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(回答先: まんず、日本経済新聞小説大賞応募は、大変だんべ (5) 投稿者 愚民党 日時 2005 年 11 月 19 日 01:13:07)
【社説】2005年11月20日(日曜日)付
(小泉外交)取り繕えぬ靖国の影 (蘇我入鹿邸)日本書紀を掘り起こせ
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(小泉外交)取り繕えぬ靖国の影
小泉首相にとって気の重い韓国訪問だったのではないか。韓国の盧武鉉大統領とは短い会談を持てたが、中国の胡錦涛主席とは会えずじまい。冷たい関係は深刻さを増している。
韓国・釜山で開かれていたアジア太平洋経済協力会議(APEC)の首脳会議が閉幕した。
年に1回、21の国と地域から首脳が集まり、貿易・投資の自由化や経済の活性化を話し合う。今回は、じわじわと広がる鳥インフルエンザの脅威への対策で合意した。
この集まりは、会議の合間に2国間の首脳会談を開いて意思疎通を図る、貴重な外交の場でもある。
盧武鉉大統領との会談は、先月、首相が靖国神社に就任以来5回目の参拝をしてから初の顔合わせだった。予想通り、厳しいやりとりがあった。
日本政府によれば、「韓国に対する挑戦」と靖国参拝に強い不快感を示した大統領に対し、首相は参拝に込める思いを改めて説明した。だが、大統領はにべもなかった。「いくら首相の考えを善意に解釈しようとしても、韓国民は絶対に受け入れることはできないだろう」
靖国問題でのやりとりに時間を取られ、年内までにと日本側が働きかけている大統領の訪日について、正式に招請することもできなかった。
中国との間では、4年にわたって首脳同士の相互訪問が途絶えている。首相はAPECなどの国際会議の際に会談できているから問題ないと主張してきたが、今回はそれさえ実現しなかった。外相会談もなかった。
せっかくのAPECなのに、これは深刻な事態というほかない。
首相は、胡主席ら首脳がそろった席で、日中関係に触れ「心配している国があるかもしれないが、全く心配はいらない。自分は日中関係を重視している」と発言した。その言葉にうなずいた首脳がいったい何人いただろうか。
締めくくりの記者会見で、首相は「一つの問題があるから(といって)、全体の関係を損なうようなことにはしない」と述べた。ならば、と中韓両国は言い返したいのではないか。首相も靖国参拝という一つのことに固執せず、全体を見たらいかがかと。
それを一方的に突き放して、果たして外交は成り立つのか疑問である。ましてこの「一つの問題」は、首相自らが作り出したものだ。自分が決断すれば取り除ける問題である。
日本と中韓の間がここまでこじれてしまっては、周辺の東南アジア諸国なども懸念を抱かざるを得ない。
来月には東南アジア諸国連合と日中韓3カ国との首脳会議がマレーシアで開かれる。共同体づくりも視野に入れた初の東アジアサミットもある。
世界の成長センターと言われるこの地域の将来図を描こうというときに、大きなマイナスになるのは間違いない。
(蘇我入鹿邸)日本書紀を掘り起こせ
西暦645年。歴史を学ぶ日本人の多くが最初に覚える年号だ。蘇我入鹿(そがのいるか)が、天皇の宮殿で中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)に殺された。中央集権国家の幕開け、大化の改新である。
日本書紀に克明に記された古代史最大の政変だが、物証がない。
日本書紀からは、入鹿が殺害された翌日、邸宅に逃げ帰った父親の蘇我蝦夷(えみし)が火を放って自害したと推測される。
その痕跡とみられる遺跡が、奈良県明日香村で見つかった。奈良文化財研究所が甘樫丘(あまかしのおか)という国営公園の域内で続けていた発掘調査で、入鹿邸の一部と思われる建物跡を5棟見つけたのだ。焼けた土や炭、当時の土器も出土した。
16日に開かれた見学会には、平日にもかかわらず4500人が詰めかけた。現地の赤い土を見ていると、1300年以上も前の出来事でありながら、そのイメージが大きく膨らんでくる。
日本書紀は、入鹿邸と蝦夷邸が並んで立ち、武器庫を備えた要塞(ようさい)のような構造だったと伝える。甘樫丘の尾根から望むと、800メートルほど離れた天皇の宮殿跡を見下ろすことになる。ここが本拠なら、天皇家の親類として力を付けた蘇我氏の権勢ぶりがうかがえる。
ただ、建物跡の規模が小さく、蘇我氏が滅びた後の7世紀後半の土器も出土していることなどから、入鹿邸跡と断定するには不確定な要素も残る。
もっと規模の大きい建物跡が出土すれば入鹿邸としての確実さは増す。近くに蝦夷邸の跡があるかもしれない。さらに調査を進めてもらいたい。
幸運なのは、発掘現場が私有地ではなく、国土交通省が管理する歴史公園の一角であることだ。詳しい調査を進めるうえで、支障はほとんどないだろう。
聖徳太子と、入鹿の祖父の蘇我馬子が編纂(へんさん)したという「天皇記」と「国記」の存在にも注目したい。日本書紀では、これら最古の史書は燃やされたとあるが、その国記は救い出されたとも記されている。木簡などが出土すれば、日本史を書き換える可能性もある。
日本書紀は天皇家から見た歴史観に貫かれている。そのため蘇我氏を実際以上に悪く描いているという指摘がある。蘇我氏側から見た史書の一端が明らかになれば、多面的な視点で当時の歴史に光を当てることができる。
「地上に万葉集、地下に日本書紀」。明日香村を、こう例える研究者がいる。法律で守られた村の風景には万葉の景色が残り、地下を掘り進めば遠く日本書紀の痕跡が姿を現す。発掘は、日本の起源を知るうえでは欠かせない。
高松塚古墳の壁画保存の失敗は、文化庁が説明責任と情報公開を果たさなかったことが大きな原因だった。
その轍(てつ)を踏まないためにも、発掘の成果を広く国民に伝えることが肝要だ。奈文研と奈良県、明日香村は連携し、考古学ファンだけでなく、小中学生にも分かりやすい説明を心がけてほしい。
http://www.asahi.com/paper/editorial.html