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(回答先: Re: いつも通り内容が難解ですが・・・・・・早速の御返事に感謝! 投稿者 yu-min-yu 日時 2005 年 11 月 14 日 06:52:10)
yu-min-yuさん、はじめまして、こんにちは。
横レスにて失礼します。またデラシネ氏には割り込みをお詫びいたします。
先ず、他のスレッドでデラシネ氏が近代知の特徴である[構造主義→脱構築→社会構成主義]の基底を成す文脈依存性あるいは文脈依拠性の問題を指摘されている点と、さらに個別的内面性の問題に関わるものとしてプロセス指向心理学等の療法が解決(癒し)のためのAlternativesの一つとして有効ではないかとの観測には肯けるものがあります。(私は一部のワークショップの体験者ですが、現状は故あって等閑視しています。)
60年代後半の米国や70年代後半の日本において、ベトナム反戦運動や学生運動の終息期と相前後するように再び個の問題を対象にするものとして心理学を深化させていく作業が開始されました。そうした中で同世代では精神科医の北山修(フォークルーセイダーズ)が代表的な存在と謂ってもよいかも知れません。つまり、60年代に自らが発した問題提起と解決行動の総括や新たに顕現してきた課題にたいし心理学的手法によって対応しようと模索したのです。けれども、日本で心理療法が認知されるのには文部省管轄の団体として「(財)日本臨床心理士資格認定協会」(1990)が発足するのを待たなければなりませんでした。
しかし一方で、少し前に心理学の社会学への応用を試行したのがエーリヒ・フロムやエルンスト・マルクーゼではないでしょうか。私は思想的にはフロムに惹かれるものが多いのですが、残念ながら日本では社会主義の思潮が興隆した当初からそれとの結合状態が巧くなく思想を支えるような心理的基盤を構成し得なかったようです。それはよく謂われますように日本人の心性に「自由」にたいする意識や拘りが十分に醸成されて来なかった歴史的な経緯に起因していると想われます。
ところで、「経済」について日本では『「経済」=「経世済民」=世(国)を興隆させして民を済う』と云った教科書的な理解が流布して来ました。yu-min-yuさんも既知ではあると想われますが、Economyはギリシャ語のοικοσ(オイコス=家)から「家計」、すなわち「家を管理する」と云う意味で、あっしらさんが強調されているように『世(国)を興隆させて民を済う』つまり『「国民を幸せにする」や「支配層の強化安定目的の為の効力」』と云うような価値観を本来は含意してはいないものです。しかしながら、自身の世界認識に経済論理を援用し自らの政治活動の指針を打ち立てるかは、当人が意識する社会的立場に大いに関係するように、また近代では「経済」が政治経済学[political economy]と同義とも捉えられるように相当に政治性が加味されたものになって来ているのは確かでしょう。
あっしらさんは「経済」や「法律」を「政治」の分野にまで身を投入して考察しようとは今のところ志向していないようであります。それは下に掲げるレスによっても理解できることですが、断じてそれを理由にあっしらさんを指弾する意図はなく、但しあっしらさんの特有の弁別であろうと受けとめています。何故そうなのかは今までに突っ込んで尋ねたことはありませんし、それは明確に反対の立場にあるのでないのならば互いの価値観を俎上にのせるのは、却って掲示板の限界を曝すことになるだけで対話の興趣に沿うことにはならぬと想われるからです。
考察者k氏、ODAウォッチャーズ氏、南青山氏、あっしら氏の間で交わされる真剣な対論に水を差すことになりかねませんが、このところの遣り取りに関して少し雑感を申し上げれば、特に理系とは謂え同じく廣松理論に勤しまれた南青山氏とあっしら氏との間に世界認識の上でどれ程の齟齬があるのか私は未だに把捉できかねています。けれども、ODAウォッチャーズ氏には政治経済学[political economy]の志向性が見受けられ、それ故にあっしら氏の政治性の希薄さにたいする不満が根底にはあるように想われます。
それでも、デラシネ氏がその感性で捉えられているように、所謂「要素還元主義を超え、多元主義をも超えて、全包括主義へ すなわち対立及び殲滅が主流ではなく、本来的には可能性を拡大すべく相補的であること。」への思想的潮流の端緒を、おそらくODAウォッチャーズ氏も南青山氏もあっしら氏もそれぞれの位置から十分意識されていると推察しています。(考察者k氏については再度接点を設ける必要があり、それ以降のこととして保留しておきたいと思います。)
今回、恰もyu-min-yuさんを当て馬にするようなかたちのレスになり、申し訳なく思っています。ただし、『阿修羅大王様の作られた日本の「檻」はうむを言わさず、日本国民をスッポリ覆っています。これは多分、愛情あっての檻なんですね?』に、少なからず私の心の琴線を爪弾くものがあったことは確かです。私は「檻」というよりはあっしらさんの認識を「諦観=洞察」と受けとめて、冷静に賢明に世界(社会及び日本)を再構成していく方行を探求していくべきだと考えています。
また、会いましょう。
【憲法規定に違背して内閣(行政機構)優位の統治構造が維持されてきた日本http://www.asyura2.com/0505/senkyo10/msg/738.html
投稿者 あっしら 日時 2005 年 7 月 30 日】