」の部類なのだろうと思う。未来の被害を減らす以上の苦言は「鬱憤晴らし」であり「虐め行為」と何ら変わらない。力を背景に人に理不尽を求めるチンピラと何ら変わらない。
2「他人の義務は無限に追及する」
人はそれぞれ役割という物を持っているのだが、その役割によって「こうあるべき」と勝手に決めつけ、それを履行させようとするようである。例えば、コンビニでは「お客様を待たせる物ではない」と勝手に思い込み、自分の前に先客がいても、その時が店員が手薄い状況でも、自分が待たされたりしたら「全ては、店の職員配置もしくは職員育成」がなっていない。と「何時でも、どんな場合でも、待たせる事のないコンビニ」を求めるような考え方をしている。と言う事である。程度次第では「店を良くするアドバイザー」ともなるのかもしれないが、程度を越えれば単なるクレイマーである。
3「自分で手本も示しもせず、こう出来るはずと他人に厳しい。」
まあ、机上の空論で「こうすれば良くなる」と「自分の要望を主張だけする人」と考えると分かりやすい。「希望の提示」までは業務の向上に役立つ部分もあるが「出来るサービス」と「費用対効果」などによっては「自分本位の我が儘の提示」でしかない。
今は「お客様は神様」の時代であり「顧客あっての企業」というのは理解できる。しかし、限度はどこにでも存在する。一定線を越える要望は「我が儘」であり、切り捨てる事も考慮しなければならないだろう。
出来うる限り応じて「信用と信頼を高め、利用を増やす」事が「資本主義社会では勝利への道」というのは、確かに一つの考え方である。
しかし、その時は「できるから、要望に応えた」という前例は「前例を作った」という事実と「更にエスカレートした要望を生み出す」
それが、噂になれば、伝染病のように「性格ヤクザ」の増加にも繋がるだろう。
「そのような方には当方はご利用されなくて結構です」
最近、このようにハッキリと利用の拒否をする人や店は少なくなった気がする。
それでも公衆浴場などでは「入れ積みのある人はご利用をご遠慮下さい」くらいは貼ってあるのだろうか?
「暴力追放の店」というような貼り紙があるところはあるが・・・
「性格ヤクザ」は排除する社会を構築するように考えるべきではないかと思う。
多分は「個人情報保護法」などの様々なプライバシーに関する法律などは「倫理観のない人」と「必要以上にプライバシーに敏感な人」によって作られた場合が多いのだろうと思う。これは両極端の「性格ヤクザ」によって、つまらない法律が作られ「一般的生活者もしくは労働者は割を食う形で被害を受けているだけ」とも考えられる。
一般の常識の範囲内で、ある程度の倫理観(常識)を持っている人が住むだけの社会においては「単に息苦しくなるだけ」のような法律が作られ、それが出来ると「法の条文」に囚われる人が多くなる。
ホロコーストの研究者は逮捕する。などという法律が「本当に正しい法律」と言えるのだろうか?
法は人の社会を良くするための方便という部分もある。やたらと作れば良いという物ではないとKは思うが「性格ヤクザ」の増加によって「作らざるおえない」という場面になる。
小泉自民党が目指すアメリカ型社会は「訴訟社会」という面も持っている。「法に強い者が勝ち組になる」という社会なのである。
これは、ある意味では「性格ヤクザ」奨励社会である。方向性が逆なのだろうとKは思っている。