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株式日記と経済展望
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http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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Shall we Dance?と シャル・ウィ・ダンス?の違いは何か?
伝統に対する認識が日本はアメリカよりもヨーロッパに近い
2005年11月13日
◆Shall we Dance? シャル・ウィ・ダンス? シカゴ発 映画の精神医学
http://eisei.livedoor.biz/archives/21366534.html
言うまでもなく、周防正行監督の「Shall We ダンス?」のハリウッド版リメイクである。役所広司役がリチャード・ギア。草刈民代役をジェニファー・ロペスが演じる。いかにも・・・という感じだ。
私は周防作品が大好きで、当然「Shall We ダンス?」も好きである。だから、あえてイメージを崩したくないというか、もとの作品が素晴らしいだけに、リメイクがそれを超えるということもありえないので、見たいとも思わなかった。しかしながら、私の家内がどうしても見たいというので、「Shall we Dance?」に付き合う。
いや・・・良かった。本当。三箇所くらい泣いてしまった。考えてみれば。元の話がいいわけだから、面白いのは当然だ。しかし、予想外に完成度が高い。
正直、リチャード・ギアの主人公ってどうよ? と思っていた。リチャード・ギアも、最近は「プロフェシー」とかロクなのにしか出ていない。「シカゴ」は良かったけど、完全に女優にくわれてしまっているし・・・。この作品では、彼の無個性ぶりが、役所広司にピッタリとはまる。リチャード・ギア、久々の当たり役だ。
ジェニファー・ロペスもどうよ? と思っていたが、変なオーラを放っていないで、ちゃんと「普通のダンス教師」の役にはまつていたのは、意外だった。
一番笑えるのは、渡辺えり子役の女性だ。体型やしぐさ、そして声までそっくりなのだ。竹中直人役の男性は、いまいちか・・・。あまりにも、竹中直人の演技が凄すぎるから、しょうがない。
基本的に、日本版とストーリーはほとんど同じ。リチャード・ギアの家族の話がすこし膨らませてあり、厚みをもたせてあるが、それ以外はほぼ同じ。演出まで、そっくりだ。監督も出演者も、日本版「Shall We ダンス?」を何度も見て研究したのではないかと思わせる。役者の動作とか、表情まで似ていたりするのだから。
笑わせどころもまた、日本版とほとんど同じだが、観客の笑いの反応は良かった。アメリカ人観客も、この作品をかなり楽しんでいた様子である。個人的には、舞台がシカゴということで、余計楽しませていただいた。「電車=シカゴ」なんだね。アメリカ人のイメージは。見慣れた風景がたくさん登場していた。
いやあ、「シャル・ウィ・ダンス」、本当に見逃さないでよかった。「ザ・グラッジ」もそうだが、日本映画のハリウッド・リメイクは、意外と良い。
◆ピーター・チェルソム監督『Shall We Dance?』を見る 物語三昧
http://petronius.ameblo.jp/entry-dd6a352e56320538ba520cb89306b0ca.html
(前略)
よく米国とアジアの違いは、横と縦の違い、と文化人類学的に比較されます。
米国人にとって親孝行(=親や子供を大事にする)という価値観よりも、横(なによりも配偶者と友人たち)が優先するのです。逆に、日本や韓国、中国などアジア人(実は中身は微妙に違うが)は祖先崇拝感覚が強く、妻(他の氏族)との関係よりもそもそも「イエ」の方が優先するので、親への孝行と子供への関係の方が、重要と長年考えられてきた(らしい)。
ここに西洋文化による騎士道精神から発達したロマンティックラブが微妙にエッセンスされて、米国においては、「配偶者との関係」というものは、強烈な純粋さを持つ「ものでなければならない」という圧力が存在するのだ。
じゃ、なんで離婚が多いの?。
とか突っ込まないでくださ(苦笑)。これは、文化の型を云っているのです。それ以外に近代の女性の経済的自立の問題もありますし、なによりもそういった倫理的基準による圧力が大きいせいで逆に結婚が長続きしないという逆説も存在すると思うので。
まぁ難しい話は置いておいて、
つまりですね、この話の本質は「日常の退屈さ」に倦む主人公が、はじめは「ダンス教師へ憧れ」にはじまり、その憧れが「ダンス」という非日常へ主人公を連れ出すことにあります。その非日常の中で主人公は癒されるわけですが、リチャードギアのあの後悔溢れた懺悔の演技は、
それを世界で一番大事な妻と一緒にできなかった自分を悔いている、のです。
彼は自分が許せなかったんです。
なんとかっこいい男だ!!!。
僕はここで、涙がとまらなかった。(そのとき流れる音楽も、またいい!)
それに不器用で言葉では説明しない男性の演技をさせたら、リチャード・ギアは天下一品。
『プリティーウーマン』の実業かも、ほんとうは物凄いロマンチストなどだけれど、それを忘れて経営者をしているうちに、自分でも自分が仮面を着けていることを忘れてしまった孤独な男を演じていました。
たぶん、団塊の世代(いわゆる周防監督や役所広司)までの日本的家族観は、どうしても強烈に家族優先主義の色合いが強く、バブルの80年代を超えたあたりを子供時代・青春時代に原体験を持つアメリカナイズされた世代とはかなり異なるのではないでしょうか。
僕は断然、米国の解釈に共感しましたし、日本版も素晴らしかったがあーこれは疲れたオヤジが見る作品だなーとも思いましたもん。あのころは、『失楽園』に代表されるオヤジ世代の終身雇用制が崩れる中での不安感を煽る作品が広範囲に売れた時代でしたので、その臭みも強く感じました。
そういう意味でこの夫婦の描き方で、
実は脚本の本質がいっきに変わってしまうのです。
同じ、「日常の倦怠感」からの脱出でも、
日本版は男性側からのみ描かれていて、
米国版は、夫婦というものを主体に描かれているのです。
これは非常に興味深い日米文化論比較だったと、思いました。
(私のコメント)
ダンスというと日本人はあまり踊らないように思えますが、実際には夏には盆踊りやお祭りには踊りがつきもので、商店会などでも阿波踊りやよさこい踊りなどよくやっている。ところが社交ダンスとなると、地方の温泉旅館などでチークダンスなどといかがわしいイメージで見られる。事実社交ダンス教室は最近まで風俗営業の中に入っていて、日本版の「シャル・ウイ・ダンス」のダンス教室もダンスホールも風俗店の並びにあった。
欧米ではダンスパーティーは当たり前のようにありますが、日本では風俗営業でしかない。その辺の文化のズレが映画の面白さだったのですが、ハリウッド版の「シャル・ウイ・ダンス」は中年男の心の迷いと家庭の奥さんへの後ろめたさが作品の主題になっていた。実際の生活でもダンスパーティーには夫婦で出かけて夫婦で社交ダンスを踊るのが普通なのでしょうが、日本では夫婦でも社交ダンスはまず踊らないし、踊ってもバーやクラブのホステスがほとんどだろう。
ハリウッド版の「シャル・ウイ・ダンス」は主演女優がジェニファー・ロペスだけあって、スタンダードな社交ダンスよりもより情熱的なラテンダンスが似合いますが、アメリカそのものがラテン化してきており、映画のエンディングのナンバーもラテン音楽だった。日本版のほうはあくまでもスタンダードが基調でその意味では文化的にはヨーロッパ指向なのだろう。
日本版では役所広司でハリウッド版ではリチャード・ギアが演じていますが、どちらも一応の成功者像で、郊外の一戸建て住宅に緑の芝生に車と同じで、電車通勤などのライフスタイルはニューヨークやシカゴといったところで見られますが、そこが東京と似ている。決まりきった電車通勤で倦怠感でいたところを途中下車してダンスに通うのが転機になるのですが、人生も同じなのだろう。
途中下車などいつでも出来そうですが、電車の窓から見える美女がいなければ途中下車などしなかっただろうし、電車とは目的地までまっすぐに乗って行くものという概念にとらわれていますが、電車という便利な乗り物に慣れすぎてしまっているのだろう。電車から電車へ乗り換えることはあっても、途中で降りることはまずない。車通勤だと絶えず前後に目を配り疲れるから途中のドライブインに立ち寄る。便利すぎると考えずに済むから楽ですが倦怠感も覚える。
日本の映画がアメリカでリメイクしても違和感がないのも、文化レベルも生活レベルもほとんど同じレベルで、同じ問題に直面しているからだろう。むしろ歴史的な蓄積があるだけ日本のほうが精神レベルは豊かなのかもしれない。アメリカで昔話をしろといってもアメリカには昔がない。せいぜい西部劇の時代までですが、日本では鎌倉時代の物語がテレビの大河ドラマで放送されているくらいだから、歴史的な奥行きの深さが違うから伝統に対する認識も違ってくる。その点ではヨーロッパに日本は近い。
日本人は絶えずアメリカ人から「構造改革しろ」と強迫観念に駆られていますが、もっと伝統を重んじろという声は日本人に当然ある。それがアメリカ人には守旧派とか頑固とかに思われますが、ヨーロッパ人なら伝統を重んずるということは理解できるだろう。むしろ倫理や道徳などは伝統があってのものであり、それが構造改革されることはほとんどない。ところがアメリカ人は倫理や道徳まで改革しようという程の改革パラノイヤだ。
最近のアメリカ映画を見ていると変えてはならないものまで変えてしまって、映画を見ても違和感を感ずることが多くなった。ハリウッド版「シャル・ウイ・ダンス」は家庭という伝統を守れとメッセージがあるから、ハリウッド映画としては伝統派の映画ですが、オカルト映画やホラー映画などはキリスト教的な伝統を破壊する映画だ。そのようなモラル破壊の映画がアメリカ映画には多すぎる。