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「身体的・感情的虐待による人格障害」 by Gary Busselman
"Personality Disorders Resulting from Physical and Emotional Abuse," by Gary Busselman, Free Minds Journal.
私の信条の核心は、ものみの塔による恐怖症の刷り込みの結果だった。それは私の両親によって強化され、親戚のほとんどを含む、最寄りの会衆のメンバーたちによる集団的努力によっても強化された。
私の父の両親はエホバの証人だった。父は1935年にバプテスマを受けた。私が7歳の時、ものみの塔の組織が両親の生活の第一の中心になった。私は1974年に、ものみの塔の支配からただ単純に離れ去ろうとした。私がものみの塔を離れたことは自覚していたが、ものみの塔の教えが私から離れてはおらず、実際には私が自分の人生を送る上での信条の核心になっていることに自分では全く気がついていなかった。
エホバの証人になろうとしていた頃、私は不協和を経験した。不協和とは、不快感や時にはひどい苦痛をもたらす内的矛盾のことをいう。協和と不協和は、フェスティンガー、リーケン、シャクターによる『予言がはずれる時』(Festinger, Riecken, and Schachter,When Prophecy Fails, 1956)で述べられているように、私が信じていることと私の行動とが矛盾するときに起こる。それはこんな具合である――私の信条の核心は、ものみの塔こそ神が地上のすべての人々と連絡する唯一の手段であること、神のご親切を得る唯一の方法は週に5つのエホバの証人の集会に出て、印刷物を配り、友人、未信者の親戚、その他私が出会うすべての人々を組織に勧誘し「今の真理」のすべてを信じることである。ところが、どういうわけか、私はこれらすべてのことを行うことはできず、私はできそこない、神に対する裏切り者、時には生きる値打ちのない者だと感じていた。私が「もう自分の人生を生きる」ことにして、ものみの塔で教え込まれたことを否定しようとした時、私は不協和(苦痛)を経験した。内的矛盾による苦痛を感じる度に、私はその矛盾を解決しようとしたり苦痛を和らげたりしようとした。
神に拒絶されたと感じるとき、私は自分には価値がなく、他の誰からも拒絶されたと感じるのが普通だ。走ろうとすれば十分速くも、十分遠くへも走れない。それでいつも休まらない。不協和の原因が何なのかを知らずに不協和の原因を変えようとすると、決まって間違ったものを変えてしまう。自分の信条の核心そのものを問い直そうとはしないのである。私の信条の核心は、私の理性、私の基準、私の弁明、私の安全、そして私の基礎そのものだ。そのため私は自分の環境の方を変えようとする。仕事を変え、家を変え、町を変え、友人を変え、妻を変え、私の身の回りのものすべてを変える。外からは、私は過激で一貫性がなく、落ち着きがなくて短気で欲求不満に見える。私には人間関係の問題があり、常に3つの危機があるように思える。私が脱しかかっている危機、私がそのただ中にある危機、そして、今まさに自分で作り出そうとしている危機の3つである。自分の生活がある線までうまくいかなくなると、不協和は減る。なぜならそれは、ある意味で私が組織を去れば、今までに組織を去って行った他の人々と同じ運命をたどるだろうという、ものみの塔の主張が正しかったと証明することになるからだ。ものみの塔には噂のネットワークがあって、排斥されたり「エホバの組織」を立ち去ったりした元メンバーたちにどんな恐ろしいことが起こったか、いつもささやかれている。私自身、現役の間、元メンバーに良いことが起こった話をおよそ聞いたことがない。
私やお互いに対しての、メンバーの振る舞いを受け入れられなくなり、「今の真理」のすべてを受け入れることはできなくなり、組織を去ることの恐怖よりも、中に留まることのつらさの方が大きくなったとき、私はものみの塔を去らなければならなかった。私は、自分がものみの塔によって自分を破壊するように仕組まれていたと思っている。私が、人や場所や身の回りのものを変えようとして、それが何の役にも立たなかった時、私は次のどれかを選ぶしかなかった。
ものみの塔に戻って、今度はマインドコントロールがうまく働くかどうか試してみる。
人、場所、身の回りのものを変えようとし続けて、混乱のうちに留まる。
深く抑鬱に沈んで、たぶん自殺する。
アルコール、食物、仕事、セックス、処方箋がないと手に入らない薬で自分の感情をなだめる。
回復する。自分がされたことを受け入れ、それを克服し、人を助ける。
私は回復を選んだ。私は自分の身に起こったことを、自分ではもはや変えられないものとして受け入れることを選んだ。私の過去と向き合い、私の信条の核心のほとんどすべてを実際に変えることによって、人生で力を取り戻すことを選んだ。変われるようになるには、その前にまず自分自身について、いくつかのことを受け入れなければならない。私自身について受け入れるのが一番難しいことは、人格的境界がないこと、自尊心がないこと、私を拒絶し虐待する人にほとんど強迫的に惹かれることである。
境 界
人格的境界がないために、私は、適切でないことを他人に対して行ってきた。自分自身の境界がないので、他の人々の境界がわからず、尊重することができなかった。もし私が他人の境界を越えてしまって、その人が健全な人でそのことを私に言うと、私はそれを、個人的な拒絶として受け取ってしまった。…そして私は、拒絶に耐えられない!
エホバの証人だった父と母に拒絶され虐待されていたために、私は私を拒絶し、虐待する人々や組織に引き寄せられ、魅了されていたようだ。私は、自分で自分を袋小路に追い込んでいるようだった。人格的境界がないために、自ら侵害、拒絶、虐待に追い込まれてしまった。
私は自分で自分を危険なサイクルに追い込んでしまっていた。それはこういうことだ:ひとりになると、仲間を探す。仲間は感情の地雷原を歩くような目に遭う。私が自分の境界を定めることができないので、仲間は境界を踏み越えてしまう。私には一貫性がないので、昨日はOKだったことが今日はOKではない。やがて、私は怒りと恐怖が募ってきて、そのうちに爆発する。私の振る舞いのせいで人は私から離れて行き、そのために私は独りぼっちになってゆく。そうして、この同じサイクルを始めから繰り返す。
今では、健全で楽しめる人間関係を保つことができる。「今はちょっと間が悪いんだ。こっちから電話、かけなおしていいかい?」とか、「そういうことをされると愉快じゃない」とか、一番大事な一言、「NO」を言える。
私の自尊心のなさは力だった。火にロケット燃料を注ぐようなものだった。私の「安心毛布」(訳注:スヌーピーに登場するライナスがいつも離さない毛布)、私のアイデンティティ、私を全能にするもの、私を正当化するものだった! 私の身に起こり得る、文句なしに最悪のことは成功することだった。もし物事がうまく行き始めたらご用心!
私は最高の手札を台無しにした。人間関係であろうと、仕事であろうと、うまくいくものは何でも、滅びる運命だった。自分で、それが長続きしないようにしていたのだ。そして自分を憐れみながら「ほら、言った通りだ。どうせ何もうまくできない」「俺の手が触れると何でもゴミになる」と言うのだ。
拒絶…魅了
あなたが私を拒絶すると、私は蛾が火に引き寄せられるようにあなたに引き寄せられる。あなたが私にひどい扱いをすればするほど、私はあなたのそばにいて安心で快く感じる。私はカオスを愛する。カオスにあって私は幸福なのである。そのわけは、たぶん、こういうことだ:
私の母はエホバの証人の教え込みを受けてから、弟と私を叩くようになった。私たちは厳しい基準を満たすように強制されたが、私たちにはできなかった。母が私を叩けば叩くほど、私は母に認めてもらおうと一層努力した。
私は、弟を母の怒りから守ろうとした。弟が母を激昂させるようなことをすると、私は、母が弟を忘れて私に向かってくるように、弟よりもっと悪いことをした。
私は自分の分の体罰と、弟の分の体罰をすべて受けた。その結果、私は弟を恨んだ。自分が受けた弟の分の体罰のために弟を非難し、自分が受けた自分の分の体罰のために自分自身を非難した。いまでも幼い子供が行儀を悪くしたり騒いだりすると、私は恐怖でいっぱいになる。エホバの証人の子供にとっては、そういうことが起きれば必ず誰かが殴られるということだった。
エホバの証人の王国会館や会衆の誰かの家での聖書研究集会で、私はたくさんの児童虐待の被害者でもあり目撃者でもあった。あるグループの家庭集会で、その家のエホバの証人が自分の子供を皆の前で叩かずに無事に終わったことは一度もなかった。誰かが子供たちを弁護するのを見たこともなかった。それどころか、集会に集う人々は体罰を援助していた。そのエホバの証人は私の両親より信仰歴が長かったので、彼の行動はおそらく私の両親にとってモデルになっており、弟や私への体罰を正当化していたのだと思う。
エホバの証人である私の母は、私を殴り、わめき、怒りながら、私を愛していると言っていた。ちゃんとしつけなければ(殴らなければ)私たちが「悪く」なると言っていた。母は怒り狂って怒鳴り、殴りながら、聖書を引用し、手や腕の血管が切れると「あんたたちのせいでこうなったのよ」と叫んだ。私は殴られた後、母に「お母さんなんか大嫌いだ!」と言ったことを覚えている。母は、エホバの証人である父が帰宅すると私を父に任せ、私はもう一度殴られた。そのあと両親は、私たちに過剰に優しくした。私たちは罪悪感からの贈り物をたくさんもらった。私たちが幼い時に、両親がものみの塔の大会に出るために私たちを親戚に預ける時にも、罪悪感からの贈り物をもらった。1953年に両親がニューヨークの大会に出たとき、2週間の留守の間、新しいマンガ本を読んで過ごした。
弟と私は、時にはエホバの証人の集会で、「友人たち」の前で誉められ、それから家に帰るとものさしやハエたたきで殴られた。家は私にとって安全な場所ではなかった。王国会館も安全な場所ではなかった。
いま本当の癒しは、エホバの証人ではない友人(エホバの証人の中の元の友人たちは私を避けている)、妻、4人の息子のうちの2人から得ている。同じ経験を持つ人たちと定期的に交わることは、本当に役に立っている。つきあいの輪が広がって、ひとりぼっちになる暇がない。
(ゲイリーの最初の妻は、ものみの塔による輸血禁止のため1971年に亡くなった。その物語はFree Minds Journal, March/May 1995 の"Just Up the Hill A Ways"
に出ている。)
Gary Busselman
7201 E Madison St
Sioux Falls SD 57110