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古都での散歩――警備、諜報、テロ、暗殺、メディア、謀略……
御苑厳戒 市民の立ち入り禁止 14−16日米大統領入洛で(京都新聞)
http://www.asyura2.com/0510/war75/msg/1397.html
投稿者 熊野孤道 日時 2005 年 11 月 10 日
話は上記に関してである。レス投稿に警備に関する投稿を多くしたのであわせて参照されたい。
報道によれば大規模に警備をしているようだが、当然ながらアメリカの諜報機関の人間も警備のために来ていることだろう。ひょっとすれば道ですれ違う人が実は「その人」であるのかもしれない。
そう考えると「映画のような世界」も案外身近に存在しているのではとも思えてくる。日常に見えている生活は実は非日常によって「支えられている」あるいは「支配させられている」なんてこともあるのではなかろうか。
例えばテロだってそうかもしれない。今年の7月に起きたロンドンのテロだっていわばそのテロのせいで日常生活が滅茶苦茶になってしまったのだ。いわばテロというものが主導権を握ってしまっているとも思える。
テロを理由に権利が制限される。それにより、普通に生活する一般市民には日常と言う生活が「非日常化」する。「非日常生活」が社会の主流になっていく。
このような生活は非常に息苦しいものであるはずだ。テロにしてもテロによる被害というよりもむしろその後に発生してくる様々な権利の制限が息苦しいのだ。
ではなぜ、人々はそれを望むのか。一つにメディアの影響が大きい。情報を入手する際には特に一般市民はメディアしか手に入れることができないだろう。もっとも書籍や直接当事者に聞くという手段もあるにはあるが大抵は労働して忙しい人々にとってそれは実際問題として不可能である。
そんなところにメディアを視聴したとき、一体どれほどの人がメディアを疑ってかかることができようか。もしもメディアを疑えば人は何を信じたらいいのかというような気持ちに陥るだろう。そして、何かこれはわざとらしい、やらせのようだ、胡散臭いと思いつつもメディアを見聞きし、信じてしまう。自然と溶け込んでいってしまうのだ。
例えば私だって、やはり特にテレビなんかどんなに注意深く見ていてもどうしても、「ああ、本当なんだな」とうっかりしてしまうことが常である。というよりもテレビ=事実という考えが頭の中で考える間もなく自然とそうなってしまっている。体が自然とそういうのを覚えてしまっていると言った方が正しいのかもしれない。
特にニュースの「生中継」なんかはその臨場感あふれる様子でリポーターが興奮した様子で実況中継を行う。テレビ局のスタジオによるキャスターもそれに負けず劣らず秒単位でニュース情報を更新していく。
いわゆる「特別報道番組」などはCMを飛ばし、現場を常に写し、画面の隅には「枠」が設けられ、キャスターの声とともに字幕が流れていく。
これを見ているとその画面に釘付けになり、吸い込まれてしまっている。見ているこちらも何か歴史の大事件の瞬間を見ているんだという優越感に浸り、興奮してしまう。
よくよく気がつけばテレビというメディアに振り回されていることになるのだが、見ているその時はそんなのは気づきもせず見続ける。
これぞ正にテレビの「魔術」と言えるのではないだろうか。人を「魅了」させ、テレビから離れることを「許させない」。
申し訳ない。話があっちへいったりこっちへいったりしてよく分からない文章になったが、とにかく「テロ」もそうだが「メディア」に気をつけて欲しいということである。
話を最初に戻すと古都での会談に関してだった。どうであろうか、大げさに言うのであれば「戒厳令状態」の京都にて果たしてテロなどできるのだろうかと疑問に思う。
しかし、私はこうも思う。警察官が大勢動員しているようだが、紛れ込んだ「要員」がテロを行うとするならば…。木は森の中に隠すと見えなくなるのと同じように思うがいかがだろうか。