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今朝のラジオのNHKニュースアップでは現在話題のトレンドである「姉歯一級建築士の事件」が取り上げられた。その中では「民間主導になったから起こった事件」と分析がされていたが、Kは妙に感心してしまった。
「官から民」が良い、と言うイメージが先行しているが、JR西日本の事故、大阪タクシー戦争などを分析してみれば、秩序のない、利益重視では「安全性や福祉的公共性が失われていく」のである。
今回の「アパートなどの耐震性の改竄」などもこの流れの中で起こった事である。
元々は「国民の住居」は官僚主導でおこなわれていた。のが、それでは「建築承認までの期間が長い」等の理由で「民間主導」に変わったら、たちまちの内に「利益主義」によってこのような事件になってしまった。
官僚は責任の所在がハッキリしないので「民のほうが良い」という意見がある。
しかし、今回の問題点の大きい部分は「被害者を救済する責任者がいない」事である。建築士が逮捕されても、建築会社が倒産しても、住み家を失った人は「それだけで済む訳ではない」しかし「民間が行なった不正被害に対して税金の投入」するのにも国は消極的にならざるおえない。すでに「官僚主導ではなく民間主導」になっている分野での出来事なのである。民間の責任で起こった出来事の責任を国が負っていたのでは切りがなく、赤字財政は「永遠に解消しない」とすれば、被害者は泣きを見るだけになる。
不良品を販売する会社があったとして、被害届けが出れば「営業停止」措置は行なうとしても「その被害の弁償」までは国はしてくれはしない、詐欺師が居たとしても、その居住と活動についてまで国は責任を負わない。そう考えれば、今回の事件もあくまで「当事者同士の問題であり」国は「救済義務まではなく、力は貸すが金までは出さない」という対応にならざるおえないのだろう。
しかし、実はこれがおかしいのである。人間に必要なものは「衣、食、住」であり、国には国民に対して「最低限の文化的生活を保障する義務」がある。
憲法の理念からすれば「国には被害者の救済義務がある」のが当然である。
とすれば、住居に関する建築分野を「民間に開放」した事が間違いだったのであり、その責任は「政府にある」のである。
現在の流れは「あらゆる物を『民間に開放する』ことで責任回避をしたい」のが「政府」である。小さな政府とは「責任を持たない政府」なのである。
ここでは、キッチリと政府の責任を追及していくべきだろうと思う。
「民間開放しても、最終責任は政府にある」とする事で「政府も、いたずらに小さな政府にしても責任逃れはできない」と気づくのである。
小さな政府は「一つの方向」ではあるが「何でも民間主導にすれば良い訳ではない」
デジタル思考の二元論という方程式では「割り切れない分野」もあるのである。
無駄な分野はなくすべきではあるが、国という社会を維持するためには「国民の生活が
基礎となる」その中で「民間開放してはいけない分野もある」のである。