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Kは思うのだが、人間は少なからず利己的である。もちろんKだって例外ではない。人間は食わなければ生きていけないので「自分が好きなものを好きな時に腹いっぱい食える環境」を求めようとすることは仕方がない事だろうとも思う。食欲は一例であり、他の欲求だって同様である。
人間は自分が住みやすい世の中に住むために「一部の優秀な人に依存したい」と言う思いと「自分が主体的になってそれを達成しなければならない」と言う思いを併せ持っている。問題は、この相反する思いと、どのように社会と関わっていくかである。
ある人は「政治化を目指し」ある人は「評論家となる」
人には得て不得手があり。誰もがガキ大将になりたいと思うわけではない。社長になる事を目標にする人は比率的には多いだろうが、代表とかTOPになるのを嫌がる人もいるだろうと思う。人間は「責任を負う」と言うのを大抵は嫌がる。基本的には「面倒は嫌」なのである。
人間は「一番になりたい」と思う反面「あまり、目立ちたくない」とも考える。
人間は「自由と権利を求めるが、義務と責任からは逃げたがる」
Kは政府(立法・行政)というのは庶民(国民で一番多い比率を占める階層の人)がやるべきだろうと思う。社会主義には社会主義なりの良さがあり、資本主義には資本主義なりの良さがある。と同時にどちらにも問題点もある。
国民生活と言うのは「総生産力」が高まれば良い方向に向かう。しかし、総生産力を向上させるために余暇を失えばその分は不幸になる。要はバランスなのだろうと思うが、資源という環境問題もあり、一次方程式では解けない部分もあるのだろうと思う。
過去には様々な社会が生まれている。君主専制、独裁制、社会主義・・・
現在の民主制は多分、今までの中では一番まともな制度ではあるが、未だに不十分なところはある。特に、今日のように貧富の差が広がるような階級社会になってくると問題点が多いことを思い知らされる。
多分だが、今の制度はパラドックスに陥ってしまっている。庶民から見ると「政治はおかしい」と思い、志のある人は「政治家になることもある」しかし、政治家になった途端に「庶民は政治家になってしまい。庶民ではなくなってしまう」のである。これでは「いつまで経っても『庶民の政治』にはならないのである」
過去には「労働者・庶民階級が革命を起こし、社会主義・共産主義を打ち立てた事もある」しかし、それは「労働者・庶民階級が望む社会制度にはならなかった」なぜかと言うと「革命の成功と同時に、革命の主体になった一部の人たちが、労働者・庶民階級ではなくなってしまったから」だろうとKは思っている。
政治家になった後にも「庶民の目で見る」政治家の少しはいるかもしれないが、極々少数であろうと思う。野党に比率が高いと言う気もするが、それは「実際の政治には携わっていないから」という面もあるだろうと思う。
考え方とすると「政治家は、庶民のままで、庶民の生活をしながらでなければ『良い政治』はできない」のだろうと思う。選挙で地域や地方の代表者と選出されるまでは良いとして、実際に国会で働くのは「政治家の秘書等の影武者」であり、政治家の指示通りに動き「自分では何も判断しない人」と言うのが一つの考え方であり。
もう一つ考えれば「裁判員制度のように、国会審議の時、半数くらいの人を庶民から選んで、審議に加わらせる」という方法論である。
恐ろしく、実現性の低い提言ではあると思うが、そのような方向を模索しなければ「庶民の目で物を見ようとしない。職業的政治家に庶民の苦しむ社会にされてしまう。」
あっしらさんが休暇に入ったとの事は「Kの責任もあるかもしれない」と思うと同時に少し休んだほうが良いだろうとも思っている。
リフレッシュをして、少し肩の力を抜いて、いつか、復活する日があるだろうと願っている。お疲れ様でした。