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(回答先: Re: ODAウォッチャーズは熟読し、推敲した上で、極力、的確に表現している。 投稿者 yu-min-yu 日時 2005 年 11 月 15 日 12:46:59)
yu-min-yuさん、こんにちは。
本来は其々に且つダイレクトにレスするべきなのでしょうが、そうすることに少なからず憚られる想いがあり、またyu-min-yuさんには考察者k氏にたいする何某の想い入れがあることを承知の上で、yu-min-yuさんをメディアとして見立ててのレスをどうかご容赦願います。
先ずは、「諦観=洞察」における諦観の本義は原義をそのままに、明らめること、明らかにすることです。それ故誰が「檻」を造り、誰が「檻」を所有・管理し、誰が「檻」に虜になっているのか、それはどんな「檻」なのかを、見極めようとするあっしらさんの洞察力を便(よすが)にしながらも、当事者意識に目覚める者達で問題解決を図っていこうとするものです。
私は「自由」に相当する英語は[Independence]ではないかと考えています。独立、すなわち“自らに由る”=「自立」です。さらに「自在(性)」は[Freedom]が相当するのではないでしょうか。そして、「自由」とはこの「自在(性)」=“自己が在る状態”を担保していこうとする当為、あるいは逆に「自在(性)」は「自由」を現出するための要件と捉えることが可能ではないかと考えています。
しかしながら、幸か不幸か歴史的に観て我々日本人は「自在(性)」を酷く阻害されるような熾烈な他者(他国)による支配を受けて来なかった稀有な国民であり、そのことが反面では「自由」にたいする希求を抱懐するような気概を喚起し得なかった要因となったと云えるでしょう。つまり、見えないが実際には「檻」があり歴史的圧力が肉迫して来たのにも拘わらず、恰もそれが無いかのように思い込んでしまう、そうした習性に長らく染まって来てしまったがために、「自在(性)」の尊さも、況してや「自由」に伴う峻厳さのようなものをなかなか了解できないのだと想います。
このままでは、我々日本人は世界で最も象徴的な「自己家畜化」を体現する存在として名を馳せることになりかねません。しかし、これをフロムは「自由からの逃走」として予期し、それは「自由を引き受けること」によってでしか贖うことができないと喝破したのです。どうしたら人々がそうした認識に到達するのか、もしくは日本人は覚醒するのか、今回の選挙の結果やその後の有り様を鑑みても、遺憾ながら甚だ悲観的にならざるを得ません。
あっしらさんはでき得る限り価値観を排して、この「檻」の存在様態を見極めるべきであると啓発されているように感じます。また、氏は一部の特権的存在を想定せざるを得ないものとして論を展開されていると思っています。それは、あっしらさんがこれまで阿修羅で披瀝されて来た考察や説明体系の構築過程を概観すれば、相当に煮詰まった帰結から導かれた措置であると受けとめることができるでしょう。
ミーム(文化遺伝子?)やクオリア(感覚創発子?)等の関係子的な存在を想定せざるを得ないのと同様な所作であろうと推察できますが、勿論ODAウォッチャーズさんが再三指摘されてもいるように、それ等の存在が具体的に特定されている訳ではありません。しかしそうであっても、あっしらさんは説明体系と断わられてもいますが、そうした思索の方法(思考実験)には十分存在価値があると考えています。確かにあっしらさんは表面的にはこの処で踏み止まっているかのように見えますが、例えば「【世界経済を認識する基礎】 “あっしら”的経済概念の説明」のシリーズを基盤にした「微温的政策」の提言等により、変革への土壌を耕地しつつあると思っています。
ところで、私が個人的にODAウォッチャーズさんに密かに期待しているのは、政治経済学[political economy]が経営学へと導かれる中で、変革のための組織構築論及び再構成論を打ち立てるべく尽力していただきたく願っていることです。我々国民と同様に、例えば現行の予算が国家経営のための一般管理費として妥当性を有するのか、その運用が適正に行われているかは、ODAウォッチャーズさんにとっても最大の関心事である筈です。ODAウォッチャーズさんには是非とも日本国の経営分析を進めていただきたく望んでいます。
それから、原典にあたることは研究者には必須だと認識していますが、ここ阿修羅での論議にそれを要求するのは酷であろうと感じますし、寧ろこの場ではODAウォッチャーズさんには労を惜しまずに解説していただければと希望しています。ご存知の通り、日本の大学では文系の院生(博士課程)は語学の才がなければやっていけません。それも教授・助教授の下請け・孫請けの作業のためですし、しかも殆んど無償と云ってもよいでしょう。そんなことを聞き及んだ学生時代が想起され、本当に自分のために原書にあたる日が訪れるのは何時のことかと思い悩んだことが重なり、少し複雑な気持にさせられます。
私は自己の心理的体験を普遍化できるような専門的技法(Method&Art)を積んではいませんが、デラシネ氏には「個」の癒しに専念され、商業ベースではない人間性に富んだ事業として取り組んでいっていただければと願っています。『(私は一部のワークショップの体験者ですが、現状は故あって等閑視しています。)』と記しましたのは、昨今のH木K子氏の占星術やE原H之氏によるスピリチュアル・カウンセリングと称するエンターテイメントにたいする嫌悪の感情が大きく関係しています。H木K子氏は本年のプロ野球の優勝球団を占って見事に外したのにも拘わらず、反省の弁すらなく相変わらず御託を並べていますし、E原H之氏はもっともらしいことを怪しげな口調で弄しては人々を篭絡し続けています。
はてさて、全包括主義で再構成しようとする試みはたった今緒についたばかりであると思います。おそらくODAウォッチャーズさんはそれが科学の分野では統一理論への道程であると認識されていることでしょう。社会学的にはこれまでの文脈依拠性から離れての再構成ですから、その過程では説明体系のための新たな繋辞を措定することが必要になって来ます。「生態史観」か、「分子生物学的視座」か、何をFunction&Parameterとして仮説・検証を行っていくべきか問題は山積していますが、そうした試行を繰り返すところから始めなければならぬと思量しています。
また、会いましょう。