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どうやら、知者というのは「単に知識が深く広いだけ」で糞の役にも立たないようである。
人間には「自分を基準にしか相手の事を判断できない」という傾向がある。どうやら、知者には人一倍そのような傾向が強くなるようである。
知者は論理を重視するあまり、想像力を失ってしまうようである。言い換えれば「たちの悪い一元論に陥ってしまうのである」
例えば、新自由主義という考え方がある。弱肉強食の階級社会であるが、人間が「才覚次第では自分の生きたいように生きられる」のであるから、ある意味では一つの方向性である。しかし、それも「他人に理不尽な不利益をもたらさない範囲」という前提があるのだろうとKは思う。
社会というのが成り立つには「最低限のルールがある。」とKは思う。それはどのような主義(共産主義・社会主義・リベラル主義・自由主義社会・新自由主義・それ以外の主義)に属するものであっても、社会の構成員の最低生活の保障と向上を図りながら、その上で(余剰部分を利用して)能力に応じた報酬等を設定し、生産力の向上を目指すのが本来のあり方である。
それは「自由主義までの事であって、新自由主義では違う」という見方は現在を見れば成り立つのかもしれないが、そうだとすれば、それは「社会維持の制度ではなく、社会を破壊する主義」なのだろうと思う。カースト制というのはピラミッド型階級制度ではあるが、最上層部が社会を支える構成員の底辺部分の「生存権までを利益にして詐取しだせば」崩れ去るしかない(社会の制度が崩壊する)のである。
ある知者は、通貨発行権を有する国家は「どれほど、累積債務が積みあがろうと是正を求める必要は無い」と主張する。その主張の意味はK程度では理解できないほど「超高度な論理に基づいている」らしい(理解できないので推定表現にならざるを得ない)。
知者と言うのは智者ではないので、愚民には理解できるような「言語変換能力は持ち合わせてはいない」のだろう。「相手が理解できないのは蔑称を持って評価すべき事柄」と思ってでもいるようであるが、まあ、愚民の想像なので真相は不明である。たった一つハッキリしているのは「知者はKに分かるように説明はしてくれなかった」という事実だけである。
Kが鰯頭で愚考すると、どうやら知者と言うのには「自分の知識内で論理的にあり得ないと判断できる事は、一般通念的にはとんでもない問題であっても、何の対処も不要だし、是正を求めるならば犯罪」となるようである。
言い方を変えれば「自分の有する知識の範囲から論理的に説明できない事は実現することはあり得ない」との憑き物に憑かれている。とも言えるのだろう。
しかも、たちの悪い事には「知者は、論理的に説明しなければ何も聞こうとすらしない。」のである。
想像力が欠如していると言うか想像力を否定していると言うか、ともかく、理論的に説明のできない事ならば「主張する事そのものが悪」とするようである。
まあ、それでもそこまでならば「個性の範囲である」しかし、どうやら、知者は「自分から議論の無駄(愚者を相手にするのは無駄と言う主張は十分に理解できる)を主張し、一方的に議論の打ち切りを宣言しながらも、自分の疑問点は『無視が心苦しい表現』で臆面も無く尋ねてくるのである。
議論においては、現実認識・相手の主張の問題点から想像される未来・自分の主張する方法論によって達成されるであろう推測上の効果・法律論・理想論といったものが混在した状態で使用される。
例えば「現在の新自由主義の流れの世界ではその方法論は受け入れられる可能性は低い」という主張をしたからと言って、それは「新自由主義を正しいと思っている事にはならない」
現状の認識から判断すれば方法論には問題点があると言う指摘そのものは「反対論」にすらならないのである。反対論と言うのは「相手の考え方の根本を否定するか、別方向を示す対案を提示する」というどちらかの定義に当てはまる必要がある。「積極的同意の拒否=反対」というのは二元論的思考である。同意はできないと反対は違うのである。
しかし、知者は論理的思考を好むので思考結果は常に「是か非」もしくは「可か不可」というデジタル的なものになる。もちろん、人間であるのだから「常に」というのは間違いであろうが、一般的な人に比べてその比率は段違いに高い事が推測できる。つまり「知者は智者ではなく、賢者にはほど遠い」という推測が成り立つのである。
知者とやり取りをしていると「時々、とんでもない質問がされる事がある」
Kが愚者であるから理解できないのかもしれないが「国家累積債務は増え続けても、その危険性が論理的に説明でき無い限りは問題は無く、放置も可」であり、ニュアンスによっては「むしろ、更に債務を増やす事こそが正しい」との考えのようだが、まあ、この辺は考え方であり、視点切り替え(低所得者の生活に対する影響だけからの視点とか)によっては理解できない事はないのだが、問題は「理論的に説明ができない事は正しくない」と言う思考が常に付属している点である。
その場合、文の前後やこれまでの経過から「ここまでの共通認識はある程度成り立っている」という認識は「明文化はしていない」の一文で否定されてしまうのである。それでも、該当箇所を示し、積極的な賛成とは言えなくとも「ここまでの共通認識はできたと考えられる」という根拠を示す事は可能であるが、それこそ時間の無駄である。Kは再三主張しているが「それほど暇な身分ではない」のである。
Kは思うのだが、知者は知者なので「チョット想像力を使えば、Kが書いていることくらい。書いている以上に理解できるだろう」と感じている。「一を聞いて十を知る」ではないが、Kの拙い表現力では表現できない部分も含めてKが何を書きたいのか理解する事も可能なはずだろうという意識を持っている。ここはKの勝手な考えである事は分かってもいるが、まあ、知者は智者ではなく、単なるデジタル思考の理論主義者なのだろうから仕方が無いことである。
智者ならば「税収の増収」としたでけでは「庶民増税」とは受け取らないだろう。
「累進性強化」と聞いただけでは「所得税の累進性強化」と短絡的には捉えないだろう。
二重課税のみを論拠にして「考察もせずに反対論は唱えないだろう」それは可能性のある方法論の封殺になる事を知っているはずである。
法律の条文のみを拠り所にした「反対も唱えたりしない」だろう。法律は社会を良くする為の一種の方便であり、理念は必ずしも明文化しきれるとは限らないのである。不都合があるならば変えれば良いのである。
理想論を達成する事は「政治的手法もしくは革命によってにすべき」とは言わないだろう。理想を達成するには「庶民の大多数が理想を求め、理想は達成できる」と意識改革しなければできはしない。政治が少数意見から各個撃破して強制的に作り上げるという手法を使用する現在において「政治家になることなどは何の意味もなく」「革命という暴力的手法からは『憎しみの連鎖』しか生まれないだろう。(革命の定義についてはどうでも、イメージ的には)」
癌の患者に治療をすることは「結果的に死期を早める結果」を生み出すかもしれない。しかし、可能性があるならば、多くの人が治療の努力をするだろう。何もしなければ、苦しまないかもしれないし、結果的にはその方が良い可能性は否定できないが、それでも確実に死期は迫り、間違いなく死ぬ。治療を受けなければ「癌に殺されるのを待つ」だけである。
モルヒネを打ちながら(苦しまないようにしながら)死期を待つという方法論は一つの考え方だと思う。場合によっては「早ければ1ヶ月、長くて3ヶ月」との判断が1年程度になる可能性もないわけではない。しかし、それは「手遅れであり、可能性が極めて低い場合の選択時の考え方」だろう。
智者の考え方ではなく、知者の考え方である。
工夫も無く、想像力も欠如しているのが知者であるならば、コンピュータの方がよっぽど知者である。人間としての価値は無い。