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まんず、日本経済新聞小説大賞応募は、大変だんべ (2)
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投稿者 愚民党 日時 2005 年 11 月 19 日 00:46:45: ogcGl0q1DMbpk
 

(回答先: まんず、日本経済新聞小説大賞応募は、大変だんべ (1) 投稿者 愚民党 日時 2005 年 11 月 19 日 00:44:33)

ディアラ物語 

      2

 昭和28(1953)年3月末、朝鮮戦争のまっだなか、泥荒は東京の調布飛行場近く
の都営住宅で産まれた。木造の長屋だった。その年、ソ連邦のスターリンが死んだ。スタ
ーリン暴落が日本経済を襲ったという。泥荒という名前を付けたのは、父のノブだった。
泥荒は三番目の男の子だった。故郷の神社の名を子供につけたのである。ノブは占領軍憲
兵隊員が監視する機関銃を造る工場で働いていたという。ノブは旋盤工だった。ある日、
叫びながら家を飛び出し、調布の田園を走っていったと母のテルは言う。気が弱いノブは、
何者かの監視下の労働に、もはや耐えれなかったのだろう。そしてノブは精神病院に入院
した。ノブは漢字で宣と書く。

 昭和30(1955)年、朝鮮戦争は終結した。それを期に日本共産党は地下・非合法
活動から、再び街頭に登場し、分裂していた左右社会党も、日本社会党として統一されて
いった。さらに保守党のつらなりは、闇の巨大資金によって、自由民主党として合流して
いく。日本経済がこの戦争によって、復興し、昭和初期の経済を越えたことは、言うまで
もない。この時期の青春像のトーンは絶望であった。

 泥荒は2歳になっていた。いつも都営住宅、長屋の濡縁から、調布飛行場の飛び立つ飛行機
を見ていた。いまだ彼の記憶装置は作動していなかった。その瞳はただブッラクホールと
して、草原が広がる飛行場の風景を吸い込んでいた。長屋の木造都営住宅の濡縁
で、泥荒は50年代の空気を吸っている。その表情は魚のようでもあり、蛇のようでもあ
った。内部というものが欠落し、すっぽねけているように、ただ濡縁から外をながめてい
た。飛行機の爆音が泥荒のちいさな体を揺さぶっていた。

 その年、八月に泥荒はテルの姉であるミツにあずけられることになった。ノブの発病に
より生活が行き詰ったからである。テルは日雇い労働のニコヨンの仕事をしながら、ノブ
の退院を待つことにした。長男のユキオは調布小学校に入学したばかりなので、手元に置
くことにした。次男のノブヨシはすでにノブの実家に預けてきた。
「姉さん、どうかよろしくお願いします。あの人が良くなったら、必ずこの子を迎えに
行きますので……」
 そうテルは、栃木県北部からやってきたミツに頭を下げた。
「テルも大変だな、私には子供ができなかったので可愛がって育てるよ、それにしても、
東京はなつかしい、やはり田舎と違って活気があるね」
 ミツはそう言いながら麦茶を飲んだ。
「東京はわたしも姉さんも娘時代に暮らしたところだもんね」
 テルが笑顔で答えた。
 
 テルとミツの父は治之助、母はサヨと云った。サヨは広島県福山の大きな寺の娘であっ
た。治之助は広島県呉の造船会社で働く技術者の息子だった。ふたりは広島で見合い結婚
をした。治之助は石炭の鉱山を発見する技術者だった。治之助は、12人の子供をサヨに
産ませた。ミツは8番目、テルは9番目の娘であった。家族は治之助の赴任で、各地の鉱
山へ転々と移動した。テルが産まれたのは大正九(1920)年二月、しんしんと雪ふる
福島県西白河郡金山村の白川炭坑社宅だった。外からは酒を飲んで歌う坑夫たちの常盤炭
坑節が聞こえてきた。

 テルが産まれてすぐ、治之助は白川炭坑の東京本社に戻された。治之助の家族は日暮里
の貸家に住むことになった。テルは日暮里の高等小学校を卒業すると、姉のミツのように
洋裁店の針子として働いた。ミツもテルも20歳を過ぎたが、若い男は皆、戦争に駆り出
されて恋の縁もなかった。昭和20年3月10日の東京大空襲で江東区・墨田区・台東区
が炎上し、多くの犠牲者が出た。治之助は「お前たちは疎開した方がいい」と、娘たちを
栃木県太田原の佐久山の村田薬局に嫁いでいる長女のヤエのところに疎開させた。イネ、
ミツ、テルが佐久山に疎開していった。東京に残った治之助とサヨは5月24〜25日に
かけての東京大空襲の爆撃で死んだ。ヤエの夫も南太平洋戦線で戦死した。

 テルは敗戦を佐久山の上村薬局で迎えた。居候の身分で肩身が狭かった。姉のイネは、
宇都宮連隊の解散によって、陸軍から帰ってきた次郎と見合い結婚をした。次郎の村は佐
久山の隣村である福山だった。長女のヤエに子供がいなかったので、イネと次郎が店を引
き継いだ。ミツは隣村の豊田へ後家に入った。ミツの相手は十四歳上の廣次だった。薬売
りの商売で、ヤエは妹たちの結婚相手情報を仕込んでいた。

 豊田の廣次は先妻のハツエを昭和19(1939)年の八月に失った。ハツエが死んだ
のは48歳だった。廣次は45歳で31歳のミツと敗戦の年に再婚をした。廣次は九人の
子供をハツエに産ませたが、大正から昭和にかけて七人の子供を幼児のまま失った。輝
(一歳)、寿(二歳)、貢(五歳)マツミ(二歳)、掌(二歳)、昇(三歳)、生き残っ
たのは娘のサトとトモエだけだった。サトはトモエの姉だったが、知恵遅れの娘だった。
廣次がミツと再婚したとき、トモエは14歳の多感な時期だった。どうしてもミツを母
親として認めたくなかった。

 テルは上村薬局で、上村薬局製造販売の「神皇散」という漢方薬つくりや、家事の手伝
いをしていたが、ミツが農作業の手伝いに来ないか、と誘ってくれたので、今度は豊田の
廣次の家にお世話になることにした。昭和22(1947)年、テルは27歳になってい
た。「30歳を過ぎたら、わたしもミツ姉さんのように、後家さんに入るしかない」とテ
ルは覚悟をしていた。春と秋に忙しい農作業の手伝いの仕事も暇になると、テルは矢板の
町に勤めに出ることにした。仕事は木材加工会社「秋木」の製材工員だった。朝、テルは
廣次の家から豊田村の隣村である沢まで歩いていって、沢の停留場から東野バスに乗って、
矢板の町まで通った。沢には佐久山から矢板をつなぐ街道が通っていた。歩いてバスに乗
るたび、テルは早く、東京に戻りたいと願った。

 栃木県那須郡野崎村大字豊田564番地で、ノブは産まれた。大正14(1925)年
6月だった。父は寛、母はトキだった。ノブは次男だった。寛の家は豊田でも豪農の方だ
った。寛は矢板農学校を卒業した。寛はトキに5人の子供を産ませた。四人が息子で末っ
子が娘だった。寛は廣次の兄だった。次男の廣次には痩せた土地しか与えられなかった。
貧困の廣次は七人の幼子を失ったが、豪農の家を継いだ長男の寛は子供を死なせることは
なかった。寛は豊田でも傲慢な男だった。軍隊に行って近衛兵を務めたことが寛の自慢だ
った。軍隊では上官まで出世した。兵役が終了し、村に帰ってくると、寛は軍人癖が抜け
きれず、いつも地主として威張っていた。

 矢板町からやってきた共産主義者の農民オルグが、小作人を煽動し、寛の家の庭で騒動
を起こしたが、大田原警察からやってきた警官が鎮圧してくれた。昭和五(一九三〇)年
の豊田小作人騒動事件だった。首謀者は捕まり大田原警察の監獄にぶちこまれた。その後、
小作人を農民運動に組織する栃木県北部の共産主義者は根こそぎ、治安法違反で逮捕され
たので、寛はひとまず安心した。矢板の川崎村からは日本共産党の青年団体である共産主
義青年同盟中央委員会の幹部になった人間が出た。それは寛が出た矢板農学校の同級生の
高橋吉次郎だった。「東京に出て、あいつは赤になったんべよ」という噂が寛の耳にも入
っていた。豊田の地主は寄り合いを持ち、町の大田原、佐久山、野崎、矢板からの赤が豊
田に潜入しする街道を監視する対策を話し合った。見知らぬ男を見かけたら、すぐ沢の駐
在所に通報することにした。

 寛の家は、小作人から「あすこはヒト・ゴ(五)ロ(六)シ(四)番地だんべ」と陰口
を叩かれていた。マッカーサーによる農地解放令によって、寛は多くの農地を手放すこと
になった。喜んだのは、それまで寛にいじめられていた小作人だった。寛の家は没落した。
周りの百姓は「いい気味だ」と冷ややかに、寛の家の没落をながめていた。農業では小作
人がいなくなり没落したが、寛は親から譲られた山を持っていた。その私有地の山は豊田
一番だった。寛の家の裏から増録村へと続く広大な山の領地は寛のものだった。増録村と
成田村の境界の山も寛のものだった。成田村のデイアラ神社近くまで寛の山だった。

 ノブはおとなしい子供だった。小作人の子供は尋常小学校に入学する頃は、家の手伝い
をしたが、ノブは地主の子供だったので、家の仕事はしなかった。小作人からノブは「ノ
ウちゃん」と呼ばれ、可愛がられた。寛の子供が寛のように尊大に威張る人間にならない
ように、小作人たちは、寛の子供に表面的な愛情を注ぎ込んだ。ノブは関東軍の謀略で満
州事変が勃発した昭和六(一九三一)
年、豊田尋常小学校に入学したが勉強は得意ではなかった。ただ駆け足が得意だった。家
ではいつも寛が家長として威張っていたので、いつも寛の前ではビクビクしていた。母の
トキは優しかった。トキは小柄な女だったが、全面的な愛情を子供たちに注いだ。矢板農
学校を卒業していた寛は、自分たちの子供の成績があまり良くなったので、トキに「おま
えがバカだから、おまえの血を引いんだんべ」と悪態をついた。豊田ではほとんど同族結
婚だった。

 長男のマサシは弟のノブを可愛がった。ノブの下に弟のカズ、サブ、マモルが産まれた。
最後に妹のムツコが産まれた。寛とトキの子供は、トキのおだやかな性格の遺伝子を継承
し、いずれもおとなしく人が良い気質があった。しかしその底には、寛の冷たい冷酷な利
己主義の遺伝子が眠っていた。ノブが豊田尋常小学校に入学すると、すぐ番長を決めるケ
ンカが休み時間に校庭で始まった。豊田尋常小学校の伝統だった。おとなしくスローテン
ポだったノブは最初のケンカで敗れた。もともと番長になる野心がなかった。番長にのし
上がったのは小作人の子であるグンジだった。グンジの親父は豊田の小作人騒動の時、大
田原警察の留置所にぶちこまれたので、寛の家には恨みをもっていた。

 小学校の生活に慣れた尋常小学3年の6月、ノブは放課後、グンジに呼び出された。
「番長がノブちゃんに用があんだど」そう東豊田のトヨジがノブを校庭の前にある小山の
奉安殿に連れていった。昭和天皇の御真影と教育勅語が厳重に保管されている神社風の奉
安殿の前にグンジが腕を組んで立っていた。グンジはノブを奉安殿の裏に連れていった。
「おめえのうちは山の主さまと威張っているが、あの山はもともと村のものだったんだん
べ、おめえ知っていたげ?」
 グンジがノブに質問した。
「……」ノブはなんのことか分からなかった。
「おらが教えてやるべ、もともと村のものだった山を、おめえのじいさまが、山県有朋に
とりいって、自分のものにしてしまったんだんべよ、おめえのじいさまは悪人だんべ、村
じゃ、みんな知っていっぺ。おらのとおちゃんも、山に入って落ち葉や薪をとって
来るのにも、いちいち、おめえのいえに、ことわりに行かなくちゃなんねえ、ふざけんな
このやろ!」
 ノブはグンジのゲンコで頭を殴られた。そして地面にノブは倒され、ゲンジの尻がノブ
の腹に乗った。グンジはノブのシャッツのえりをつかみ言った。
「いいか!地主だからっと言って、ガッコウでは調子こくんでは、ねえど、わかったがよ、
 おらの父ちゃんは、おめげのおかげで留置所にぶちこまれたんだんべよ、おらだって、
 警察なんか、おっかなぐねえんだ、この、でれすけやろう!」
 ノブは泣きながら、分けもわからず「ワガッタ、ワダッタ、かんべんしてぐれや」とグ
 ンジに哀願した。グンジはノブの体から離れ、立ち上がった。ノブは泣きながら起き上
 がった。
「いいか、兄貴や親に告げ口したら、どうなるか、わがっていっぺな」
 そうグンジは捨てぜりふでノブを恫喝した。
 
 その日からノブはグンジの子分になった。世の中で生存するためには、めだたないよう
におとなしくしていること、「金持ち、ケンカせず」これがノブが現実から学んだことだ
った。村の大人社会では寛が小作人をいじめ村を監視していたが、尋常小学校では寛の子
供が小作人の子供たちにいじめられ、監視されていた。大人社会の現実と子供社会の現実
の力関係は逆転していた。ノブは早く尋常小学校を卒業したかった。

 ノブが尋常小学5年になったとき、グンジは村からいなくなった。満州開拓団としてグ
ンジの一家は満州に行ったとの噂だった。ノブはグンジがいなくなったので安心した。学
級では、次の番長を決めるケンカが始まった。「おら、にがてだんべ、ケンカはぁ……」
そう言って、ニコニコすることにした。親密な笑顔こそ、学校で生存する唯一の方法であ
ることをノブは学んでいた。

 ノブが豊田尋常小学校を卒業し、野崎尋常高等小学校へ入った昭和12(1937)年、
日中戦争が全面的に勃発した。寛は「これから戦争景気がやってくっぺ、お国のために、
一生懸命、働け」と、小作人たちに説教していた。ノブは満州に行ったグンジを「今頃、
どうしていんだんべ」と、縁側から遠くの田んぼを眺めながら思い出していた。

 昭和14(1939)年の三月末、ノブは野崎尋常高等小学校を卒業し、同じ5人の卒
業生と一緒に、東京大田区蒲田にある兵器工場へ、旋盤工見習いとして集団就職した。野
崎駅から他の親に混じって母のトキ、兄のマサシ、弟のカズ、サブ、マモル、妹のムツコ
が見送ってくれた。「ノブ、おめぇは頭、よくないが、みんなと同じようにやれば、大丈
夫だんべ……、からだに気をつけるんだど」トキが涙を流しながらノブを励ました。そし
て「これ、電車の中で食え」と新聞紙に包んだ油揚げの寿司をノブに渡した。「ノブ、正
月休みには帰ってこいよ」そう兄のマサシがノブの肩をたたいた。弟のカズ、サブ、マモ
ル、妹のムツコは、ただ羨望のまなざしでノブを見上げていた。ノブはそのとき、家族で
はじめて東京に就職する英雄でもあった。集団就職に付き添ってくれるメガネをかけた国
民服の教師が、見送りに来た家族に「それでは」と深いお辞儀をして、ノブたちを列車に
乗せた。

 野崎駅から上野行きの列車が出発した。次の駅である矢板駅からも、東京への集団就職
の少年たちが引率の教師に導かれ乗車してきた。矢板尋常高等小学校の生徒と、野崎尋常
高等小学校はよく箒川にかかる野崎橋の下の河原で石の投げ合いのケンカをした。ノブは
いつも石の補給係だった。
「もめえも東京へ行くんが、おらもだんべ」
 矢板尋常小学校の番長だった斉藤平八郎がノブを車両で見つけ、近寄って言った。
 ノブはニコニコしながら、
「ああ、そうげ、おらたちは蒲田の工場だけんど、おめえは?」そう質問した。
「おらがぁ、おらは品川の工場だんべよ、東京で会うこともあるがもしんねけなぁ、そう
 したら、おめぇ、おらの子分にしてやっぺ、あははは」斉藤平八郎は笑った。
 「斉藤、席を離れるんでない」向こうから、矢板尋常高等小学校の引率教師が怒鳴って
 注意した。
 「またな、これ、おらが就職する工場の住所だがらよ、休みの日に訪ねて来たらよがん
 べ、遊ぶべよ」と言って平八朗はノブに紙の切れ端を渡し席に戻っていった。
 ノブは故郷を離れることに不安もあったが、帝都東京で働き暮らすことに新鮮な嬉しさ
があった。なによりもいつも家長として威張りくさっている寛から自由になれることが嬉
しかった。寛はいつもノブを「このバカ野郎!」とののしっていたのである。

 鬼怒川鉄橋を越え、宇都宮駅を列車が出た頃、引率の教師がノブたちに説教した。
「おまえたちの注意しておくことがある。向こうに付いたら、上の人の教えをよく聞いて、
早く工場の仕事に慣れなさい。寮ではきちんと生活しなさい。だらしがないのは嫌われる。
早寝早起きを守りなさい。野崎尋常高等小学校の後輩が、これからお前たちが働く工場で
も就職できるようにしっかりやってくれよ。それから東京には陰謀を企む共産党という国
賊の赤が、どこにいるかわからないので、変な話にはだまされないこと、いいな」
「ハイ!」とノブたちはかしこまって応えた。
 
 列車はやがて利根川を越え、関東平野を南下し、帝都へと滑り込んでいった。
  

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