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光の国から「ぼくら」のために 萩原能久
http://www.asyura2.com/0510/idletalk15/msg/751.html
投稿者 染川瀝青 日時 2005 年 11 月 19 日 09:27:28: OrTq7AIvkoYi.
 

(回答先: ウルトラマンの正義と怪獣の「人権」 萩原能久(『ウルトラマン研究序説』の著者の一人) 投稿者 染川瀝青 日時 2005 年 11 月 19 日 09:23:44)

http://www.law.keio.ac.jp/~hagiwara/ultra2.html
 
  現実がかならずしも現実的であるわけではない。現実よりも現実的な「非現実」もある。そのいい例が先の湾岸戦争ではなかっただろうか。連日テレビの前にくぎづけになっていたわれわれ日本人が「現実」としてそこに見せられたものは、一部の例外的な映像を除き、アメリカ軍(「他国籍軍」などという欺瞞的呼称を私はあえて使わない)のピンポイント攻撃の精密さであり、壮大な打ち上げ花火さながらのバグダッド空襲劇であり、哀れさをかきたてる油まみれの海鳥たちであった。これがあの戦争の「現実」だったのだろうか。テレビに写し出された「現実」なるものの映像には徹底して人間の姿がなかった。不条理なかたちで大量殺戮される市民の姿も、普段なら犯罪行為として厳しく弾劾される殺人を誇らしげに遂行する兵士の姿も、ほとんど見せられることはなかったのである。それに比べれぱ、個人的には好きな映画ではないが、例えば「地獄の黙示録」や「プラトーン」といった架空の映像作品のほうが、まだはるかに戦争の本質をかいま見せてくれる。「虚構」を現実から遊離した夢物語であると馬鹿にしてはいけない。「虚構」は「現実」を批判的かつ反省的に見る絶好の機会をわれわれに与えてくれるのである。「虚構」のメリットはそれだけではない。映画で言うならはB級作品、C級作品は、低予算で短時問の製作日程を強いられる結果、場当たり的なストーリー展開はまさにキッチュそのものであるし、またそこには現実批判や自己反省などという思想のかけらもないのが普通である。だから、こうした作品がシリーズ化でもされようものなら、その物語全体はどうしようもなく矛盾に満ちたものになり、まじめに考えれば謎や疑問だらけのものと化してしまう。また時代や社会を批判、反省する意図なども毛頭ないものだから、その時代の価値観、潜在意識、潜在願望をストレートな形で図らずも表現してしまうことになる。社会を分析しようとする者にとってはまことにおいしい素材であると言えよう。

 テレビシリーズ「ウルトラマン」もそうした作品のひとつである。特にこのシリーズは、我が国が高度経済成長期に突入し、テレビのカラー化を迎えた最初期のものであり、またそれ以後も、数十回と再放送されているところから、三十代以下の世代の日本人誰もが共通に知っている作品であるだけに、そのおいしさもなおさらであろう。

 著者の一人に私も名を連ねている『ウルトラマン研究序説』(中経出版刊)は、このようにして生まれた。発売五ケ月で、四○万部に至らんとする好調な売れ行きを見せているそうである。人からよく、「こんなに売れるとは思っていなかったでしょ」と尋ねられるが、日頃から学生や同業者たちと、酒の肴に、本の中に書いたたぐいの話をよくするし、またその時の反応というか、ノリのよさも経験しているので、傲慢なようだが私としては「売れる」ことがわかっていた。言いたいことは本に書いたテーマ(「ウルトラマンの正義と怪獣の人権」)以外にも山ほどある。科学特捜隊(通称「科特隊」)に見られる素朴なまでの科学技術信仰の数々、またそれと対照的に武器を用いず、素手で戦うというウルトラマンの戦い方にこめられたところの、当時の日本人が潜在的に持っていた強さへの願望と力への意志の屈折した表現の原因は何であったか。アメリカのヒーロー物と比較して際立つところの「外部世界」(この場合はM七十八星雲という宇宙はるかかなたの「光の国」)からやってくるというヒーロー設定のあり方、またそれと対照的に、たまにウルトラマンのお情けで三流怪獣を「倒させてもらう」事でしか自らの存在意義を確認できず、基本的には怪獣や宇宙人に対してあまりにも無力で、役立たずの自衛隊と科特隊という構図がどこまで日米安保下における日本人の屈折した防衛意識と対応したものであるか。パリに置かれた科特隊本部から送られてくる「ガイジン」隊員たちが怪しげな日本語を話すのに対して、極東支部員たる日本の科特隊員たちが彼らと外国語を話さない(話せない)という点に見られる当時の日本人の「国際感覚」のあり方とは何か……。数え上げれば興味深いテーマにはきりがない。いやあ、「ウルトラマン」って本当におもしろいですね。

 まさに分析の宝庫ともいえる「ウルトラマン」であるが、『ウルトラマン研究序説』の中で私がとりあげたのは「怪獣」や「宇宙人」を殺すことの正当性というテーマである。こういう間題提起の仕方をすると、話がふまじめな、絵空事の世界のもののように受けとめられかねないが、ここで私が批判したかったのは、地球中心主義、あるいは人間中心主義と呼べる倫理観の問題性であった。詳しくは直接その拙稿を見ていただきたいが、それは地球、あるいは人類を守るためならぱ、他の惑星生物や怪獣に何をしてもいいという考え方である。この思考は、一見したところ問題がなさそうに見えるが、実はこの思考パターンが、自分の国を守るためには他国に対して何をしてもよいというナショナリズム的発想や、さらに、より日常的なレベルでは、自分さえよければ他人に何をしてもよいという自己中心主義につながっていくのである。自国民と他国民を差別して、平常時には許されない殺人を合法化するのがすべての戦争の本質であるが、「敵」を「人間」として認めない、「人間」として自分たちと同等のものと扱わないナショナリズムの偏狭さが戦争をもたらす原因であるとするならば、ウルトラマンにおける地球中心主義的倫理観はおおいに問題であると言わねばならない。しかもその地球中心主義を押し進めているのが、地球外の惑星から「ぼくらのために」やってきた宇宙人ウルトラマンなのである。自国の利益を、「世界の平和と秩序を維持するために」という大義名分で隠蔽し、「正義」をふりかざす傀儡政権の偽善を思わせるものがそこにある。

 ウルトラマン・シリーズの中では怪獣や宇宙人は、いかにも悪そうな、グロテスクな姿に描かれている。対するウルトラマンは、観音菩薩を思わせるスマートさとかっこよさを兼ね備えている。だからといって、ウルトラマンが正義で、怪獣が悪であると短絡してしまってはならない。悪は正義そっくりの顔をしていることを我々は知らねばならない。


 話をもとにもどして、非現実的「現実」についてであるが、最近、私が経験した最大の非現実的「現実」とは、現在までのところ、四○万部も売れた書物から得た印税の驚くべき少なさである。それは、ちょっとしやれたホテルのバーで一杯やると消えてしまうくらいに少額であった。0の数が二つくらい違うのである。おそらく印税の大半は、悪辣な科特隊とウルトラマン一味に収奪されたか、M七十八星雲のプラッホールに吸いこまれていってしまったのであろう。

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