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(回答先: 価値観と論理の峻別を願う:経済論理そのものは「誰のため」といったものではありません。 [yu-min-yuさんへ] 投稿者 あっしら 日時 2005 年 11 月 14 日 02:50:35)
人間の認識から離れた存在を仮定することの誤りを、指摘し、そこから乗り越える道を探ったのが、「構造主義」であり、小泉内閣が、この構造主義に立脚した改革(という名の権力維持機構)を唱えている時代に、旧態依然として、唯物史観に漬かって、陳腐な「経済理論の価値独立」を唱えても、単に「抵抗勢力」「旧守」と揶揄されるだけだ。
現代は、科学的知識と知的創造の激流社会である。
創業者、巨人と言われる者が次々に倒れていった昨今、それぞれが、残した言葉の中に、「急激な変化に追いつけなかった」と言う言葉がある。
竹中氏自身、「経世済民」という言葉を使って、経済が、主体である認識者と、客体である「民」から、独立したものでありえないことを示している。
竹中氏は、古い、「経済の価値独立」を勉強し、その後のポスト・モダンを経て、つまり、構造主義を経て、人間認識の構造は、主体認識の「位置」から、独立では在り得ないことを理解して、行動しているのである。
竹中氏を批判することは必要であるが、同レベルの「世界認識」か、それを乗り越える「世界認識」から、批判するのでなければ、対抗することは出来ない。
だから、「愚民」と呼んでいるのだ。
安直に、「新聞データ」や、漫画本、漫才ネタからの知識の受け売りや、生の見込みで、妄想を膨らませ、他人を罵倒して、論理を展開するのではなく、原書を読み、「現実世界」「生活世界」に常に接し、中に居ることを認識して、抽象論ではなく、具体的な日常体験から、語り始めるべきだ。
そうすれば、難解さは無くなる。