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携帯電話の社会学的機能分析〜コミュニケーション変容の社会的意味(第四回)
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=316
■静岡県の女子高生がタリウムを長期間使って母親を衰弱死させようとした事件が明るみに出ました。私のもとにも多数の取材依頼がありましたが、警察リークしか存在しないという情報不足を理由に、事件についての推測や評価は、いつものようにお断りしました。
■ただ、古くからの友人で、少年事件を中心に取材してきたジャーナリストの藤井誠二氏がパーソナリティを担当するTBSラジオ『アクセス(金曜日)』だけは、事件自体に触れず、最近の少年犯罪の傾向について話すだけでも良いというので、喜んで出演しました。
■最近の傾向を話すことで、冒頭の事件の解釈にどういう幅があり得るのかを知ることができます。でも私としては、特定の事件よりも、最近の少年犯罪の背後にあるコミュニケーション変容を問題にしたいのです。そこには携帯電話も重要なアイテムとして登場します。
【「感情が壊れた」人たち】
■冒頭の事件に限らず、最近の衝撃的な少年事件についてリスナーにコメントを求めると、「母親を憎んでいたんじゃないか」「寂しくて注目してもらいたかったんじゃないか」という具合に、動機を理解可能にしようとする推測が、専らになります。仕方ないことです。
■ところで、たとえ情報が可能な限り明らかになった場合でも、「動機が完全に理解可能な事件」から「動機が全く理解不能な事件」まで、幅があり得ます。事件についての完全情報が得られたとしても、むしろそれ故に動機が理解不能なケースがあるということです。
■動機が理解不能なケースとは、簡単に言えば、私たちが「通常」期待するような感情の働きが見出せないもののことです。こうしたケースの多くは、精神鑑定で「人格障害」という診断を受けます。精神障害とは違って、「病気ではないのに変な人」という意味です。
■二十年前までは「性格異常」とも呼ばれました。精神障害は病気なので、病気が治れば問題の犯罪をしなくなるし、そもそも病気でなければ犯罪をしなかったと推測されるので、刑法39条で刑の減免を受けます。人格障害は病気のようには治らないので減免されません。
■しかし診断は微妙です。鑑定する精神科医が違えば、同じ少年が精神障害と診断されたり人格障害と診断されたりします。診断次第で刑法39条の適用如何が決まって少年の運命が左右される。一時的な病気なのか、異常に育ち上がったのか、判定は実に難しいのです。
■こうした困難はこれまでも注目されてきましたが、今回注目してみたいのは、異常に育ち上がるとは、あるいは、感情が壊れた人間として育ちあがるとは、どういうことなのか、異常か否か、感情が壊れているか否かを、判断する物差しはどこに求められるのか、です。
【カブト虫殺しと人間殺しの原理的等価性】
■人間には本能がなく、衝動のみがあります。衝動は、本能と違って、エネルギー発露がプログラムされていても、発露形式まではプログラムされていません。発露形式は生得的でなく習得的なプログラムです。習得次第でエネルギーはどのようにも発露される訳です。
■感情も同じこと。喜怒哀楽の反応を示せること自体は生得的なプログラムですが、どんな対象に喜怒哀楽を示すのかは習得的プログラムです。社会環境で習得のあり方が変わります。だから時代や文化が違えば、社会で標準的だとされる感情の働き方も違ってきます。
■分かりやすい例をあげます。カブト虫に爆竹を結わえて爆発させる遊びは、残酷か否か。今時の若い人たちに尋ねれば、大方、残酷だと答えます。でも私たちが幼少時には、男子の間で普通の遊びでした。とはいえ、男子でも、平気で出来る子と出来ない子がいました。
■カブト虫を平気で殺せる子と殺せない子がいることは、「たかがカブト虫」なので大して問題になりませんでした。ところが昨今カブト虫が人間に置き換えられました。人間を平気に殺せる子と殺せない子が出てきたのです。むろん「たかが人間」とは参りません。
■でも私は社会学者なので「カブト虫と人間は違う」という社会的前提を括弧に入れます。すると、カブト虫を平気で殺せる子と殺せない子がいるのと、人間を平気で殺せる子がいるのと殺せない子がいるのとは、ほぼ同じメカニズムが生み出す差異であると分かります。
【感情プログラムの習得性】
■かつて酒鬼薔薇事件が起こった後、「人を殺してはいけない理由」を如何に子供に納得させるかという議論が沸騰しました。驚いた私は、「人を殺してはいけないというルールを持つ社会は実は一つもない」という当たり前の事実を、繰り返し説くハメになりました。
■どの社会にも「人を殺すな」の代わりに、「仲間を殺すな」と「仲間のために人を殺せ」というルールがあります。仲間のために人を殺さなければ、逆に仲間に殺される社会的役割さえあります。処刑人や軍人です。物を考える力のある子供ならば知っていることです。
■加えて重要なのは、私たちは人を殺してはいけない理由に納得するから人を殺さない訳ではないということです。大抵の人は殺せないから殺さない。なぜ殺せないかというと殺せないように育ったからです。そのような感情の持ち方をするように育ったからなのです。
■逆に言えば、育ち方次第で(カブト虫を平気で殺せるように)人を平気で殺せるような感情プログラムを習得します。人を殺せないことが人間の証なのではなく、育ち方次第で人を殺せるようにも殺せないようにもプログラムされ得る可塑性こそ、人間の証なのです。
■誤解してはいけません。問題は、人を殺せるか否かという点にあるのでは、ありません。そうではなく、そうしたことを左右する感情プログラムの習得が、過剰に流動的で複雑な社会の中で、人それぞれに分岐し、お互いに見通しがたくなっているということなのです。
【過剰流動性社会での歩留まり】
■かつては今よりも流動性が低い社会でした。正確に言うと「善意と自発性」を当てにできる低流動的な〈生活世界〉があったが故に、人々は「役割とマニュアル」が支配する高流動的な〈システム〉に耐えられました。そういう社会では人は大抵似た環境で育ちます。
■ところが近代過渡期(モダン)から近代成熟期(ポストモダン=後期近代)に移行すると、サービス&情報産業が優位になります。かつては〈生活世界〉での自立的相互扶助で調達されていた便益が、市場化&行政化──〈システム〉化──されるようになるのです。
■かつてなら、長じて〈システム〉の異なる部署に関わることになるとはいえ幼少期には似たり寄ったりの〈生活世界〉で育ち上がって来れたのに、〈生活世界〉の空洞化=〈システム〉の全域化が進むにつれてそうではなくなってきます。その果てが今日の社会です。
■そうなると、人を殺せる殺せないという差異に限らず、あらゆる局面で人々の感情の働き方にバラツキが出てきます。その結果、何事につけても「動機の理解不能性」に直面する機会が増えます。〈生活世界〉の空洞化した過剰流動的な社会では、仕方ないことです。
■仕方ないという意味はこういうことです。もし皆さんが、全域化した〈システム〉が〈生活世界〉を空洞化させる過剰流動的な社会を、肯定的に捉えるのであれば、動機が理解できない逸脱や犯罪の頻発を、ある種の「歩留まり」として冷静に受けとめて欲しいのです。
【同心円的関係の破壊が生む疑心暗鬼】
■そこに携帯電話がどう絡むのでしょうか。〈生活世界〉空洞化以前の人間関係は、孔子の「修身斉家治国平天下」の如く同心円的に定義されました。中心が本人で、最も近接した周囲に家族、その外側に友人や近隣、最も外周に匿名的な人たちがいるという具合です。
■こうした同心円はフロイト派以降の発達段階論にも刻印されています。子供は、まず母子関係の中で「エロス的な確かさ」を得た後、そこに介入する父親的なものとの関係で「社会的な確かさ」を確立し、やがて社会に乗り出せるようになる、という、周知の図式です。
■テレクラや伝言ダイヤルからインターネットを経て携帯電話(携帯ウェブ&メールツール)に至る流れの中で、この同心円が破壊されました。典型的には「匿名的な親密さ」です。個室や子供部屋から、家族や友人を飛び越して、知らない人々に悩みを相談する──。
■中高生が親を飛び越して見知らぬ大人に悩みを相談する。妻が夫を飛び越して見知らぬ男に悩みを相談する。若い男が恋人の女を飛び越して見知らぬ女に悩みを相談する。家族や恋人の人間関係で感情的安全が得られない人々にとって「匿名的な親密さ」は福音です。
■でも行き過ぎると疑心暗鬼が蔓延します。私が某雑誌に調査を依頼したら、二十代男女の過半に、パートナーの携帯電話の発着信記録やメールを盜み見た経験があるのです。疑心暗鬼ゆえに自らも「匿名的な親密さ」に支えを求めて相手の疑心暗鬼を増幅する悪循環。
■抽象的には過剰流動性がもたらすリスクをヘッジするために自らも過剰流動性に棹さすという悪循環。かかる悪循環の触媒装置(確率上昇装置)として携帯電話(携帯ウェブ&メールツール)が機能する結果、〈生活世界〉はますます信頼が置けないものになります。
【欧州化、米国化、どちらがいいか】
■〈生活世界〉の空洞化=〈システム〉の全域化は、社会成員相互の感情プログラムのバラツキを、必然的に増大させます。その結果、動機が理解不能な逸脱や犯罪を、必然的に増やします。こうした動きに対処するには、論理的に見て、二種類の処方箋があり得ます。
■一つは、〈生活世界〉の空洞化を押し留めるべく、〈システム〉の拡がりを一定枠内に抑える処方箋。これは〈システム〉の拡がりを〈システム〉によって抑止するという計画主義を含みます。近代の在り方を近代によって選択するので「再帰的近代」と呼ばれます。
■もう一つは、〈生活世界〉の空洞化=〈システム〉の全域化を基本的に肯定した上、それがもたらす感情プログラム(犯罪抑制動機)のバラツキに対処すべく、快不快に反応する動物性さえ有れば一定枠内に社会成員の行動を制御できるような仕組みを使う処方箋。
■前者は、規律訓練によってマトモな人間を生み出すという、フーコー的な主体化に対応します。後者は、管理テクノロジーによってマトモでない人間の行動をも一定枠内に収めるという、ドゥルーズ的な管理社会化に対応します。どちらを選ぶべきなのでしょうか。
■グローバル化に抗って過剰流動性に枠を嵌めようとする欧州的選択(スローライフ化)は、前者を意味します。グローバル化に棹さして過剰流動性を促進する米国的選択(マクドナルド化)は、後者を意味します。むろん日本の現状は米国的選択への盲目的追従です。
■どちらを選ぶかは最終的には価値観の選択です。価値観の選択に際しては、選択がどんな副次作用を伴うのかという情報が不可欠です。様々な副次作用があり得ますが、今回の話の文脈では、犯罪や逸脱がどのような形をとって現れるか、という差異が重要でしょう。
■どちらを選んでも社会にはある程度の逸脱や犯罪が生じます。違いは以下のような点に生じます。過剰流動性を制約する場合、逸脱や犯罪の多くは、動機の理解可能性を留めますが、過剰流動性を制約しない場合、逸脱や犯罪の多くは、動機の理解可能性を失います。
【戦後日米関係史という文脈】
■どちらが良いのかを先験的に論じることはできません。でも二つのことを心に留めておくべきです。一つは「日米問題。もう一つは「人間問題」。前者から説明すると、米国は、日本が過剰流動性を制約しない選択をする方向へと、意識的に誘導し続けてきました。
■今日の自称保守は、現今のリソース配置から見て対米追従が最も国益に資すると言います。ところが現今のリソース配置は、米国が時間をかけて意識的に用意してきたもの。それに無自覚だと、米国が設計したプラットフォームの上で、踊らされる結果になります。
■プラットフォームを前提にした最適選択の営みが「戦術」。プラットフォーム自体の最適選択の営みが「戦略」。戦後の保守本流とは、プラットフォームを前提にした最適選択を模索しつつも、将来プラットフォームの選び直しが課題になると見る戦略的な立場です。
■保守本流のルーツは、「憲法9条×日米安保」を利用して米国軍事力を当てにしつつ国力を経済復興に傾注する、という吉田茂の構想です。この構想は、経済復興を遂げた暁、並びに、冷戦体制が終わった暁に、プラットフォームの選び直しが課題になると見ました。
■その意味では、高度経済成長を遂げた直後の70年代の前半と、冷戦体制が終焉した直後の90年代前半に、プラットフォームの舵を切る機会が存在したと言えます。でも、残念ながら、この機会を利用するのに必要な「戦略」的な能力が、私たちにはありませんでした。
■ところが9・11テロ事件以降、米国のブッシュJr.政権が、孤立主義的国際主義──軍事力を背景とした一方的介入主義──とでも呼ぶべき拙劣かつ不人気な政策で墓穴を掘ったことで、三度目の正直と言うべきか、正当性を調達しつつ「舵を切る」機会が訪れました。
【壊れても良いか否かを壊れる前に吟味する】
■人間問題とは何か。人間とは、自己推進的な主体性を持つ存在を名指す近代的な概念です。自己推進的な主体性とは、自己決定=自己責任原則に基づいて、振舞い得ることです。そうした人間概念が信頼されるが故にこそ、近代社会の成り立ちが正当化されてきました。
■先に述べたように、米国が設えたプラットフォームの下での過剰流動性に処するに、流動性を制約して〈生活世界〉を護持する欧州的選択の代わりに、流動性を制約せずにドゥルーズ的管理を導入するなら、先の正当化図式が崩れ、社会は単なる事実性へと堕します。
■マトモな人間がいなくなったにも拘らず、壊れた人間たちの動物的な快不快をベースに社会的フォーマットを出力できるような社会システムが、現にあり得ます(正確にはそうした社会では「マトモな/壊れた」という差異を定義する物差しが無効になります)。
■そういう社会システムを、皆さんがどう考えるか、ということです。皆さんが「壊れて」しまった後では、もはや問いは意味を持ちません。まだ皆さんが人間であり続けているうちに「人間であり続けることは必要なのか」と問うていることになります。どうでしょう。
■もしイエスなら、インターネットや携帯電話(携帯ウェブ&メールツール)がもたらす過剰流動性に抗って、相対的に流動性の低い〈生活世界〉を護持するべきことになる。むろん利便性の高いネットや携帯を敵視するのは無理な話。必要なのは、対向的な工夫です。