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2005.11.24 Thursday
ケインズ、フロイト、ダーウィンの終焉・没落→大きな物語の終焉
Posted by Kaisetsu
http://blog.kaisetsu.org/?eid=249135
ケインズ経済学が、特に、日本において、非生産的公共事業を裏で支える理論と化し、「談合」の温床となり、膨大な国債の発行を助長し、今日の日本の国家破綻の根源であることが次第に認識されるようになった。
(参考)
2005.10.30 Sunday
ケインズを破棄し、「奴ら」と手を切ろう
Posted by Kaisetsu
http://blog.kaisetsu.org/?eid=225444
ダーウィンの「適者生存」「進化論」についても、ポスト・モダン以降の哲学的動向によって、「ID」など、鋭い批判が相次いでいる。
(参考)
2005.11.21 Monday
Re: 同じ「ID」派?→回答
http://blog.kaisetsu.org/?eid=246504
フロイトについても、同じである。人間心理という「罠」から抜け出る必要がある。実学においては、特に、刑法の分野に置いて、既に、内面心理を重視することの問題点が強く意識され、外的「行動」を緻密に法的に解釈することで、合理的な結論を導き出す手法が完成しつつある。
(参考)
(抜粋)
◆フロイトは、「無意識」という、エネルギー概念、リビドー概念を説いた。目に見えない・意識できないものによって、人間は規定されている、これがフロイトの考えだ。マルクスは、政治や文化といった「上部構造」は、「下部構造」生産的関係によって規定されている、と考えた。
ともに、潜在的なものが一つの装置として働いている、としている。自分で意識できない、主題化できない装置が、自分を規定している、という考えだ。フロイトの伝統の流れには、ラカン派がある。
20世紀には、19世紀的思考が崩れる。社会学は現代哲学と、思考の枠組を共有する。
アドラーは認知心理学で「フレーム」という概念を作った。後、「フレーム」の考えは、コミュニケーション全般に拡張された。「フレーム」は「意識」を支えるが、「意識」は「フレーム」を気づけない。「フレーム」を意識するためには、フレームを意識するフレームが必要だ。これは無限に続く。無限後退。確固たる「フレーム」は、ない。
1950年代、ウィトゲンシュタインは言語ゲーム論を説いた。人間の日常の営みは、全て言語ゲームだ。言語ゲームの中では、どういうルールに従っているのか、明らかにならない。(無限後退)
◆ラカンの思想をささえているのは、想像界、象徴界、現実界の3 つの区分や、対象a、大文字の他者、父の名、シェーマLなどのユニークな概念群である。これらによって患者の無意識の世界を個々の症例に即して精緻に解釈することが可能になった。と同時に、言語、主体、自己と他者、などの哲学的な問題に対しても独特な記号論的理解をしめした。20世紀後半の構造主義思潮を代表する人物のひとりとして、ラカンは精神分析界はもちろん、哲学思想界にも大きな影響をおよぼした。
◆しかし、自派が導入した「パス」とよばれる分析資格制度をめぐって、他学派との軋轢(あつれき)、自派内の紛争がたえず、結局1980年にパリ・フロイト派は解散。ラカンはその翌年になくなった。
◆アドラーのこの考えは、フロイトがエディプス・コンプレックス(→ コンプレックス)を重視するようになるにつれて、ますますフロイトとの対立を強め、出会いから10年後の1911年に両者は訣別した。その後、アドラーは自らの理論を「個人心理学」とよぶようになり、育児と教育によって個人を変革するという理念のもと、第1次世界大戦後の荒廃したウィーンにおける青少年問題にとりくみ、児童相談所を各地につくって、子供の指導や両親の指導など、今日の教育相談の母型となる実践をおこなった。ナチズムの台頭後、ユダヤ人迫害をのがれるためにアメリカに亡命した。
(抜粋のリンク)
宮台真司聴講ノート
http://www.din.or.jp/~kamayan/nikki/syakaigaku.htm