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2005年邦画ベスト10 宮台真司http://www.miyadai.com/index.php?itemid=314
(1)『紀子の食卓』園子温監督(試写)
戦後邦画ベスト5に入る。家出した娘たちがレンタル家族で働くのを知った父親が、彼女たちを指名して過去の団欒を再現するが、父親の天国こそ娘たちの地獄だった──。「人は記憶を加工せずには生きられず(寺山修司的)、それ故地獄に堕ちるが、それもまた良し」という園子温監督のディオニソス的(ギリシア悲劇的)モチーフが炸裂する。
(2)『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』青山真治監督(試写)
ノイジーな社会。でもカオスが足りない。ノイズ(〈社会〉の概念)はカオス(〈世界〉の概念)じゃない。だから人は生きながら死ぬしかない。だが「ある音楽」がカオスへの扉となり、人々は仮死を脱した。そう。これは監督が表現に託した輝かしき希望だ。或いは「そうした表現に向かうぞ!」との個人的宣言か。
(3)『ある朝、スウプは』高橋泉監督
彼はピュアさゆえに女に愛された。だがピュアさゆえに彼は人格崩壊した。「社会にマトモに応対しようとするピュアな若者ほど、愛すべき存在なのに、人格崩壊するしかない」という昨今の逆説を、たった1シーンに天才的に視覚化した驚くべき映画。2005年PFFグランプリ受賞も、むべなるかな。
(4)『奇妙なサーカス』園子温監督(試写)
夫娘の近親姦に嫉妬する母親…の小説を描く女作家が自らの下劣な過去を小説で粉飾する…のを知った成長後の娘が両親に激烈に復讐する…という女作家の妄想(か)。『紀子の食卓』と同様に、「最も親しき者が同一事象を別様に体験するが故の地獄(という天国)」というディオニソス的(ギリシア悲劇的)モチーフが実に鮮やかだ。
(5)『パッチギ』井筒和幸監督
60年代末の京都が舞台。鬱屈と爆発のリズムがメリハリよく、俳優たちの「体温」が揃っている。最近の邦画に珍しい「正しい演出」。因みに当時宮台は京都に住んでいた。当時はトラム(トロリーバス)が走り、2階以上の建物が少なくて、空を見ると電線が蜘蛛の巣のよう。それが街の空気感を与えていた。それが描かれないのは残念だ。
(6)『運命じゃない人』内田けんじ監督
世の摂理は人知を超える。天変地異のことじゃない。変哲なき社会的エピソードをこそ、あり得ないほど複雑な偶然の連鎖が支える。僕らはそれを見ないだけ──。そう、美術史に詳しい人には分かるように、これはロマン派的感受性だ。だから欧州の映画にはよくあるモチーフだ。それを娯楽作品にまとめ上げたが、余韻がやや足りない。
(7)『トニー滝谷』市川準監督
村上春樹による、自意識に満ち満ちたモノローグ的小説を、叙事ならぬ抒情──観察する目の主観性──をベースに演出し切る点で、CFディレクターとしての才能が存分に活かされている。映画は演出次第で、事物を描いていると見せることも、独り言を描いていると見せることもできる。監督の演出はテクニカルな見本だ。かなり余韻が残る。
(8)『妖怪大戦争』三池崇史監督
『宇宙戦争』『シスの復讐』を完全に凌いだ夏休み映画。「子供はいつか大人にならねばならぬ」という通過儀礼ものでありつつ、「ツマラナイ大人になるくらいなら子供のままがいい」という批判的モチーフを含意する、逆説的な映画。この逆説が、俳優らの身体性に仮託される。三池監督らしい見事に正しい演出だ。
(9)『NANAナナ』大谷健太郎監督
井筒監督的な演出の正しさは劣るが、[ヘタレのハチ/タフなナナ]という対立が途中から逆転して見えるという原作漫画(矢沢あい)の構造を視覚化することに、成功した。原作シリーズ前半しか映画化されていないが、シリーズ後半の映画化に際しては俳優たちの演技の精度や温度を揃えてほしい。そうすれば地方の空気感がもっと漂う。
(10)『PeepTV Show』土屋豊監督
万物のアウラが消えた。世界の全てはTV画面と等価だ。これに抗う主人公は、裸眼ではなく、極小の隠しカメラで覗く。するとTV画面には、見られる人を含めて誰も見ていない事物が映る。かくしてTV画面とアウラなき現実の間に裂目ができる(と見える)。果たして画面は9・11を超えるか。無理だ。なぜか。その理由を考えさせる哲学的映画。