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(回答先: これは「おっさん」「 Sirent Tears」「デラシネ」各氏への批判であり「あっしら」氏への批判でもある 投稿者 ODA ウォッチャーズ 日時 2005 年 11 月 09 日 11:02:34)
「自分を受け入れてもらえない」のと、「自分は差別されている」のは違うぞ。
ただ自分の気持ちを押し付けているだけでは、人の心を動かす事は出来ないし、「自分は正しいんだ!だから、自分を認めない人間は皆んな悪い奴なんだ!」では、誰もが、ますます君から離れて行ってしまう。
人は、分かり合う事ができるだろうか?
いや、かえって人はワガママになる。
「自分は良い人間だ。あの人も良い人だ。だから、自分の事を分かってくれるはずだ」と、相手の気持ちや立場を考えずに自分の気持ちを押し付けてしまう。
反対に、「分かり合えない」と思うからこそ、人は、「どうすれば分かり合えるか」を考える。そこに健全なコミュニケーションが生まれる。
この世に「善人」などいない。「悪人」もいない。「善」と「悪」を両方持っているのが人間だ。
だからこそ、人は自分自身の中にある「悪」に悩む。「善」に希望を見出す。
自分の中にある善と悪に振り回されず、自分自身を「正しく使う」為に、神や仏の教えを学ぶ。「自分」と自分が取り巻く「世界」の状態やつながりを見極める為の基準を求めて、哲学する。
同時に、相手の心の中にある「悪」に、自分の中にあるものと同じもの見つける。そこに他者に対する「哀れみ」が生まれる。そこから、他者の罪を許す勇気が生まれる。
だが、今の君は、そのどれでも無い。君自身が持つプライドに支配され、振り回され、そこら中に当り散らしているだけだ。
「差別主義者」のレッテルを貼る事で君自身のプライドを満足させたいのなら、そうしなさい。俺は別に困らないし、「口先だけで全てを動かせる」と思っている奴など現実の世界では役に立たないから。
だが、いくら自分で勝手に作った「正義」で自分自身を飾っても、誰も君を分かってくれないだろう。